むろん、弁護人・狩野弁護士としては、並々ならない苦労があったことは察するに余りがあります。
まったく前例のない裁判で、被告人の弁護方針を立てるに当たっては。
しかし、いかに、考えに考え抜いた末の「手探り」での結論とは言え、そして、赤城医師の手術を「治療」として位置づけるためとはいえ、まったくを以て、弁護人(弁護士)としては「掟破り」だったのではないかと思われて、評論子はなりません。
アー子たちの性的指向を「精神異常」と決めつけるのは。
世間の偏見や嘲笑のなかでも、なんとか健気(けなげ)に生き抜いてきていた本作でのアー子のあの結末は、ストーリーの展開からすると、狩野弁護士に「精神異常者」と決めつけられたことを苦にして自ら選び取った方法ということでは、どうやらなさそうですけれども。
しかし、因果関係はともかく、アー子がこの結末に立ち至ったことについては、狩野弁護士のこの弁護方針が、原因している(少なくとも遠因となっている)ことは、否定しがたいと、評論子は思いました。
それでも、自らの(当初の)弁護方針の誤りに気づき、後にサチを証言台に立たせたときには、その証言から、それぞれの性的指向を尊重することが、いわゆる幸福追求権(憲法13条)の一環として、個々人の基本的人権であることを浮き彫りにさせたことは、狩野弁護士の弁護人としての手腕の賜物ともいえそうです。
そのことによっては、亡きアー子も、いくばくかは慰められたことでしょうし、真正面からの憲法判断を避けたとはいえ、あの内容の一審判決を引き出したのも、狩野弁護士のこの「方針転換」があってこそと、評論子は思います。
惜しむらくは、狩野弁護士が、最初からこの弁護方針をとっていれば…。
(映画としては、狩野弁護士の方針転換ということは、作品の構成として外すことができなかったのかも知れませんけれども)
弁護人は依頼者や関係人の意図しない弁護をしてはならないということは、それが民事事件の弁護にしろ、刑事弁護にしろ、やはり弁護の掟=鉄則なのだろうと思いました。
そのことに改めて思いが至った一本になったという意味では、本作は、佳作としての評が適切としておきたいと思います。
評論子的には。
なお、評論子のこのレビュー、本作の訴えかけようとする本筋とは、おそらくはかけ離れた評になるとは思うのですけれども…。
それでも、「映画の評は自由」ということで、大目に見てもらうことができれば、幸いです。
本作でのサチやアー子たちの性的指向が、その他の人たちの性的指向と同じように、何の違和感もなく、ごく普通に「個性」として社会に受け入れられる日がそう遠くないことを期待しながら。
(追記)
そもそも旧優生保護法の規定を罰条として持ち出すのであれば、同法が「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止すること」(1条)を主目的とする法律である以上、同法28条が禁止する「この法律の規定によらない優生手術」も、生殖を不能とする手術の一切をいうものではなく、あくまでも「優生手術」(優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する手術)の範疇(はんちゅう)のものでなければならないはずです。
そして、そのことを素直に考えれば、法律家であれば、旧優生保護法28条の解釈として、赤城医師の本作での手術がそれに該当しないことは、自明の理(いわゆる「もちろん解釈」)であるといわなければならないでしょう。
それにもかかわらず、あえて「旧優生保護法28条」を罰条として赤城医師を起訴したということは、公判担当の時田検事だけでなく、同検事が所属した検察庁の次席検事(第一線の公判検事を指揮監督し、また検事正を補佐して、当該庁での事件の起訴・不起訴について最終的に責任を負う役職)―そして、時田検事の起訴を受けて有罪判決を言い渡した裁判官も、「法律家としての良心」をすっかり忘れてしまっていたとしか、評論子には思われません。
彼らを指して、「オリンピックを控えた首都・東京の浄化」という美名に溺れ、自己陶酔に陥ってしまっていたのではないかと指摘したら、果たして、その批判は厳しすぎるものでしょうか。