アフター・ザ・クエイクのレビュー・感想・評価
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原作読んでて、ドラマも観ていましたが
かなり昔に原作を読んでいて、先日のテレビドラマも観ていたので、配信で観られるまで待とうかと思っていましたが、タイミングが合い劇場で観てきました。
皆さんのレビューを見てると第4話、特にかえるくんのキャラクターに拒否反応を示される方が多い様です。テレビドラマで出て来た時には確かに違和感アリアリでしたが、劇場の大きなスクリーンで観ると何故か受け入れ易く、片桐さんとの生真面目なやり取りを楽しめました。
内容がわかり易かったり、泣いたり感動したりする映画ではないので評価低めなのも止むを得ないかと思いますが、たまにはこういう映画をじっくりと観るのもいいかなと思います。
ハマると思わせるほどの原作だったんでしょうね
地震の後の話なのだと思うのだが、とにかく訳が分からなかった。
阪神・淡路大震災、東日本大震災の後の物語。
4つの話が展開していくんだけど、地震と関係ない話もある。
そして、不思議な話が多かった。
映画館で予告を見ていて、見にいった作品。
村上春樹の原作。
学生の時に『ノルウェイの森』が爆発的に流行って、『ダンス・ダンス・ダンス』くらいまでは一通り読んだ記憶がある。
いつのまにか大巨匠になっていたイメージ。
社会人になってからも、『1Q84』は読んだりはしていた。
この映画の原作は読んでいなかった。
原作に忠実だったとしたら、映像化すべき話では無かったんでしょうね。
4つの話がもっと分かりやすく繋がってたりしたら大きく評価は変わったと思う。。
もしかして、何か繋がっていたのかもしれないが私には分からなかった。
最初の岡田将生の話は不思議な感じがずっとしていて、2つ目の海辺で焚火をしている話と、3つ目の新興宗教の話なんかは続きを見たいと思わせる内容だった。
最後の佐藤浩市の話は予告にも出てきたカエルくんが出てくる。
これはどうしようもなく理解が出来なかった。
さすがに、カエルくんは受け入れるのが難しかったかな。
まったく許容できないわけではないけど、あの着ぐるみを見ていると無理して理解したいとも思えなかった。
映画館で見たから最後まで見れたけど、自宅でサブスクだったら途中で止めるか早送りしてしまってただろうな。
村上春樹だから原作に忠実にじゃなく、映画に合うように手を入れれば良かったのに。。
ハマると思わせるほどの原作だったんでしょうね。
有料でデジャヴュ体験が出来ます。
村上春樹か?面白いのかな?と見に行き
劇場で見始めて、テレビでやったやつじゃん!?
見たけど途中であきらめたよねたしか。
2話の間少し寝てから
それでもラストは見てなかったから最後までみるか?
と頑張ったが、オリバーな犬同様支離滅裂で終り。
久しぶりに金返せ!!って思った。
テレビ見た人は行かないでください。
好きな空気感の作品だが、一本の映画としては厳しい
4部構成からなる震災に絡むお話。
後から知ったのですが、NHKのドラマがベースとなっており、原作は村上春樹作品。
第1部は「いかにも村上春樹」的な作品。何かを喪失した男が、謎めいた都合のいい女性に会い、再び人生を取り戻す話。喪失した岡田将生もいいし、都合のいい唐田エリカさんの存在感はやはり素晴らしい。
第2部は地方の浜辺で焚火をするだけの話。では、あるのですが、阪神淡路大震災と東日本大震災を結び付ける話。鳴海唯さんが素敵でしたし、最近の枯れてきた堤真一さんは結構好きです。
第3部は新興宗教二世が自分の出自を疑う作品ですが……。一部キャラクターが受け付けなくて少し苦手です。
そして問題の第4部。
第3部まで多少の好き嫌いはあれど、空気感的には好きなんですよ。最近の作品は読まなくなりましたが、村上春樹はもともと好きでしたし。しかし、最後の最後にアレをそのまま映像化してしまうと、一本の映画としてはリアリティラインがぐんと下がってしまう。
テレビで4週にわたって一話ずつ見ているのなら、問題ないのですが、一つのスクリーンで連続してみていると違和感しかないんです。
しかも、これまでの3部を結び付けるようなセリフや描写がしっかりあるので、完全なオムニバスとしても処理しにくい。
いい感じで紡いできた話が、どうにも安っぽくなってしまい、ダメでした。
P.S. 見はらし世代の直後の本作を見たので、黒崎煌代さんや木竜麻生さん、井川遥さんを連続してみることができたのはよかったです。
静かな絶望と、小さな祈り
村上春樹の小説からイメージした通りの映像だった。
独特の間と、深く沈み込むような音と映像。
テーマは、大きな悪、災難、不運。
そういうに個人では手に負えない悪と出会ってしまった人間の話。
そして、どこかで一見無関係な人がその悪と戦い、この世の平穏を実現させてしまう話。
震災直後の1話目は特に象徴的だと思う。
中身をどこかに持っていかれてしまった男の話。
かえるくんの夢、中身のわからない箱、どこかでつながっているんだよ、という言葉がほかのエピソードとゆるやかにつながっていく。
かえるくんがミミズと戦うという設定は一見すると寓話のようだが、実は非常に現実的だ。
「悪や怨嗟をため込んだ存在が、災害を起こさないように戦う」という構図は、人間の無意識や社会の記憶と重なる。
戦う、戦う存在を応援する、という行為は自分では意識して何かをすることではなく、心の痛みに耐えながら日常を営むことなのかもしれない。
妻を失った喪失感に耐えること、焚火をすること、踊ること、ごみ拾い、それ自体が祈りで戦いなのかもしれない。
暗い映画館を去る時には、もしかしたら、かえるくんを置いてきてしまったのかも、と思ってしまった。
深く深く、自分を沈めて、そこから帰ってくることを約束してくれるような映画。
失敗作ですなぁ
震災絡みの4編のオムニバス
観に行った方からわけわかんなかったから観て感想を聞かせてと言われて、いそいそと。
震災にまつわる4編のオムニバスなんですね。元々はバラバラな短編の原作を年代別に章立てでみせてくれる。
1話目 阪神・淡路大震災の後にいきなり離婚される若い夫婦の話。旦那の中身が空っぽと振られる。旦那は傷心旅行先の北海道で妖精みたいな女と出会ってすぐセックスする。
2話目 阪神・淡路大震災で家族を亡くして、毎日焚き火してる、たぶん画家の話。いつも行くコンビニの女の子が心中を持ちかける。
3話目 東日本大震災に宗教団体がボランティアに行くが、男の子が拒否する。
4話目 歌舞伎町の満喫で暮らす駐車場の警備員が、カエルと一緒に首都圏直下型地震を回避する。
ひとつひとつの話は、予期せぬ不幸にあった人、合わない人、結局は虚無感や孤独感をもちつつ、生きなければいけない現実を描いているのは理解できる。
ただ、元々バラバラのお話をなんとかつないで1本の映画にする試みがうまくいってない。
特に4話目のカエルの話が浮いてみえるのは、これだけが被災してない東京視点の話だから。当事者意識を持たせる意図はわかるが、実際に被災された方の立場に立つと言い訳がましく見えてしまわないか。
まぐわいとかえるくん
村上原作を、30年災厄史として再構築した寓話的傑作
公開1週間目の本日、観に行ってみた。星評価があまりに低いので、観るのをやめようかと思ったのだけれど、デビュー当時からリアルタイムで読み続けてきた村上春樹原作である。村上の本は、近年いくつか映画化されたけれど、おそらく著者の意向もあるのか長年映画化がほとんどされなかった。なので、村上ファンにとって貴重な機会である。
映画館の観客は10人程度。平日朝一番にしても、公開1週目にしてはかなり厳しい。あまり期待せずに見始めたのだけれど、最初の1995年では多少の違和感を感じつつ、その先に進むほどに引こまれた。鑑賞後の余韻も非常に強い。
日本の、そして自分自身の30年を振り返り、これからを考えさせられるものであった。また「ドライブ・マイ・カー」に続き、国際的な評価を得る可能性がある作品ではないだろうか。
原作を読んでいるかどうか、それと、村上の(現実と非現実の入り混じる)マジックリアリズム的世界観にうまく乗れるかどうか、その2点によって評価が大きく変わる作品かもしれない。
この映画には、村上の短編4作が入れ込まれている。原作を読んだのはかなり前で記憶が定かでないが、4作目以外は、かなり原作に忠実なプロットのようだ。1作30分程度だから、原作のディテールは再現できず、プロットだけが残ったような映画になっていた。僕は無意識に、原作の記憶で細部を補いながら観たことで、楽しめた可能性はあると思う。
4作のあらすじを組み合わせたような作りにすることで、各作品の寓意性や意味は原作よりも際立っている。
元々は神戸の震災とオウム事件の影響を受けて2000年頃に書かれた短編4作を「30年の日本の災厄史」として再構成したシナリオは見事だと感じた。なので、僕としては星は多くなる。
改めて僕なりの感想と考察をまとめてみたい。
「失われた30年」という言葉がある。1989年につけた日経平均株価の最高値を更新したのが2023年。株価というのは、長期的平均的には上がるようにできているから、30年上がらないというのは世界的に、また歴史的にみても異常事態だ。その間、バブル崩壊、ITバブル崩壊、リーマンショックという経済的災厄が続いた。
僕自身も同じ1989年にある専門職として会社員生活を始めて、今年その専門職からリタイアすることを決めて組織からも離れた。この間、自分なりにそれなりに努力し、達成したと感じたこともなくはないけれど、それでも日本の発展と成長のために、何もできなかったという気持ちが打ち消せないところがある。それはこの日本の30年余の状況と深く関係している。
本作は、「失われた30年」とほぼ同時期の1995年から2025年を「災厄の30年史」として物語化した作品だ。これは原作からの大きな再構築部分だ。
1995年の阪神淡路大震災、2011年の東日本大震災、2020年のコロナ禍、そして2025年現在の4つの年に4つの原作を配置している。そして、それは実は、別々の災厄ではなく、地続きの物語なのだということを(確か「ねじまき鳥クロニクル」で村上が描いた)時空を越えるホテルの廊下のイメージで表現していた。
災厄の連続としての時代認識を、登場人物の「世界はどんどん悪くなる」というようなセリフでまとめている。これはある種、監督の所属していたNHKの報道の姿勢でもあると思う。報道には、多くの善良な市民は、無力であり、自然災害や政治や経済、宗教のような大きな外部のシステムの被害者であるという物語作りが基本にある。
僕自身はニュース報道のこうしたナラティブが、自分自身の被害者性や無力さを固定化するもののように感じたこともあって、20年以上前にテレビ報道を見ることをやめてしまった。自分の軸というか、主体をなんとしても確立しないとという危機感があったのだけれど、テレビを見なかったおかげで、それが持てたかどうかは、今もよくわからない。
この4冊の原作(4つの年)を回収する役割を担うのが、唯一大きく原作から改変された2025年現在の4話目(「かえるくん、東京を救う」の後日談)だ。原作では、さえないけれど、誠実に働く信用銀行員だった片桐さんは、無意識下でかえるくんと共に戦い、東京を大地震から救った英雄だった。
彼は、年老いた数十年後の現在、ネットカフェ難民であり、警備員でなんとか生活費を稼いでいる。そして、信用銀行員時代に、金融の論理で多くの人の人生を破綻に追い込んだ記憶に苦しめられている。
片桐さんの誠実さは、金融組織の論理に対しての誠実さだったのだと、組織から離れたことで自覚し、罪悪感に苛まれるようになってしまっている。
片桐さん同様、多くの市民は無力なだけではない。例えば、企業組織という大きなものに所属し、それと一体化することで、力を持つことができる。企業や経済、金融の論理は、それ単独では、非人道的で、非倫理的な側面がどうしても含まれている。
だから、組織の論理にどっぷり浸かってしまうと、無力な個人であるだけではなく、知らず知らずのうちに、力と加害性を持った権力者になってしまうということが起きる。それを自覚するのは本当に難しいことだと思う。自分の悪の側面は、合理化という心理的作用で消し去られてしまうからだ。
大きな物の論理に乗っ取られてしまう一つの原因が、この映画のテーマとして、何度も登場人物から口にされる「空っぽな自分」という自己認識だ。これは、明治期の夏目漱石以来の日本文学の系譜でもあるし、現在の日本人の課題でもあると思う。この映画でも「空虚な自己」の認識を、この映画の4つの時期の4人の主人公に与えている。
1995年の主人公(岡田 将生)は、現代の普通のサラリーマンの「空虚な自己」への無自覚を体現している。
2011年の主人公(鳴海 唯)は、空虚を自覚し、同じく空虚を自覚する人物と、一緒に海での焚き火という小さな祝祭的な行為に熱中し、その炎の向こうに何か大事なものを見つけ出そうとしているようだ。
2020年の主人公(渡辺 大知 )は、やはり空虚で未熟でちっぽけな自分を自覚しているが、宗教2世でありながら、宗教という大きな物語に自らを託すことを拒絶している。
そして2025年の主人公の片桐さん(佐藤 浩一)は、空っぽな自己の空白部分に、組織システムの論理が入り込んでしまった。そして、その論理に従って生きてきたことに気づき、晩年となって、大きな後悔と罪悪感を抱えることになった。片桐さんは、そう自覚したからこそ、世界の片隅で、誰も見ていないかもしれないけれど、誠実にコツコツと日々を生き抜いている。
この「空っぽな自己」の認識こそが、村上春樹が世界的に評価される理由でもあると言われる。村上自身も、厳しい状況にある国、価値観が大きく変わった後の国で、特に読まれているようだと語っていた記憶がある。そうした状況では、これまで頼りにしていた判断基準が一度リセットされるから、空虚にならざるを得ないからだろう。
そして、それはVUCAと言われる変化の時代、そして多様な価値観を認めるというリベラルな時代においては、空虚な自己は、世界的な課題だ。状況が変われば、それに対応して価値観も変えざるを得ない。価値観は人それぞれであることを認めるなら、自分の価値観は自ら構築しなければならない。だからどうしても空虚を抱えざるを得ない。
このしんどい現在の世界を、「空虚な自己」の物語、同時に30年の災害史として再構築した物語は、日本人の今を語りつつ、同時にそれは世界の人々とも共有できるものになっていると思われる。
現時点での観客評価は厳しい。だけど、30年の日本の歴史を寓話として再構築し、「空虚の自覚」と「誠実な生き方」を描いたこの作品は、今後、再評価されていくのではないだろうか。今のうちに、この「空虚な自己」の物語を、静かな空洞のように空いている劇場で見ることで、最も深く響く鑑賞体験を味わえると思う。もちろん、本作に共感する人が増えて、劇場が混雑したらうれしいけれど。
知性は高いが刺激は少ない作品
難解
1995年、阪神淡路大震災の後、妻が突然姿を消し、失意の中で後輩に頼まれた小包を後輩の妹に届けるため釧路を訪れた小村(岡田将生)は、UFOについての不思議な話を聞いた。成り行きでその妹と一緒にいたシマオ(唐田えりか)と寝て、小包はあなたの中味だと言われ、始まったばかりと言われた。
2011年、家出した少女・順子(鳴海唯)は、海岸で流木を集めてたき火する男との交流し、自身を見つめていた。
2020年、信仰深い母のもとで神の子どもとして育てられた善也は、父について疑問を持つ。
2025年、警備員の片桐(佐藤浩市)はゴミ拾いをして、漫画喫茶で暮らしていた。そして、かえるくん(声:のん)と会い、ミミズくんの話をする。
良くも悪くも村上春樹原作だなぁ、と感じた。
この4編が繋がってると見るかどうかは鑑賞者次第なんだろう。
喪失感の繋がり、と言われれば確かにそうかもしれ無いが。岡田将生の話は、男が妻にあんなこと言われたら傷つくなぁ、と思ったが、夫に求めるものが地震で変わった、という訳でも無さそうだし。
唐田えりかはやっぱり魅力的だった。
焚き火と地震、あまり関係なかった様な、あの流木が東日本大地震のものって事?順子役の鳴海唯が存在感あった。
善也の話はよくわからなかった。カルト宗教に悩む息子かな?地震に関係あったっけ?
佐藤浩市の話はどうなんだか。かえるくんの声役ののんはやっぱり良かった。かえるくんとみみずくんはどう関係するのかわからなかったが、すずめの時もミミズって言ってたし、地震に関係あるのだろう。
ファンタジーの様な、何やってんだかわからない作品はどうも苦手です。
シュレディンガーの箱
数日前までドラマの存在すら知らなかったが、これだけ役者が揃うと観るよね。
2章目まではタイトル通り震災が影響してたと思うけど、あれ、3章目で大分離れた?
それでも喪失を共通項とした人間ドラマとして面白く見てた。
しかし、4章目でファンタジー増し増しになった上になんかバラけた印象。
いや、それまでも不思議要素みたいなのはあったんだけど、なんか最後だけ毛色が違うというか。
本来それまでの話を総括するポジションのはずが、変な方向に広げちゃったような。
奇妙な生物に導かれ、地下に潜む巨大なミミズと戦って地震を止める…
あれ、これ『すずめの戸締まり』じゃん。笑
しかも東京の地震は止めたけど神戸の地震は起きてたワケで。
というか、あの流れで熊本の震災には触れないのか。
のんの声もあってかえるくんのキャラクター自体はユニークだったけどさ。
スッキリどころかモヤモヤばかり増した。
芝居は全員言うことなく素晴らしかった。
未名にほぼ台詞がなかったり、順子がが三宅の前でだけ笑顔を見せたり…想像を刺激する部分も。
でもやはり3章までがすべて半端に終わっている印象は拭えない。
最後に彼らのその後を少しでも映してくれたらまた違ったような気もするけど…
村上春樹の日本人論
ノーベル文学賞の発表が迫る中、村上春樹先生原作の小説を映画化した本作を鑑賞しました。原作は未読ですが、六編から成るオムニバス形式の短編集とのことで、映画は四編で構成されていました。そのあたりの事情を知らぬまま観始めましたが、第一話は岡田将生演じる小村を主人公とする物語で、舞台は阪神淡路大震災直後の1995年。妻(橋本愛)が突然失踪し、呆然とする小村が、同僚から「小さな箱を北海道に運んでほしい」と依頼され北海道へ赴きます。中身の分からないその箱が、後に物語全体の鍵を握るとは、この時点ではまったく想像もしていませんでした。旅の途中で出会うシマオ(唐田えりか)との関係は、どこかロマンポルノ的な香りを漂わせ、予想外の展開に引き込まれました。
しかし、この路線で物語が進むかと思いきや、第二話では一転して舞台が2011年の東日本大震災直前の福島へと移ります。阪神淡路大震災で家族を失った三宅(堤真一)と、生きる意味を見失っていた順子(鳴海唯)の物語で、明日がないのに明日があるような――そのアンビバレントな余韻が、静かに胸に残るエピソードでした。
第三話の舞台はさらに時が進み、コロナ禍が始まった2020年。新興宗教の二世として「神の子」として育てられた善也(少年期:黒川想矢/青年期:渡辺大知)の葛藤が描かれます。そして第四話では、舞台が2025年へ。元信用金庫職員で、現在はビル警備員として働く片桐(佐藤浩市)が主人公のお話。のんが声を担当する「かえるくん」が登場し、最も物語がドライブするエピソードとなっており、ここで第一話に登場した「小さな箱」の謎がついに回収されます。
最終的に本作のテーマは「日本人論」にあるのだと感じました。“謎の箱”も、空虚な日本人の内面を象徴するメタファーと合点しました。バブル崩壊後、二度の大震災とコロナ禍を経て、自信を失った日本社会の現状を象徴する作品と見ると、バラバラに思えた四つの物語が一貫したテーマで貫かれていることに気づかされました。
もっとも、その構成が明確になるのは物語の終盤であり、それまではやや中だるみを感じる部分もありました。全体としては重層的で見応えのある作品でしたが、もう少しコンパクトにまとめた方が、より引き締まった印象になったのではないかと思いました。
そんな訳で、本作の評価は★3.0とします。
映画全体としてはイマイチ何だかなという
絶望の隣には希望がある
1995年は歴史に深く刻まれる大災害と大事件が立て続けに起きた。当時私は名古屋に居住しており大災害が起きた1月17日は早朝に新幹線で東京に出張に行くところだった。移動途中、地震が起きた事はわかったがスマホもない時代だったので最初は詳細がわからなかった。東京に着いたら関西が大変な事になってるとのことで、名古屋にとんぼ返りする事になった(新幹線はこだまの運行だけになってた)。名古屋の事務所に戻り、被災地へ向け何か助けることができないかということで、弁当工場をフル稼働させ、おにぎりを大量に製造してもらい支援物資として送ったりしていた。そして、大事件が起きた3月20日は、里帰り出産をした妻と3月の初めに生まれたばかりの娘に会う為、日比谷線の地下鉄に乗り妻の実家に向かっていた。サリンが撒かれた時間とはズレていたので難は逃れたが、。このようにして、私は阪神・淡路大震災も地下鉄サリン事件も直接には関わらなかったが一生忘れることがないであろう記憶がある。
原作は未読だが、村上春樹は「戦後の日本で1番不吉だった時、人々がどこで何を考え何をしていたのか」をこの本で書きたかったのだという、。なので、NHK土曜ドラマ「地震のあとで」の放映時は何となく自分自身の事も少し投影しながら見ていた気もする。
しかしながら、ドラマはかなり不可思議な展開だったので、何となく消化不良に陥っていた。
そんな中での映画版の登場である。岡田将生が友人から預かった箱の中身はやはりわからなかったが妻から三行半を突きつけられた手紙の通り、彼も箱の中身も「からっぽ」なのだろう。鳴海唯は自分自身が「からっぽ」であると自覚し家出をしたが同じく「からっぽ」になって久しい堤真一と焚き火を見つめ自死を仄めかしたが、眠りについた後には何もなかったように朝を迎え、その日の午後、大震災に直面するのだろう。渡辺大知は神の子でも何でもない事は自覚している。外野フライを捕球する望みも叶えられないのだから神など必要ない筈である。彼もやはり「からっぽ」なのだが、無人の夜中の野球グランドで飛び跳ねる姿は決して絶望してる訳ではない。初老の佐藤浩市はカエルくんとの30年前の出来事を忘れる程「からっぽ」の存在になっていたが人知れず東京の大災害を食い止めるカエルくんを支援した。この2025年の第4章は原作とは違うオリジナル脚本とのことである。
ドラマ版から映画版に変わる中でこの4つの物語は編集の妙により、細い縦の線で繋がっているように見えた。私の消化不良もかなり解消されたようである。
「何があろうとなかろうとも世界には希望がある」という映画であった。
1995ときて、2011となるとなるとすれば、次は2027なのかもしれません
2025.10.7 イオンシネマ京都桂川
2025年の日本映画(132分、G)
原作は村上春樹の短編小説『UFOが釧路に降りる』『アイロンのある風景』『神の子どもたちはみな踊る』『かえるくん、東京を救う』
阪神・淡路大震災を機に喪失を抱えた人々を描いたオムニバス形式のニューマンドラマ
監督は井上剛
脚本は大江崇允
物語は、4つのオムニバスによって構成され、それぞれの章に年代を示す数字が当て振られていた
「1995年の章」では、震災のニュース映像に心を奪われていた妻・未名(橋本愛)の失踪に動揺する小村徹(岡田将生)が描かれていく
何の前触れもなく、置き手紙を残して消えた妻だったが、叔父を名乗る人物・神栖(吹越満)の出現によって、離婚が確定してしまう
その後徹は、どこかに旅に出ようかとまとまった有給を取り、後輩の佐々木(泉澤祐希)から、妹のケイコ(北香耶)にある小包を届けてほしいと言われる
徹はその依頼を受けて釧路に向かい、そこでケイコと彼女の友人・シマオ(唐田えりか)と出会うことになった
「2011年の章」では、父との関係悪化から家出をした順子(鳴海唯)と、海岸で焚き火をしているコンビニの常連客・三宅(堤真一)との交流が描かれて行く
そこに順子の同棲相手の啓介(黒崎煌代)も加わるものの、最後には2人きりになって、ある約束を交わすようになっていく
「2020年の章」では、神の子として育てらえた少年・善也(黒川想矢、成人期:渡辺大知)が描かれ、彼は2011年の東日本大震災を機に信仰を捨てていた
世話になった教団の幹部・田端(渋川清彦)との最後の時を思い出しながら、母(井川遥)が言っていた「自分の父親の特徴」を思い出していく
そして、その特徴を持った男(小坂竜二)を地下鉄の車内で見つけてしまう
「2025年の章」では、ネカフェに住みながら警備員として働いている片桐(佐藤浩市)が描かれ、彼の元にかえるくん(声:のん)という不思議な生き物が現れる様子が描かれて行く
かえるくんは、かつて片桐と一緒に東京から地震を救ったと言うものの、彼は何一つ覚えていなかった
だが、かえるくんを信じて一緒に東京の地下に行き、そこでかつてと同じように「想像力」を持って敵と戦うことになった
映画は、この4つの物語をほぼ単独で描いていて、その収束点は「謎の赤い廊下」となっていた
その廊下は、トンネル、地下鉄の車内などと同じように見える細長い場所で、そこに出ることは禁忌であるように描かれていた
そこには年代を同じナンバーの部屋番号が記されていて、4つの時代以外にも多くの部屋があって、そこから人々が顔を覗かせていた
物語としては、震災を機に何かを失った人を描いていて、さらに「自分が誰かの前から消えた人」と言うのもいたりする
震災の報道が起点で自分の心に気づいた未名は、自分の居場所は徹の側ではないと考えていた
徹は彼女の行く当てを知らないものの、釧路にて「UFOの光に消えていく妻」を見てしまう
また、順子は震災関連ではないものの、父との関係悪化によって、自らが失踪人となった人物だった
彼女はコンビニで働いていて、そこの常連客・三宅と知り合いになるのだが、彼は阪神・淡路大震災にて家族を失った男だった
彼も順子も居場所を無くした人間であり、2人は焚き火が消えたら一緒に死のうと約束を交わすことになった
さらに、善也は信者の前から姿を消した少年であり、彼が信仰を捨てたのが東日本大震災が起こったからだった
彼は神様に疑問を持ち、さらにその対象者である神の子として扱われてきた過去に嫌気がさしていた
そして、教団と距離を置くものの、田端の死によって、再び過去と対峙することに鳴
彼は生まれながらにして父親を喪失している男で、彼は阪神・淡路大震災とともに生まれてきたことが明かされる
最終章の片桐については、背景はあまり語られないが、神戸の信金で働いていた過去があり、おそらくは震災によってお金を返せなかった人々から貸しはがしをしてきたのだと思われる
東京に逃げてからも、同じ系列の信金のティッシュなどを部屋に置いていたりして、いまだに未練があるように描かれていた
彼が無くしたのは「かえるくんと一緒に戦った記憶」であるものの、みみずの正体はいまいちはっきりしない
地中を走り、人々の負の感情を吸収していて、それが爆発すると地震が起こる、と言うように説明されていたものの、今回の戦いに置いて、それをどのように解決したのかはわからない
映画は、解釈が分かれると言うよりは、繋がりがわかりにくいので意味不明に思えると言う内容だった
無理やりこじつけると「喪失を抱えた人々」と言うことになるが、登場人物は直接は干渉し合わないし、誰かが誰かの過去もしくは未来と言う関係性もなかった
NHKのドラマを再編集したものなので、クレジットに名前があっても映画ではカットされている人もたくさんいた
もしかしたらどこかに写り込んでいたのかもしれないが、存在を認知できなかったキャラも多かったように思う
個人的には関連付けを探しながら観ていたのだが、映画的な解釈をつけるとするならば、「震災は人類の負の感情の爆発」であり、それが一定量を超えると地震を起こしてしまうと言うものだ、と考えている
その周期は人間次第ということなのだが、阪神・淡路大震災から東日本大震災の間にも、それらはずっと溜まってきたことになる
この期間に登場し、そう言ったものを抱え込んできた人物がいるとしたら、神の子として育てられてきた善也であり、彼はある時期から「神様を疑う」ようになっていた
それが2011年の東日本大震災によって確信に変わっているのだが、言い換えると、善也の疑念が徐々に膨らんで、みみずを育ててしまったように思える
東京を地震から救ったというのは、おそらくは東日本大震災のことであり、そうだとすると「東京は救えたけど」という意味にも思える
東京から地震を遠ざけても、別の土地でそれは起こっていて、さらに「神様の疑念」というものは生み出され続けていく
2025年の段階で「危険」であるというのは、神の存在を疑問視するパワーが増えすぎたためであり、それを何とかするためにかえるくんは片桐の前に現れていた
片桐は赤い廊下に出て、そこでこれまでの登場人物と相対することになるのだが、そこにいる人たちは、震災を機に何かを失った人たちであり、彼らは人生を捨て、自分を見失い、神を冒涜する存在だったようにも思える
実際のところ、現実を塗り替えるほどの神の力というものはなく、喪失を見ないようにするとか、忘れたふりをするということで心の調整をしている
それがラストで登場する介護士・クシロ(錦戸亮)のセリフでもあり、「人は忘れなければ生きていけない」というのは、喪失は抱えるものではない、という意味に繋がるのではないだろうか
いずれにせよ、深く考える話でもないと思うのだが、人の脳には「ありもしない現実を現実だと思い込ませる力」があり、さらに「キャパがオーバーすると自然消滅させる力」もあったりする
正常に脳が動いている間はバランスが取れても、極端なことが起きてしまうと、人はそのバランスを取れないまま人生を歩んでしまう
忘れられない人たちは死を選び、どうでも良いと思う人は踊ることで解消し、ある種のおとぎ話の中で妻を消し去ってしまう夫もいたりする
それらの集大成のようなものになっていると思うのだが、実際にはそこまで深く考えるものではないのだろう
冒頭では、旅先で出会ったシマオとラブホでベッドインした徹のシーンで始まるのだが、喪失を癒すのは人肌の温もりしかないという暗喩にも思える
焚き火の暖かさではなく、あの2人がもし肩を寄せ合って、体温を感じ合っていればどうなっただろうか、という「もしも」という想像力でも人は救われるかもしれない
なので、そう言った方向性で脳を使うことで、自分自身の窮地を救う術を得ることができる、という意味も含まれているのかな、と思った
家族に優しくしようと思った
ハルキスト御用達。私は関係ないので呼ばないで。
村上春樹の短編集が原作の邦画。昨年、アニメ作家のピエール・フォルデスが監督・脚本を手がけた『めくらやなぎと眠る女』というアニメ作品を観た。本作は、ほぼ原作が重なるものとなる。まあ、本作を観て『村上春樹は映画化には向かない』という事実を再確認した。『ノルウェイの森』や、村上の主題なのか疑問とってしまう『ドライブ・マイ・カー』を観りゃ解るだろう。というか、映画にしちまうと、特徴的な暗喩や比喩やエロティックな描写で、読者を倒錯させる村上の作品が、実は中味がスカスカで10行で語れてしまうことを何百ページも費やしているということが歴然としてしまうのだ。村上ファンの『活字で夢を見ている』のを醒ましてしてまうのは可哀想だ。
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