「ボンヘッファー理解には全く役に立たない」ボンヘッファー ヒトラーを暗殺しようとした牧師 styloさんの映画レビュー(感想・評価)
ボンヘッファー理解には全く役に立たない
ボンヘッファーの伝記映画ではなく、ボンヘッファーの人生におけるいくつかの出来事から想像を膨らませた完全なるフィクション映画でした。
それならそれでもいいともいえますが、この映画にはそれゆえに相当問題を抱えていますので記します。
まず背景として。ここ何年かアメリカではトランプ支持者がボンヘッファーの言葉を「悪用」し、自らの暴力行為などを正当化しようとする動きがあり、国際ボンヘッファー協会や遺族らがこれに対する警鐘を鳴らす声明等を発表しています。
この映画もまたそうした流れの中でかつがれ、主演俳優らがそうした動きへの反対声明を発表しています。
つまりまず、この映画が受容される状況が非常に問題含みなのですが、この映画は内容にも問題があります。
試写で観た知り合いのボンヘッファー研究関係者が、みなさん難色を示しており、戦々恐々と観に行き、難色を示していたわけがよくわかりました。
この映画はドラマチックに、わかりやすく、そしてボンヘッファーではなく製作陣のしたい話に沿わせるために、ボンヘッファーの人生史、人となり、なにより思想を理解するにあたって、誤解を招くような表現、あるいは「嘘」ともいえるレベルのものが大量に含まれています。
ドキュメンタリー映画ではないのですから、面白くするためにある程度脚色をするだとか、話を「盛る」だとかが全て悪いとは言いません。
ただこの映画は、ボンヘッファーを描きたいように描くために、ボンヘッファーの人生を理解するにあたって重要な人物や出来事、著作、情報を大量にオミットし、逆に映画自身が描きたかった(伝記には記されていないような)オリジナルの会話やシーンなどを盛り込んでおり、その結果、時系列などのおかしさだけに限らず、ボンヘッファーや周辺の人間の行動や発言がかなりおかしいことになっています。
何より、ボンヘッファーの反ナチ抵抗運動とそこに関連する神学的思索について不正確な理解・知識のもと進行していきます。
ボンヘッファーにそれなりに詳しい人間として、正直観ていて大変苦痛でした。おそらくボンヘッファーに詳しい人に限らず、ナチス・ドイツやドイツキリスト教史に詳しい人も苦痛なのではないでしょうか。
しかもその割に知識がないとなぜこのような流れになるのかわからないところがしばしばあるように思います。
細かい描写の不正確さは枚挙にいとまがありませんので全てを指摘することはしません。
アメリカ製作だからかアメリカ留学時代の経験による影響を強く描きたいというもくろみによってアメリカとの関係が多分に「盛られて」いるのももうこの際おいておきます。ナチス台頭直後にヒトラー批判がこめられたラジオ講演をおこなったことも全く言及されてませんがもうそれもおいといて。ボンヘッファーがいかに検閲逃れに様々な表現を駆使していたのかも気にしていないようだったのもおいておいて。あぁ、獄中での描写もおかしかったですね。(あまりにありすぎる!)
しかしボンヘッファーにとっても、当時のキリスト教界にとっても、非常に重要な人物であったカール・バルトが影も形もないのはなぜ?
ボンヘッファーは21歳で博士号を授与され、24歳で大学教授資格を認められた、若き天才「神学者」であったわけですが、ボンヘッファーの研究についてやドイツの大学関連のことを完全にオミットしているのはなぜ?
婚約者マリーアが全く出てこないのはなぜ?
こうした重要な出来事や背景情報、周辺の神学者・哲学者は、若く熱く反骨精神に満ちた孤独な抵抗者像に押し込めるために完全に切り捨てられています。それゆえにボンヘッファーの思想についてもろくに描かれないという仕様になっているわけです。
盛るのも、尺の都合もあるでしょうし登場人物を減らすのも一概に悪いとは言いませんが、描きたいボンヘッファー像に沿わせているだけなので、伝記とも著作とも乖離した行動や発言、演出を繰り返すのは流石に問題でしょう。
ボンヘッファーの人生を、親友でありボンヘッファー研究の第一人者であるエーバハルト・ベートゲ(非常に重要な人物であるにもかかわらず一瞬の登場でしたね)は、第一期神学者・第二期キリスト者・第三期同時代人と区分しました。この区分をどこまで念頭に置くべきかは後世の研究上議論がないでもありませんが、ボンヘッファー研究としては非常に重要な区分であり、つまりボンヘッファーの関心や立場は時代によって様々であったのです。この映画は描きたいボンヘッファー像に押し込めるために、そうした時代的変遷も完全に無視しています。(後期に初めて確立する思索を若きボンヘッファーに喋らせているところもあったなぁ)
ひとり若く反骨精神のある若者を描きたかったので、「告白教会」の名前がでてきて牧師研修所のことはでてきても、「告白教会」という組織がどういうものであったのか、どういう人たちであったのかは全く描かないところに全てがあらわれています。そうした他者との交わりや組織の中での役割を描いてしまうと、描きたい像からズレますものね。でもボンヘッファーは非常に他者との交わりも重視した人でしたよ。
ニーメラーの描写も本当に雑。
そもそもナチス・ドイツとキリスト教との関わりについての描写自体が大層雑ですね。
ボンヘッファーの反ナチ抵抗運動に関しては、草稿集『倫理』で示された「罪の引き受け」が非常に重要なわけですが、そこらへんもオミットです。神学や学問の話は多分製作陣はあまりしたくないから。
そもそもどういう著作を書いていたのかはほぼオミット。
ボンヘッファーは暗殺や暴力行為を全面的に肯定した人でもないし、敵を愛するとか愛さないとか、そういう話より踏み込んだところを問題にしていたわけですが、そこらへんを描く気もありませんでしたね。
行動、あるいは行為はボンヘッファーにとってはもちろん重要でしたが、とにかく何かしろということではなく、ボンヘッファーは考えに考え自身のキリスト教倫理を構築したわけですが、製作陣はそういうことにも関心がないみたいですね。
書いているとあまりに長くなってしまうのでそろそろ切り上げますが、題の通り、この映画はボンヘッファーの人生史、人となり、思想を理解するにあたっては全く役に立ちません。
