カオルの葬式

劇場公開日:2024年11月22日

カオルの葬式

解説・あらすじ

ひとりの女性の死をきっかけに、彼女の葬儀のために集まった人々の感情が露わになっていく様を描いたダークコメディ。

女性脚本家のカオルが亡くなった。彼女の遺言には、10年前に離婚した元夫の横谷が喪主になるようにと記されていた。知らせを受けて東京からカオルの故郷である岡山にやってきた横谷は、そこでカオルの遺児である9歳のひとり娘、薫と出会う。カオルの葬儀には、脚本家であった彼女のマネージャーや、プロデューサー、先輩や親友、そして葬儀を取り仕切る婦人会や地主一家などさまざまな人が集う。そんななか、嵐の夜にある事件が起こる。

岡山県北部にある寺を主な舞台に、昔からの風習が残る葬儀と、いまを生きる人々の姿を色あざやかに描き、第19回大阪アジアン映画祭にてJAPAN CUTS Awardを受賞。製作にスペインやシンガポールのスタッフも参加した国際共同製作作品で、監督はこれまでに数々のドラマの演出やプロデュースを手がけてきた湯浅典子。

2023年製作/100分/G/日本・スペイン・シンガポール合作
配給:ムービー・アクト・プロジェクト、PKFP PARTNERS
劇場公開日:2024年11月22日

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映画レビュー

3.5 破綻を描く是非

2026年5月21日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

『カオルの葬式』――理解不能と遺言のあいだで

2024年公開作品『カオルの葬式』は、正直かなり苛立たしい映画だった。

おそらく監督は、多くを語らず、断片化された記憶と死者の残響によって、「理解できない他人」を描こうとしている。
しかし問題は、その“理解不能”が、観客に対する負荷として機能してしまっていることだ。

冒頭からしてそうだ。

喪主・横谷潤はデリヘルの送迎をしている。
そこで起きる客の反則行為。
デリヘル嬢への暴力。
無断撮影。
さらに第2の男の存在。
なぜか成立する示談。
32万円。
そして横谷のケガ。

何が起きたのか整理されないまま、映画は進行する。

ここが非常に厄介だった。

普通なら観客は、
「あとで意味が繋がるのだろう」
と思って観る。

しかし本作は、その“未整理”を抱えたまま、さらに大量の断片を積み上げていく。

クリーニング工場。
インドネシア人。
途中で帰る参列者。
交通整理。
消える子供。
遺骨。
酔った親父。
そして回想。

特に問題なのは、カオル自身の視点のような映像が差し込まれることだ。

コロナ禍の花火。
横谷から届くLINE。
遺体到着時の視点。

あれは明らかに、死者であるカオル側の感覚で描かれている。

つまり本作は途中から、「誰の記憶なのか」という映画文法すら崩し始める。

結果として観客は、
“意味深なのか、整理不足なのか”
判断ができなくなる。

正直、かなり危険な構成だと思う。

しかし、その苛立ちの中で、最後まで残ったものがある。

それが横谷の中のカオルだ。

横谷の回想の中のカオルは、明らかに“才能のある女”として描かれていた。

英語でのスピーチ。
周囲を惹きつける存在感。
そして横谷自身が感じている劣等感。

つまり横谷は、カオルに対して愛情だけではなく、
「自分には届かなかった何か」
を感じていた。

だからこそ、後半のクリーニング工場や生活苦との落差が、さらに混乱を招く。

本当に才能があったのか?
なかったのか?
映画は最後まで答えない。

だが、自分には別のものが見えた。

それが“薫”の存在だ。

カオルの娘・薫。

そして最後まで曖昧にされる父親。

プロデューサーの男は、
「鑑定したわけじゃないけど、俺の子じゃない」
と言う。

しかし本当に重要なのは、DNAではない。

横谷は、おそらく自分が無精子症の可能性を知っていた。
だが完全に不可能だったわけではない。

だから薫という存在は、横谷の中にずっと残り続ける。

「もしかしたら、自分の子かもしれない」

その感覚。

そしてカオルという女は、作中ずっと“一人で決める人間”として描かれていた。

離婚。
生活。
仕事。
遺言。

全部そうだ。

ならば妊娠もまた、彼女自身が決めたことだったのかもしれない。

脚本家として食べていけない。
夫婦関係も壊れている。
人生が行き詰まっている。

だから彼女は、舵を切り直した。

何かを残す方向へ。

それが薫だった。

だからこの映画の遺言とは、単なる死後処理ではない。

カオルは死後、横谷に対して最後の“問い”を残したのだ。

薫はいったい誰の子なのか。

そしてその問いによって、横谷は再びカオルと向き合わされる。

死人になったカオルは、生前よりも強く他人に影響を与え始める。

そこだけは、この映画の核として見えた。

逆に言えば、自分にはそれ以外の大量のノイズが、あまりにも過多だった。

もちろん監督の意図はわかる。

人生は整理されない。
人は他人を完全に理解できない。
死者の輪郭は断片の中にしか残らない。

そのテーマも理解できる。

だが、それでもなお言いたい。

“わからなさ”と“散漫さ”は違う。

本作は、その境界線を何度も踏み越えていた。

しかし、その混乱の果てに残った薫の存在だけは、奇妙に美しかった。

薫は、
横谷の断片であり、
カオルの断片でもある。

そしておそらく、
二人が失敗した人生の、唯一残された続きなのだと思う。

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R41

4.0 ◇失われた時(岡山)を求めて

2025年9月6日
iPhoneアプリから投稿
鑑賞方法:映画館

 先日、出身校の同窓会事務局よりダイレクトメールが届きました。同じ高校の卒業生である湯浅典子さんが監督を務めた映画のイベントがキネカ大森にて開催されるというお知らせ。邦画はそれほど熱心に追いかけているわけではないですが、映画関係者を生で見ることが出来る機会に期待が膨らみ出掛けてみました。

 作品は、若い女流脚本家の事故死。遺言に従って実家の岡山の山村で進行する葬儀の顛末。故人を偲ぶ参列者たちそれぞれの思い。断片的記憶、無意識記憶が岡山の閉塞的共同体の中で折り重なるようにランダムに再生されていく物語です。

 数年前に、私も父親の葬儀で故郷の岡山に帰ったことを思い出しました。夏休みを挟んだ忌引で過ごした二週間程度の岡山の時間は、大学時代から故郷を離れて三十数年の中でもっとも長くて、自分の人生にとっても特に色濃い記憶、時間となりました。

 ほんとに「田舎じゃけぇのぉ」温暖で平和な岡山は、地域として自己完結しているような大らかな独特の風土を持っています。葬儀の厳粛な喪に服する空気とは裏腹なのんきな地域性は、故人を偲ぶ物語の舞台として皮肉です。

 私自身の個人的記憶の断片、映画の中の登場人物それぞれの記憶の断片、トークイベントにて語られる映画監督や出演者たちの映画製作する上での記憶の断片。それぞれが混ざり合って、私の中で特別な化学反応を起こします。忘れがたい映像体験として、記憶の奥底で仄かに鈍い光を放ち続けそうです。

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私の右手は左利き

3.0 過去の記録を残すならいいのかも

2025年7月13日
スマートフォンから投稿
鑑賞方法:映画館

コロナ禍でお葬式の形も大きく変わり、私が現役時代のように「会ったこともない故人の葬儀に休日に出向く」「初めて会って(多分この先一生会うこともない)人と結構長い時間を過ごす」などいう経験はこれから先、ほぼ姿を消すのではないかと思いました。そういった意味では過去の時代の記録としてはいいのかなと思いました。

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ひろ702

1.0 難解だったけれど面白かったということもなくて

2025年3月29日
スマートフォンから投稿
鑑賞方法:映画館

難しい

難解でした。
難解だったけれど面白かった、ということもなくて、あんまり面白くなかったです。

主役は関幸治さん。
井浦新さんみたいな雰囲気の役者で、割りと良い演技でした。ヒロインの一木香乃さんも、妖艶で良かった。

でも、全体として、今日は、この映画を観に来て良かったな、とは思えなかったかな。

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ねこたま