<映画のことば>
「俺はこれからも幼稚でいる。」
「そうして。」
小学校の同窓会で、同じクラスだった女子から「小学生が、そのまま大人になったみたい」と言われてしまったことのある評論子(褒められた?貶(けな)された?)としては、何とも身につまされる、切ない一本でした。
ソナに、いわゆる「いいところ」を見せて、何とか彼女の歓心を買おうとするジヌに対して、同じくらいの年齢であっても、ソナはジヌよりは一回り「お姉さん」だった…「大人の女性」だった、より「大人の女性」に近かったということなのだろうと、評論子は受け止めました。
そんな(無駄な)努力などしなくても、ジヌのその「素直さ」は、ソナの眼には魅力的に映っていたことは、疑いのないことだったのでしょう。
まるで「見えない鉄のカーテン」でも張られているかのような、ソナとジヌとの間の、その懸隔が、何とも胸に痛い一本でもありましたし、その懸隔には気づくことなく、ただソナに自分をアピールしようと(無為に、無駄に)足掻く…あえて足掻くといいます…ジヌの姿が、観ていて哀れですらあったとも言えました。
たまたま同じ時期に鑑賞することになった別作品『ゼンブ・オブ・トーキョー』と、同じく高校生の青春映画としてもまた別の切り口(くち)として、青春時代のほろ苦さが、スクリーンを通じて余すところなく伝わるような作品でもありました。
その意味では、一編の青春ドラマとしては、充分に佳作としての評価に値するものとも、評論子は思います。
(追記)
何のために学ぶのか。
「いい大学に入るため?」
「学んでおけば、いつかは、何かには役に立つから?」
そう問われると、高校生だった頃の評論子も、明確に何かの目標、目的があった訳ではなかったというのが、正直なところ。
ただ、パズルを解くか、あたかもゲームか何かのように解法を覚えては問題を解くことの繰り返しの毎日だったと記憶しています。
もう、放送終了になってしまったようですけれども。
高校三年生の評論子は、当時は「大学受験生の決定版」ともいわれ「ラ講」と呼ばれていた「大学受験ラジオ講座」を聞いていたことは、今でも脳裏に彷彿します。
その講師陣のどなただったか、もう今は記憶しませんが、「大学受験を通して学んだことが、その後の人生で、一生涯の教養になる」という趣旨のお話をされていましたけれども。
人生も老境にさしかかった今の評論子になってみれば、その言葉にうそ偽りはないことも実感としては思います。
その意味では「学んだことは、決して人を裏切らない」のでしょう。
今は、学ぶことに意味を見いだせずに悩んでいる高校生レビュアーも、あまたの映画.comのレビュアーの中には、きっといらっしゃることとも思います。
その意味では、本作の「不要に見えても学んでおけば、得るものがあるはずよ。」というソナの言葉には、うそ偽りは微塵もないことを、念のため申し添えておきたいと、評論子は思います。
(追記)
大学修学能力試験…。
日本で「大検」といえば、また違った意味合いのものになりますけれども。
今は「センター試験」と言うのでしょうか、評論子の世代では、いわゆる「共通一次」(大学入学共通一次試験)の世代で、その試行版として実施された「プレテスト」も受験した世代になります。
往時が、脳裏に彷彿(ほうふつ)とします。