映画を愛する君へ

劇場公開日:2025年1月31日

映画を愛する君へ

解説・あらすじ

フランスの名匠アルノー・デプレシャンが自身の映画人生を投影しながら、映画の魅力を観客の視点から語り尽くした自伝的シネマエッセイ。

「そして僕は恋をする」「あの頃エッフェル塔の下で」でマチュー・アマルリックが演じたポール・デュダリスを主人公に、初めて映画館を訪れた幼少期、映画部で上映会を企画した学生時代、評論家から映画監督への転身を決意した成人期を、19世紀末の映画の誕生から現在に至るまでの映画史とともに描きだす。本編には映画史に功績を残した50本以上の名作が登場し、デプレシャン監督が尊敬するアメリカの哲学者スタンリー・カベルやフランスの批評家アンドレ・バザンの言葉も引用しながら“映画とは何か”をひもといていく。

主人公ポール役には成長に合わせて4人の俳優を起用し、マチュー・アマルリックが本人役で出演。「ママと娼婦」のフランソワーズ・ルブランが祖母、「落下の解剖学」のミロ・マシャド・グラネールが14歳のポール、「みんなのヴァカンス」のサリフ・シセが30歳のポールを演じた。

2024年製作/88分/G/フランス
原題または英題:Spectateurs!
配給:アンプラグド
劇場公開日:2025年1月31日

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(C)2024 CG Cinema / Scala Films / Arte France Cinema / Hill Valle

映画レビュー

4.0 ドラマとエッセイが融合した不思議かつ温かい手触り

2025年1月30日
PCから投稿
鑑賞方法:試写会

本作はアルノー・デプレシャンの監督作『そして僕は恋をする』『あの頃エッフェル塔の下で』でお馴染みの主人公ポールが幼少期、少年期、青年期と歳を重ねる姿を点描しつつ、成長の傍らにいつもあった映画の存在、および映画の誕生から現代に至るまでの歴史や人々へのインタビューをも独特のタッチで絡ませた一作だ。すなわちドラマとドキュメンタリーとエッセイが一緒くたになった異色な味わいと言うべきか。そのデプレシャン流としか形容詞しようのない語り口からは、「映画とは何か」という命題をただ難解に突きつけるのではなく、あくまで温もりあるドラマや日常風景に差し込む光のように優しく浮かび上がらせようとする趣向が感じられる。きっと観る側も自ずと胸に手を当て、初めて観た映画のこと、映画館の思い出、香り、一緒に見た愛すべき人の記憶を強く蘇らせるはず。そんな観客一人一人の積極的な共感あってこそ、この映画は完成するのだと強く思う。

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牛津厚信

3.0 「思索のための道具」としての映画

2026年4月13日
PCから投稿
鑑賞方法:DVD/BD

<映画のことば>
映画には答えがない。
この謎に挑み続ける。

20世紀は、人類史上「動く映像」で記録された初めての世紀なのだそうですけれども。

そして、それはエジソンによるキネトスコープの発明に単を発し、リュミエール兄弟による「時を切り取る装置」、「時をスクリーンに映し出す装置」の開発など、幾多の先駆者の叡智の賜物なのですけれども。

それらの先駆者が発明・開発した「映画」は、機構的な開発が完成すると、今度は、その機構を駆使した知的創造物として(人々の叡智、思索には限りがないことと相俟って)、映画それ自身の無限の可能性を、自ら創り出してきたといったところでしょうか。

演劇は、政治と同じで、人々の視座(その人々が社会において占める立ち位置?)によって成り立つ。
つまり、どの位置の座席に座るかが重要(反面、観客の個性は、あまり重要視されない)。
それゆえ、必然的に(運営のためには)多数の視座が必要とされ、視座(観客)が少なければ成り立たない(興行は催行されない)。

この点、映画は、その機構から「視点」を監督に委ねざるを得ない。
観客は「入場券」という投票用紙を手に入れて映画を観るが、映画では、どの座席からの観ても、見える映像は全く同じ。
すなわち、必ずしも視座が多数であることは要求されない。
それゆえ、観客が多くても少なくても催行される(観客の「視座」ではなく、観客の主観がより重要視されるため、映画館では、観客には独自性・匿名性が与えられる)。
ここに、近代民主主義の成立がみられる。

上記は、「映像」とはという講義で、パリ第三大学で主人公に民主主義を講じたパスカル・カネ(政治学者?)が講じた内容の要旨ですけれども。

エジソンが発明したキネトスコープは、暗い箱の中を覗くと、映像が楽しめるというもの。
当然のこととして、「観客」は、ただ一人だけに限られることでしょう。

一方で、観客を集めて興業される演劇は、事業としての必然性から、大規模な劇場で数多くの観客を集めて催行されますけれども。

観客が観ることのできる舞台の映像(俳優の立ち位置や、その表現者としての表情)は、個々の観客が座った座席の位置によって、それそれ、さまざま。
それゆえ(民主主義では一票、一票が尊いことを背景として)劇場でも一つひとつの座席が尊い。
それゆえ、ある観客が都合で観劇に欠席すると、その座席からの視点は永遠に失われてしまう。

しかし、視座を監督に委ねざるを得ない映画は、大規模な映画館で大勢で観ても、座席数の限られるミニシアターで(たった一人で)観ても、観ることのできる視座は(座席の位置や数には影響されずに)まったく変わらずに、同じ。

それゆえ、映画館では観客全員に独自性と匿名性とが与えられる。(近代民主主義の成立)

その意味では、映画を観る(=映画を観て考える)ということは、「思索のための道具」としては万人向きで、優れてもいると、評論子は改めて思い直しました。
本作を観終わって。

もともと評論子は、映画を観ることが楽しくて、映画を観続けて来たわけですけれども。

本作を通じて映画を観る(=映画を観て考える)ということの、思索的な「位置づけ」を知ることができたことは、論子なりの、本作を観終わっての(映画というものについての)「新たな気づき」だったようにも思われます。

そして、本作をものしたアルノー・デプレシャン監督も、そういう「思索のツール」としての映画を通(とお)して「友情も恋愛も、僕の人生は、映画で学んだ」ということなのだろうとも、評論子は推察します。

「(アルノー・デプレシャン監督)自身の映画人生を投影しながら、映画の魅力を観客の視点から語り尽くす」としている、本作のトレーラーの宣伝文句にも、嘘・偽りがなかったとも、思います。

そのことも踏まえて、佳作と評して疑いのない一本だったと、評論子は思います。

(追記)
専門職ではありませんが、評論子も、とある組織の中では「法律屋」としてメシを食ってきた一員。

学生時代に映画を観ていた当時は、そうは意識はしなかったのですけれども。

しかし、社会に出て、ナマの法律問題を扱ううちに、映画と活きた法律との共通性に、何度も驚きました。

でも、考えてみれば、実社会での法律学(いわば、法律工学とでも表現すべきもの)も、映画も、どちらも、人間が実際に営んでいる現実の社会をフィールドとしているのですから、共通性があって当たり前かと、今更ながら気づいたのは、学舎(まなびや)の中ではなく、遅れ馳せながら、実社会に出てからのことでした。

思い起こしてみると、ひとコマ90分の大学の授業(講義)で、映画の話しかしない教員がいて、当時は「せっかくの大学での講義なんだから、ちやんとアカデミックな話をしろよ」「こっちは法律を学びたくて、学費を払って講義を受けてるんだから」と、ずいぶん腹も立て、閉口もしていたことを覚えていますけれども。

いざ社会に出(で)、しかもその社会での職業生活も終わろうかという時期にもなってみると、その教員の真意も、今更のように分かるようにも思われます。

まして、映画が、非常に完成された「思索のための道具」でもあってみれば。なおさら。

それ故に、監督は映画から人生を学ぶことができたのでしょうし、映画館にあるという「魔法」の正体も、おそらくは、そのことに縁由するものなのだと、評論子は理解しました。

大学時代の評論子の方こそ、なんと無駄なことをしていたのでしょうか。
本当に、惜しいことをしてしまった(貴重な時間を無駄にしてしまった)ものです。

<映画のことば>
映画が人々の暮らしを豊かにすることは、いいことよ。
私たちは皆、困難な時に映画に救われた。
映画は私たちを成長させ、自身を変えてくれる。
そして、何より大切なことに気づかせてくれる。
そういった気づきは、人生において得難いことなの。
映画を観ることで、重要なことに向き合えるのよ。
人や時間について考える機会を得て、自分を見つめ直せる。
そして、現実世界でも、うまく調和できるようになる。

(追記)
邦題からして、『ニュー・シネマ・パラダイス』のような、いわゆる「映画賛歌」のような一本を期待して鑑賞したレビュアーも、少なくないのではないでしょうか。

しかし、むしろ「映画を観ること」「映画を観て、思索すること」についての示唆がたっぷりと含まれた一本でした。

鑑賞前の期待は、良い意味ですっかり裏切られたといえると思いました。

(追記)
本作の中でも「最初に観た映画は何か」といったインタビューがあったと思いますけれども。

ちなみに、評論子が劇場で初めて観た映画は「ラブバック」と記憶しています。
その公開年からすると、評論子は御年8歳だったということになりますけれども。
記憶を手繰り、ネットでググってみると、今はなき「コトニ映劇」(北海道札幌市)という劇場だったようです。
当時は木造だったJR琴似駅(もちろん、当時は国鉄・琴似駅)のすぐ隣に建っていた、やはり木造の映画館だったと、朧気(おぼろげ)に記憶しています。

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talkie

3.0 とある映画史

2025年6月7日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

単純

知的

監督の人生も重ねながら語られるある映画史。小難しい理論の解説はほとんどなく、普通の映画好きでもついていけるレベルのお話でよいです。ちょっととりとめのない印象ですが、眠くならずに見られます。ただ特に感動とかがある映画ではないです。

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FormosaMyu

1.5 フィクション×ノンフィクション

2025年4月29日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

フィクションのドラマは面白かったが、時間軸が行ったり来たりでトリッキーなため
ついていくのが難しかった。彼女以外の女の子とキスするのにイラッとしたり(笑)

ノンフィクションで映画の歴史を実際の映像をつかいながら見せてくれたのは
とても勉強になったし、面白く見ることができた。

というわけで、面白いつくりだとは思うものの、
どちらか一方に振り切ってよかったんじゃないかと思う。
私としてはフィクションとしてドラマ仕立てで貫くともっと面白かったかも。

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ひでちゃぴん