こわれゆく女

ALLTIME BEST

劇場公開日:2023年6月24日

こわれゆく女

解説・あらすじ

精神を病んだ妻とその夫の愛と葛藤を描き、ジョン・カサベテス監督の代表作の1つとなった傑作ドラマ。

専業主婦のメイベルは、土木工事の現場監督を務める夫ニックや3人の子どもたちと暮らしている。精神バランスの不安定なメイベルは、ある晩ニックが仕事での突発的なトラブルで帰宅できなかったことを発端に、異常な行動を見せるようになり……。

カサベテス監督の旧友ピーター・フォークと妻ジーナ・ローランズが主人公夫婦に扮する。

1975年製作/147分/アメリカ
原題または英題:A Woman Under the Influence
配給:ザジフィルムズ
劇場公開日:2023年6月24日

その他の公開日:1993年2月(日本初公開)、2012年5月26日

原則として東京で一週間以上の上映が行われた場合に掲載しています。
※映画祭での上映や一部の特集、上映・特別上映、配給会社が主体ではない上映企画等で公開されたものなど掲載されない場合もあります。

スタッフ・キャスト

全てのスタッフ・キャストを見る

受賞歴

第32回 ゴールデングローブ賞(1975年)

受賞

最優秀主演女優賞(ドラマ) ジーナ・ローランズ

ノミネート

最優秀作品賞(ドラマ)  
最優秀監督賞 ジョン・カサベテス
最優秀脚本賞 ジョン・カサベテス
詳細情報を表示

関連ニュース

関連ニュースをもっと読む

映画評論

フォトギャラリー

  • 画像1

(C)1974 Faces International Films,Inc.

映画レビュー

4.0 クロース・アップ

2024年4月19日
PCから投稿
鑑賞方法:その他

興奮

知的

ジョン・カサヴェテス監督作品。

本作も顔のクロース・アップが多用されている。彼女の異常な振る舞いに引きつる顔たち。いつ場面が、家族が、彼女の精神がこわれていくのか。その緊張と弛緩の時間が流れていく。

彼女をヒステリーとして病理化することは危うい。彼女が壊れていく要因も理解できるからだ。夫婦の時間をないがしろにする夫。予定をドタキャンされて、その後すぐに大勢の同僚が家に来たら嫌だろう。さらに同族嫌悪ゆえか、冷たい義母。彼女を取り巻く環境も健全とは言い難い。
しかも彼女を治す心理的療法は現代からみたら間違いだらけのアプローチな気がする。

終わり方がいい。彼女は退院しても「症状」が完治したわけではない。興奮してカミソリを手にして、夫とのひと悶着で血を流すしまいだ。だが彼は彼女の傷を水に流し絆創膏を貼る。この優しさ。絆創膏で傷口を塞ぐように、彼の優しさが彼女の崩壊を塞ぐはずである。

パーティーの後片付けからベッドメイクをしてエンディングを迎える。これは日常への回帰だ。傷を抱えたままそれを修復する時間をもつ日常。彼女の崩壊がささやかな優しさで塞がれる日常を想う。

コメントする (0件)
共感した! (1件)
まぬままおま

4.5 人間の内面に潜む“孤独”や“狂気”を見つめたカサベテスの傑作

2023年6月28日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

泣ける

興奮

 精神を病んでいく妻メイベルをジーナ・ローランズ、その夫ニックを「刑事コロンボ」のピーター・フォークが演じています。美しく陽気で、まわりを明るくするメイベルですが、あることを発端に、異常な行動をみせるようになっていきます。その姿に見る者は心をかき乱されずにはいられません。

 瞳の奥に宿る感情、顔の表情や身体の動きひとつで、リアルを超えた生々しさをローランズが表現。さらに、カサベテスの実験的な演出とカメラワークにより、心の揺れが見ていて痛いほど伝わってきます。

 メイベルはなぜ精神のバランスを崩してしまったのか。こわれゆくのは誰なのか。映画に対する見方が変わることでしょう。

コメントする (0件)
共感した! (4件)
和田隆

4.5 真実を顕わにさせる映画の力---もうひとつのアメリカ社会

2026年10月4日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

怖い

知的

斬新

凄いのを観た。
濱口竜介『他なる映画と 1』で、この映画を知る。メイベル(ジーナ・ローランズ)が病院に収監される直前の演技が、「映画史における最高の演技場面の一つ」であり、「この世にこのような演技を生み、かつ持続的に記録した映画が存在しうるのか、と見るたびに驚く」とあるのだが、その内容からして、映画館という半ば拘束される環境でなければ自分には観れないだろうと、シネマブルースタジオへ赴いた。

シネマブルースタジオもカサヴェテスも知らずにいたのだが、まず北千住のシネマブルースタジオというのが、フィルムセンターやアテネフランセのようなラインアップで嬉しい。体育館のような天井の高い広々とした空間での35mmフィルム上映。心なしか、遠い昔に信濃町の慶応義塾大学で「いちご白書」(1970年)を観た記憶がよぎる。四谷自治会の主催だったか。遠い昔と言っても、すでに1980年代になっており学生運動は終焉していて、ただ残り火だけがちらほらしていた頃だ。
体育館と言ったが、スクリーンは大きくて観やすく、音響も悪くない。視聴環境は良好である。だが観客は数人だけ。旧足立区役所跡地に建てられた複合ビルの一室で区役所の関与はあるのだろうが、運営費に公的資金の投入はなさそうで、やっていけるのか心配になる。ぜひ応援したいものだ。

カサヴェテスも私の盲点だった。ハリウッドに抗したインディペンデントという立ち位置。自らの借金により制作し、上映館も自ら開拓し、大学キャンパスでも上映されたという(Wiki 英語版)。ハリウッド映画は敬遠していたので、(1980年代の)私の視界に入ってこなかったのだろう。
こういう話を聞くと、アメリカ合衆国という国の奥深さを感じる。対抗勢力を常に生み続けるという。

1 1970年代アメリカのありきたりな家族の物語

公開は1974年。ニクソン/フォード共和党政権。ベトナム戦争の負担に喘ぎ、オイルショックに見舞われて、厚い中間層の繁栄が揺らいできた時代と言えるだろう。1980年代のレーガン以降の新自由主義による格差拡大はまだ先の話となる(レーガンはまだカルフォルニア州知事)。今の時点から眺めると、まだまだ厚い中間層は繁栄を謳歌していたといってよかろう。

だから、この映画のロスの家族は、ごくありきたりな当時のアメリカの家族と言えそうだ。パーティーができる広い屋敷に住む子ども三人の核家族。しかし上流層ではなくて、夫は土木工事の現場監督者であり、水道管が破裂すれば夜でも現場に行かなくてはならない労働者。家計は夫が支え、妻は専業主婦。典型的な当時のロウアーミドル層といっていいだろう。しかし、経済は下り坂で生活の厳しさが増してきていた。

この映画は、そんな、ごく普通の家族の物語。そして恐らく、どの家族にもごくあたりまえに起こっていた出来事が描かれている。人によっては、特筆できることは何もない。つまらない平凡な日常だろう。

カサヴェテスは、この平凡な家族の日常を、これほどまでにもの凄い映画にしてしまった。そのままでハリウッド映画、いやアメリカ社会への批判となっているのだ。どう凄いのか。

2 この映画の凄さとは

濱口監督は前掲書で、あくまで監督という演出や撮影する立場でこの映画のごく一部分だけを取りだし、ローランズの演技の凄さと、それをフィルムに焼き付けたカメラワークの凄さを指摘し、この演技をフィルムに定着させるために、何度もリテイクを繰り返した壮絶な撮影と編集を推測する、なるほど!、という見事な分析だった。

濱口の美学専攻の卒論は「ジョン・カサヴェテスの時間と空間」というほどだから、この監督に相当傾倒しているようだが、国立国会図書館にでも行かないと読めそうもなく(『美学藝術学研究』22号)、この映画全体の評価はわからない。

濱口監督にはぜひカサヴェテス論を書いてもらいたいと望みつつ、ここではあくまで映画を観る側からの、この映画全体の凄さについてのカサヴェテス初見の一観客の感想を記してみたい。

そこで、まず濱口監督が絶賛したローランズの演技から言えば、映画の冒頭からその演技は奇妙なのだ。子ども三人を母親に預けるシーンの、ローランズの庭を飛び跳ねるような体の動き、家で指さし確認の動作。その奇妙さは、ラストシーンの直前まで続く。唯一、奇妙ではないのは、ラストの夫婦で部屋を片付ける動作だけ。ここだけが、夫婦の調和がとれている。
ローランズの演技への私の感嘆は、終始持続していたこの奇妙さだった。この演技はただごとではない。

絶妙なのは、この奇妙さが、決して異常というほどのものでもないことだ。エキセントリックな性格と言ってしまえば、よくあるタイプの人間にも見える。実際、ニック(ピーター・フォーク)は最初から「自分の妻は少し奇妙」と同僚に話している。多少の奇妙さはあるけど普通の日常なのだ。

そして濱口監督が絶賛した場面、ローランズが病院に収監される直前のシーンがくる。確かに、このローランズの狂気の演技は恐ろしく壮絶である。濱口が俳優同士の反応を引き出すために俳優にカメラを意識させないように望遠で撮っていると述べているように、このローランズの狂気は相手役への反応によるものだろう。ここは、誰が見ても、いけないのは激高するニックと、もっといけないのはニックの母親の態度、しかも精神科医がいるのももっといけない。火に油を注ぐようなものだ。売り言葉に買い言葉、権力者に対する反抗。そして、ついにローランズは境界線を突破する。確かに、幻覚を口にするローランズは、狂気に陥ったと誰もが思う。
正常から異常の境界線を越えたので病院に収監されてしまうのも、当然だ。いやそういう論理的な診断的な判断がなくとも、「映画史における最高の」狂気そのものの演技だから、病院に収監されてほっとさえしてしまう。

しかし、冷静に振り返ってみると、その正常から異常の踏み越えは、ローランズの日常の奇妙さも強調されていたため、連続しているようにも思える。正常かと異常の違いはわずかなようにもみえる。

だから、どんな人でも、ああなるのは当たり前のように思えてしまう。つまり、狂気への境界線のあいまいさ、境界線は簡単に踏み越えてしまう。周りの者により簡単に病院に収監されてしまう。
ローランズの持続した奇妙さと、この場面の狂気の、両者の演技の迫真性が、そう思わせるのだ。

注意したいのは、家庭での出来事だということだ。被害者は専業主婦の女性である。

ニック役のピーター・フォークに目を転じてみよう。刑事コロンボでお馴染みのフォークは、この映画に相当の資金を提供したという。こんな凄みのある演技をする俳優だったというのが驚きだった。

私にしてみれば、メイベルよりニックの方が余程おかしいし恐ろしい。でも、弁解の余地はありそうだ。社会がそうさせていると描かれているのである。

一家を支える大黒柱のニックは、土木現場に何か起これば夜でも現場に駆け付けなければならず、残業代が貴重な収入源なのかもしれないが、よく勤めている。現場では監督者として威厳を保たなければならない。自宅に部下を連れてきて食事を出すのも、当時ではよくあることだったろう。黒人などの移民の部下とも分け隔てなく付き合っている。社会人としては理想的な人物であるともいえる。
そして、子どもへの愛情は疑問符が付くものの、まあ男親としてはこんなもんだろう。妻へは、かなりの気遣いも見られ、浮気の気配もない。愛情たっぷりの男として描かれる。

しかし、妻への愛情より世間体の方を気にしている。メイベルを病院に収監させた後は、かなりイラついている。それまではメイベルについて職場で気軽に話していたのに、話題に上ることさえ嫌がる。明らかに、精神病院に収監した世間体を気にしている。
そのいらつきが、ついに、同僚(白人!)を突き落とす傷害行為に及ぶ。しかし、それでも職場では、なあなあで済まされるのだ。
また、この職場というのが、採掘場のような索漠としたものであることが印象的だ。戦場(当時だとベトナム戦争)を連想しても良いかもしれない。そうでなくとも仕事は戦争であると語られていた時代ではなかったか。

ここでは、家庭と職場が対比されているわけだ。メイベルは精神病院収監されるのに、ニックは許されている。だが、それは索漠とした戦場のようなものだからだと示唆されている気がする。

そして、映画はクライマックス、退院祝賀会になだれ込む。ニックは、もはや狂気にいるようで、私にはその行動が全然理解できなかったが、無理に解釈してみる。

メイベルは、退院直後なのだから、まだ不安でいっぱいだ。おどおどしているのは致し方ないだろう。でもメイベルは健気に振舞う。
そんなメイベルにとって致命的だったのは、ニックの「自分らしくやれ」という言葉だ。これは最悪な言葉である。まだ自分に自信を持てないでいる回復期の者にとって、「自分らしく」といわれても混乱するばかりだ。
ニックはなぜこんな言葉を吐いたのか。ニックのいうメイベルらしさとは、映画冒頭からの奇妙なメイベルのことなのか。そんなメイベルだからこそ愛していた。だとすると、ニックは何故そんなメイベルを否定して病院収監などをさせたのか。私はメイベルの奇妙さと狂気は連続していて紙一重だという感じたが違うのか。よくよく振り返ってみると、メイベルを狂気に追いやった直前に、別の家族の親子か家に来ていて大騒ぎをした事件が描写されていた。家庭内というプライベートな世界が、他の家族という社会に影響を与えていた。だからニックはそれが許せなかったのではないか。

つまりニックの理想は、プライベートな家庭と、パブリックな社会の完全な分離なのだろう。愛すべき妻は家庭内では奇妙なままでよい、しかし社会と接する場合はノーマルに振舞ってほしい。つまり、家庭にいるときにだけ「自分らしくやれ」という意味なのだ。

だから、この後の場面で、自傷に追い込まれるメイベルを救うのは子どもたちしか残されていないわけだ。三人の子どもたちがニックに追いかけられながら、何度も急な階段を圧倒的な勢いで駆け下りる場面。転げ落ちてしまうのはないかとハラハラさせられた名シーンだ。

こうして、メイベルは救われハッピーエンドとなる。夫婦は<正常>に部屋の後片付けを、キビキビと行う。この映画で初めて二人の動作の息が合う。これは痛烈な皮肉以外のなにものでもない。

もちろん、ハリウッド映画、いやアメリカ社会への皮肉だ。

まとめの意味で、その皮肉とは、

1 商業映画のよくあるパターン。狂気には必ず原因がある。だからその原因を除去すれば狂気は解決してハッピーエンドとなる。そこにドラマが生まれ、観客は満足する。個人の病気の快癒も、社会問題の解決もこのパターン。
これに対して、メイベルの狂気は原因が示されない。原因が示されない以上、入院しても退院しても解決になっていない。状況は、映画の冒頭から結末まで全く変わっていない。そもそも狂気だったのかどうかさえもわからない。ハッピーエンドになりようがない。同じ日常が続くだけだ、という皮肉。
2 当時のアメリカ社会の実情はわからないが、日本がアメリカ社会の引き写しだとすると、1960-70年代の経済成長を支えたマイホーム主義への批判。妻は家庭で夫は仕事という分担で、妻を家庭に縛り付けることで、夫は仕事に専念できる。仕事の論理をそのまま家庭に持ち込んだニックは、家庭のメイベルを狂気に追い込んだ。しかし、メイベルの感受性が鈍くて受忍の人だったら何も起こらなかった。妻たちよ我慢するなという皮肉。
3 本当は「仕事の論理」自体が問題なのだろうが、この映画では追及されていない。

映画は以上を言葉では全く語っていないが、眼前にありのままを突き付けアメリカ社会の真実を顕わにさせるという凄い映画なのだ。この映画から50年たったアメリカは「仕事の論理」が問題化し格差分断社会となった。カサヴェテスが、新作を撮ったらどんな映画になるだろうか。今こそこんな監督が望まれる。

コメントする (0件)
共感した! (0件)
翔亀

4.5 自分らしくあれ(ただし、周囲が望むように)――現代にも続く葛藤を描いた大傑作

2026年9月25日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

泣ける

怖い

斬新

9月の5連休、濱口竜介監督の特集上映を観に行こうとしたら、すでに連日満席。代わりを探して、たまたま目についたのが北千住ブルーシネマスタジオでの本作。カサヴェテス作品は見たことがないので、ネット検索で調べてみた。そうしたら、濱口竜介監督の東大の卒業論文は「カサベテスの時間と空間」がテーマだったとのこと。

「ジョン・カサヴェテスの映画を見てしまった人生と、見なかった人生。幸福なのはどちらか、わからない。しかし見たことを後悔した日は1日たりともない」

そんな濱口監督の言葉も見つかった。これはもう観るしかない。台風が近づく中、北千住に見に行った。観客はゼロ。開演直前に3人になった。そして、忘れられない強烈な観賞体験になった。

「愛しあう夫婦とかわいい子供たち。夫は懸命に働き、よき仲間に恵まれている。
 家族のために手に入れた一戸建て。
 美しい妻は3人の子供を愛情深く育て、夫をサポートし、夫の同僚や親戚にも、明るく感じ良く接している。
 思いやり溢れる親戚と地域共同体の一員でもある」
そんな〝理想の夫婦・理想の家族〟を描いている。ただし、その描き方が普通ではない。

物事には二面性がある。本作は、理想のダークサイドを描いた映画だと思う。70年代アメリカから現代の日本へと続いて世間に流通する〝理想的なあたたかい家族〟。保険会社や住宅会社がCMでいまだに流し続ける幸福な家庭のイメージをひっくり返してみせる映画だと感じだ。
「よき人生のダークサイドを認識してしまった人は幸福なのか?」ーー濱口監督の言葉はそんな意味ではないかと受け止めた。

英語の原題「A Woman Under the Influence」(影響下にある女)がテーマを明確に示している。A Womanはジーナ・ローランズ演じる妻メイベルだ。
映画は「家父長的な夫(男性的男性)の影響下」ということを明示して展開していく。しかし、それだけではない。理想の妻、理想の母、よき隣人であれというような社会規範の影響が描かれる。
妻メイベルは、善良で思いやり深い人たちに囲まれて、自分自身もその一員として立派に振る舞い、そうすることで、壊れていく。いや、それ以前から、無意識下で葛藤していて、破綻している。それを、妻のメンタル崩壊という形を取って物語化した心理的リアリズム映画なのだと感じた。

社会規範の影響下にあるのは、メイベルだけではない。ピーター・フォーク演じる土木工事の現場監督の夫ニックも壊れている。彼らの親や親戚、医者、ニックの同僚たちなど周囲の人々もそうである。
よき社会人、よき家庭人であれ。同時に、自由で個性的であれ、周囲の期待に応え貢献し、次世代を育て、愛情深い家庭を築くべきだーーそんなさまざまな〝よきこと〟が近代以降広まった。素晴らしいことだが、同時にそれは実現するのがすごく難しい。〝近代社会の呪い〟のようなものでもある。現在にも通じ、僕の中にもある葛藤を描いているという感覚だった。

印象的だったのは、メイベルが精神病院から退院し、半年ぶりに帰宅する一連のシーンだ。
親戚・家族や同僚、主治医も招いて、サプライズパーティでメイベルを迎えようという計画。すべて善意と愛情ゆえである。「メイベル、みんなが君を気遣い、愛しているんだよ」それを伝えるのが目的だ。
しかし、やっとの思いで退院したばかりのメイベルは戸惑う。それでも、立派に回復し、自分も皆と同じよき隣人であることを伝えようとする。それは、うまくいかない。ニックの母親は、ニックを嗜めて、家族以外の客を帰らせる。しかしそれでも彼女はリラックスできない。礼儀正し過ぎて、他人行儀で、その場を楽しんでもいるようには見えない。
ニックは、メイベルを階段の暗がりに連れていき「(これはお前のためのパーティだ。お前は自由に楽しんでいいんだ。だから)自分らしく自由に振る舞え」と怒鳴る。

「自由に、自分らしく振る舞っていい(ただし、私たちが望むような形で)」

これは本当にしんどい。こうしたダブルバインドは、現代の会社にも相当存在する(少なくとも僕は相当経験したと思っている)。

「個性を出せ(ただし、浮くな)」
「無理せず休め(ただし、成果は落とすな)」
「自分の意見を言え(ただし、組織の方向性と一致する範囲で)」
「挑戦しろ(ただし、失敗して迷惑をかけるな)」
「本音で話せ(ただし、場を乱すな)」

実際は、もっとソフトな言葉でコミュニケーションされる。そしてカッコ内の「ただし‥」は常に明言されない。〝空気〟を察して、自分で付け加えてしまうのである。

話を映画に戻すと、このパーティ場面は3つの潜在的な暴力を描いているということなのだと思う。
1つ目は、病院から帰っていきなり、完全回復した人のように振る舞うこと。
2つ目は、よき母、よき妻であり、貞淑で、従順で、明るく気遣いのできる人物という、社会の伝統的規範(お約束)に従っていると証明すること。
3つ目は、自分らしく、自由に振る舞う人であること。

本作は1974年公開だ。60年代のカウンターカルチャー・ヒッピー運動や人間性回復運動が大衆化して、「自分らしく生きる」が個人的な志向となりはじめ、同時に社会的要請となった時期でもある。それは、基本的には望ましいことなのだけれど、同時にそれは社会規範化(命令化)し、困難なことになる。ダブルバインドどころではなく、もっと複雑な要請だ。しかも一人一人自分らしい個性的方法で、複雑で、時に相反する物事を自分自身でマネジメントしなければならない。

多くの社会課題が解決し、豊かになったのに、なぜ生きにくいのかーーその答えの一つがカサヴェテスが本作で描いたような社会と家族の理想の困難さにあるのだと思う。
本作に出てくる人は、みな善良だ。よく人、よき隣人であろうとしている。ニックだって(かなり問題がある暴力夫だが)妻と子供を愛し、家族を養う責任を全うし、職場の仲間を大事にしようとしている。それがうまく管理できないから、感情的になってしまい、爆発してしまう。メイベルも同様だ。
ニックは周囲をコントロールしようとして、うまくいかないと周囲に向かって爆発する。反対に、メイベルは、自分が適応しようとして、うまくいかないと自分自身にその攻撃が向いてしまう。
そんな現代にも続く、普遍的な困難を、カサヴェテスは70年代に作品として形にした。それが一つの本作の偉大な達成なのではないだろうか。

妻の奇妙な振る舞い、〝こわれていく〟という描写は内面を映画として表現するとこういうことですよねーーということだと思う。
だからこそ、一連の大騒ぎが終わると、もう何もなかったかのように、夫婦と家族の日常に戻っていく。そもそも、この夫婦には、本作で描かれたようなことは現実に起きなかったのかもしれない。それぞれの内面で起きていただけでというような見方をしてもいいのではないだろうか。
だから本作では登場人物たちの成長や変容もないし、問題解決もない。ちょっとした波風が起きたかもしれないけど、これまで通り、良い夫婦でいましょうねーーそんな感じに収束していく。

「夢の工場ハリウッド」のお約束を無視する映画だ。配給会社はつかず、カサヴェテスは自ら配給にまで乗り出して本作を公開したとのこと。そして、インディペンデント映画の先駆けとなり、その後のお手本ともなったのだそうだ。これが別の側面からの本作の偉大な達成だ。

本作の制作の裏話を調べると、この映画と同様、刺激的なエピソードが満載だった。
本作は、演劇として準備された。しかし、カサヴェテスの妻でもあるジーナ・ローランズが「こんな作品を、何度も舞台で演じるなんて、私の身が持たない」ということで映画にすることにした。それだけ、役者への要求の高い映画であり、演出手法なのだ。

もう1人の主役は、僕らの世代には刑事コロンボでおなじみのピーター・フォーク。子供の頃の70年代、家族で熱中してみたドラマだ。決まり文句の「うちのカミさんがね」だって、みんなで真似してた(トイレの紙がなくなると「紙さんがねえ」と大声で家族を呼ぶのが、僕の家ではお決まりだった)。
そんなエンタメの世界のスーパースターが、実はカサヴァティスの盟友でもあったのだという。そして、コロンボ役の高額なギャラでの稼ぎを本作に注ぎ込んだ。
カサヴェテスも本作のために、自宅を抵当に入れたのだという。その自宅は、彼自身が、元々はハリウッドのスター俳優で、それで建てた家だ。
「ハリウッドは、すでに失敗しているのだ」ーーカサヴェテスは、そう批判しながら、完全にハリウッドから離れることなく、ATMとして利用してみせた。痛快である。一流映画人が、それほどの意気込みで作った作品が刺激的でないはずがない。

顧客のニーズを大事にして、高い技術力でそれを製品に反映し、顧客の課題を解決したり、望むことを実現するーーこれはビジネスの基本だ。しかし、その商品ジャンルに詳しくなればなるほど、「本当に大事なのは、こういうことじゃないんだけどな‥」そう思うことがある。
しかし、ニーズが顕在化していないものの販売は困難だ。企業において、そんな製品づくりをすることは身勝手な振る舞いになりかねない(これが「イノベーションのジレンマ」というものでもあると思う)。

商品開発には資金が必要だ。誰かに投資してもらわなければならない。そのためには、その商品はどういうものになるのか、説明責任があり、その説明に納得してもらわなければならない。それが事業計画というもので、計画が承認されてから、その計画通りの商品を作ることになる。
しかし、商品開発というのは、完全に計画できるものでもない。試行錯誤しながら、探求していく側面が相当にある。高いところを目指すほど、計画できないことが増えてくるし、探求作業は大事になる。探索することで、見えてきたことがあっても、事前計画に同意してもらって資金をもらったのだから、計画外のことをするのは、相当困難になってしまう。

そんな葛藤が、僕自身にとっては仕事のジレンマであったことも思い出した。会社組織とか資本主義の葛藤は、こんなところにもあるのではないだろうか。
でも、僕は未熟な職業人であっただけなのかもしれない。カサヴェテスとその仲間たちは、見事にそのシステムをハックして、本作を実現しているのだから。さらに、自己満足では終わらず、多くの後進に道を示すとともに、半世紀経っても、こうして上映され、刺激を与えている。

今をときめく名監督となった濱口竜介さんの作品を追いかけるとともに、カサヴェテス作品も、他のものも追いかけて行きたくなった。彼らの映画は、制作の過程が、彼ら自身にとっての冒険の旅、探究作業でもあるのだと思う。マーケティングを第1にせず、本気で探究する人こそ、信頼に足るじゃないか、そんなことを感じる作品でもあった。

コメントする (1件)
共感した! (1件)
nonta