TATAMIのレビュー・感想・評価
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イスラエルボイコット
「ツナミ」と同じく「タタミ」もいまや世界共通語になったんだろうか。
う~ん、なんか内股すかしならぬ肩すかしを喰らってしまった。だがこれも自業自得、今のイラン映画に娯楽性を強く求めた自分が悪い。それこそ不謹慎だと言われそう。
イラン映画がいま熱い。こういう言い方は語弊があるけど、最近のイラン映画を見ていてやはり抑圧が素晴らしい芸術を生み出すのだなと実感させられる。
最近でも「熊はいない」や「聖なるイチジクの種」、「聖地には蜘蛛が巣を張る」など秀作ぞろいだ。「イチジク」なんてゴリゴリの社会派作品かと思いきや、ちゃっかり娯楽性も十分兼ね備えた作品で長丁場ながら全く飽きず楽しめた。だから本作はこれら社会派に比べてもっと娯楽性重視の作品と勝手に期待してしまった。
確かに試合のシーンはカメラワークなど今風にして娯楽性を高めてはいるが、全体的に観たらやはり地味目な社会派ドラマ、あまりカタルシスは得られない。史実をもとにしてるのでこれはこれでいいと思うけど、もう少し脚色してスリリングな展開にして欲しかったのが正直なところ。
本作のもととなったのは2019年の世界選手権で起きた結構最近の事件だけにアレンジしづらかったのかもしれない。個人的には「勝利への脱出」みたいなのを勝手に期待していたから本作を見て真面目過ぎる作りに肩透かしを喰らってしまった。いや、これは全部勝手に期待した自分が悪いんだけどね。
ただ本作よりも社会派と思われる現在公開中の「イチジク」の方がそういう点では娯楽性もちゃんと加味されていて満足度は高いと思う。上映時間の長さから敬遠されてるみたいだけどそれだけでこの作品をスルーするのはもったいない。
本作の共同監督をしたのがイスラエル人とイラン人。「ノーアザーランド」のレビューでも書いたけど、いがみ合う国家同士の人間たちがその国家間の争いに縛られることなく共に同じ志の下で作品を作り上げたということで大変意義のある作品だと思う。
ちなみに同じ日に鑑賞した「ブラックバードブラックベリー私は私」という映画(お薦めです)がジョージアが舞台の映画でこの柔道選手権の舞台となるトビリシという町も出てくる。なんか日に複数の映画を見るとこういう偶然が重なることがよくある。
作品を世に出すための表現者たちの苦悩と挑戦
イランの映画、劇場上映や配信などが決して多い方ではないこともありこれまであまり多くは観られていませんが、アスガー・ファルハディやジャファル・パナヒなど比較的近年の作品に感じるのは「様々な制約や制限による不条理や不自由さを、如何にも関係なさげな間接的な表現を使うことで、そのメタファーにアイロニーを込める仕立て方」で、政府による厳しい検閲をパスさせて世に作品を出すための工夫に「巧さ」を感じる観方が多い印象があります。
ところが最近、時より起こり更に激化しがちな反政府デモと、それを恐怖政治で抑えようと急増する死刑執行数など「表現者」にとっては決意が試される時。先日開催されたアカデミー賞で国際映画賞にノミネートされた『聖なるイチジクの種』や本作『TATAMI』など、命がけで祖国を脱出し他国に亡命してまでも「当事者として、政府に対する批判を表明する作品」が世に出始めていて、映画好きとして当然これらを見過ごすわけにはいきません。
なお、本作は2019年に起こった実話を基に創作されたフィクションであり、逃げ場のない恐怖に抗いながらも、信念を貫いて闘い続ける女性・レイラ・ホセイニ(アリエンヌ・マンディ)を主役としたサスペンススリラー。展開こそ小さいため、下手をすれば一本調子になり兼ねないストーリーを103分という観やすい上映時間に収めつつ、緊迫感溢れる(柔道の)試合シーンをたっぷりとレイラ目線で見せる演出と、それを俯瞰で想像させる補完的な役割としての実況が巧くマッチしていてとても見応えがあります。或いは、その「理由」でその「指示」を出すにはいささか段階的に早すぎでは?と感じて少々「スリルを煽りすぎ」と思いつつも、そこからのジリジリ、ネチネチな追い詰め方は本当に性質が悪く、観ているこちらも本当に胃が痛くなってきます。
と言うことで、全体的なバランスとしては「祖国イラン(政府)に対する強い反感」と架空の団体(WJA)を作ってまで「外の世界に期待する理想」に、やや現実味からの乖離を感じなくもない「漫画っぽさ」も否めませんが、少なくとも命を張った真剣さは認めざるを得ない現実で、観る価値を充分に感る一作です。
社会派スポーツ映画
TATAMI
命を懸けて試合に臨む姿
主人公の柔道選手が政治の介入に対して、
試合を継続できるのか、勝ち続けられるのか、
無事でいられるのか、最後までハラハラの展開。
映像はモノクロの画面が内容にすごくマッチしていると感じた。
試合はもちろん、登場人物たちは短時間で様々な二者択一の選択を迫られ続けるが、
その緊迫感をモノクロの強いコントラストの画面が強調しているように思った。
銃器の閃光のようなカメラのストロボとか、
冒頭とラストの同一構図による対照的な環境の描写など、
印象的な映像表現も溢れている。
限られた空間、時間の話でありながら、
高い緊張感、リアリティを維持している要因として
映像と合わせて、リズム主体の音楽の力も大きいと思った。
全編にわたって、命をかけて試合に臨んでいる選手やコーチの
気持ちの強さ、気迫の凄まじさ、正直でありたいという美しい姿に感動した。
柔道の映画なのに日本人が出てこない新鮮さ
柔道の映画なのに日本人が出てこないので違和感あったけど、新鮮に感じた
最近のイランに関する映画を観ていると、日本では当たり前にできてることができていないというのに驚き、胸が痛む
くだらない力の誇示のために個人の自由を奪うというのは許せなく、弱者は全てを捨てて逃げるしかないというのがもどかしい
国民より国の都合が優先される社会ってほんと最悪
日本政府が映画の中に出てくるような行動を実際に取るとは考えにくいが、最近同じイランが舞台の映画『聖なるイチジクの種』を観ていたので、確かにイラン政府ならこんなことしそうと思えた。
国民が国外脱出を考えないといけない国って酷すぎる。
映画を観終わって「イランに生まれなくて良かった」と思ってしまった。
「負けると全てを失う」という話はよくある気がするが、「勝つと全てを失う」話は珍しいと思った。
この映画自体は実際にあった出来事を基にしたフィクションとのこと。
どこまでが本当のことでどこからが創作なのかは分からないが、話に納得できないところが多々あった。
イラン政府の行動がとにかくお粗末。
まず根本的に思ったのは、「自国の選手がイスラエルの選手と戦うのは好ましくないから試合を棄権しろ」とのことだが、それは試合当日ではなく、もっと事前に伝えるべきでは?
優勝を目指して人生の大半を練習につぎ込んできた選手に、試合直前になって「棄権しろ」と言ったって、納得せずに反発される可能性、高いでしょ。
イスラエルの選手と試合になったら棄権するように大会前に約束させて、それに納得した選手だけ試合に派遣すればよかったのでは?
仮に試合当日にそれを伝えるにしても、イスラエルの選手と戦う試合(この映画だとその可能性があるのは決勝戦)を棄権すればよくて、なんでそれよりもっと前の試合を棄権させたがっているのかも意味がわからなかった。
選手自身やイスラエルの選手が決勝まで進む保証はないはずなのに。
それならそもそも試合に選手を派遣しなければよかったのでは?と思った。
その一方で、選手の家族をいつでも拉致できるように家の近くに特殊部隊が待機してたり、会場に政府関係者を忍び込ませていたり、棄権に応じなかった時の脅迫する準備だけは異常に用意周到。
努力の方向性が間違ってると思う。
あとこの映画で気になったのは試合の実況。
柔道の試合っていつ勝負が決まってもおかしくないと思うが、選手が戦っている時に、実況が選手の監督の生い立ちを永遠と説明してて違和感。
実況が映画の補足説明として機能していて、実況としてはリアルに思えなかった。
試合シーン自体も淡々と進んで単調に感じた。
昔の話だからモノクロ画面にしているのだろうけど、この映画のモノクロ画面は眠気を誘う原因の一つになっていた。
脚本がダメだからなのか実際のイラン政府がダメだからなのかは分からないが、個人的には映画としてはイマイチだった。
代表チームの女性監督がイラン上層部から電話で棄権するように命じられた後、電話を切ってすぐに何か言葉を発するが、字幕だと「馬鹿」と表示されていて、音声でも女性監督が「ばーか」と言っているように聞こえたのは気のせい?
製作に参加したイラン出身者は全員亡命しているイランでは上映不可とな...
製作に参加したイラン出身者は全員亡命しているイランでは上映不可となっている映画で、webで予告編を見た時から「これは絶対 私好みだろう」と直感したモノクロ映画。
予算を掛けなくても「こんな緊張感のある鋭い作品が作れるんだ」と感じる。日本で起きた実話をベースにしたと知って驚いたもんだ。(※)
鑑賞中の疑問点は「イラン政府はイスラエルとの直接対決になる直前までは試合を許しては?国の代表として出場させてるんだから。」と思った。映画として盛り上げるには本作のこの脚本がいいが。
ガンバリコーチを演じたザーラ・アミールは映画監督でもあり、BBCの「2022年 世界で最も刺激的で影響力のある女性100人」リストに登場した方でイランからフランスに亡命してる。
※2019年 イランのサイード・モラエイ(Saeid Mollaei)は、男子81キロ級の決勝でイスラエルの選手との準決勝を放棄するよう求められたと明かした事件。
国際柔道連盟(IJF)は世界柔道選手権(World Judo Championships 2019)でイランの選手にイスラエルの選手との対戦を許可しなかったイラン柔道連盟(IRIJF)に対し、無期限の資格停止処分を科した。
家族を人質に取るからズルい
イスラエル・ボイコット問題の根幹について知っているかどうかで感想が変わる映画
2025.3.5 字幕 イオンシネマ久御山
2023年のジョージア&アメリカ合作の映画(105分、G)
2019年の柔道大会をベースとした、政治とスポーツの関係性を描いたスリラー映画
監督はガイ・ナッティヴ&ザーラ・アミール
脚本はガイ・ナッティヴ&エルハム・エルファニ
原題は『تاتامی』、英題は『Tatami』で、ともに「畳」という意味
物語の舞台は、ジョージアのトリビシ
そこでは世界柔道の大会が行われていて、イラン代表のレイラ・ホセイニ(アリエンヌ・マンディ)は60キロ級で出場することになっていた
代表を率いるのは国民的英雄と称される元柔道選手のマルヤム・ガンバリ(ザーラ・アミール・エブラヒミ)で、下馬評を覆す快進撃を見せていた
だが、2回戦を勝ち上がったところで、マルヤムの元に一本の電話が入った
それはイラン柔道協会からのもので、イスラエルの選手シャニ・ラヴィ(リル・カッツ)と戦う可能性があるから棄権をしろ、というものだった
マルヤムはその命令を拒絶するものの、当局はレイラの実家に覆面捜査官を派遣し、さらにレイラの父アマル(メフディ・バジェスタニ)を拉致監禁した
マリヤムはやむを得ずに協会の意向をレイラに伝えるものの、優勝できると意気込んでいたレイラは聞く耳を持たない
その後も勝利を重ねるものの、とうとうファンを装った工作員までもがレイラに接近し、父の監禁映像とメッセージを伝える
さらに、関係者以外は入れない会場にイランの工作員が混じってくる事態に発展していく
マリヤムは命の危険を感じ、レイラに棄権するように迫る
だが、レイラは頑なに拒み、さらに事態は深刻な状況に向かってしまうのである
映画は、パレスチナ問題に波及されるイスラエルに対する国家の姿勢がベースにあって、それをスポーツの世界にも持ち込むのか、というものがある
国の代表として出場する以上、国家が推し進めている方針に従うべきという意見もあるし、スポーツは政治ではないので、選手個人の想いが尊重されるべきという意見もある
今回の場合だと、国家の意にそぐわない行動をしたために脅迫するという流れになっていて、それは人権侵害ではないかというものになっている
国として止められないので脅迫という手段に及んでいるが、出場資格停止処分を世界柔道協会に出せば良いだけのように思うが、そう簡単なものではないのだろう
イスラエルを国として認めていないイランの方針は「イスラエル・ボイコット」という現象を生み出し、本作の事例に限らず、多くの分野で波及している
それゆえに、国家としては「イスラエル人と対戦させない」という明確な指針があるので、出場選手には大会に臨む前から通達していれば良いように思う
それを承諾できないのならば出場資格を与えないという明確な基準があれば選手も納得すると思うのだが、本作のように「出場してから対戦しそうだからやめろ」というのでは選手が納得しないのも当然だろう
映画は、その部分をイランの暴走と位置付けるために誇張している部分はあるが、それがプロパガンダになっている部分はあるのでフェアではないようにも思えた
基本的には、スポーツと政治を切り離すべきだとは思うが、選手側がスポーツの世界で政治を持ち込むこともあるので、問題は根深いものだと思う
だが、イランがイスラエルを国家として認める云々の前に、世界柔道協会が承認して参加させている以上、その枠組みに入るのならば、イラン側も同意の上で参加させる必要があるだろう
イランとしても、イスラエル人と対戦させないという前提があるのならば、イスラエルの参加を認めている大会すべてに出場しないという態度が必要で、そのために国内スポーツ産業の低迷や選手の流出が起こることを容認するより他ないように思えた
いずれにせよ、かなり政治色の濃い作品で、背景を知らないと「イランが悪者」にしか見えない作品となっている
脊髄反射で「イラン最低」となることを目的としているのだと思うが、そんな簡単に風向きを決めるのも早計であると思う
実際にこのような脅迫行為があったのならば人権侵害にあたるし、亡命やむなしというのも理解できるが、選手団のほとんどは国の立場を理解しているのでわがままを貫いているように見える
イラクにおける「イスラエル・ボイコット」を是正するとしても、それは内政干渉のようなもので、それをスポーツの世界に持ち込ませないというメッセージを付随させたいのならば、もっと明確に背景を描いてから、レイラ自身が覚悟を持って戦う姿勢を見える方向に演出しても良かったのではないだろうか
まさかの号泣した
問題が複雑すぎて…
ひどい話だ…と思ったが、よく考えたらこれは「スト破り」ではないのか?
選手は最後まで真剣勝負がしたいのに、イスラエル選手と対戦する可能性があるという理由で、イラン政府から棄権を強要され、拒絶すると家族まで迫害の手が及ぶ…
実話を基にしたフィクションだが、これだけみれば確かにひどい話だ、イランけしからん、で納得しそうなところ。
だが、調べてみると、そう単純な話ではない。
パレスチナ問題を理由に、イスラエルのスポーツ選手との対戦を忌避すること(イスラエル・ボイコット)は、イランだけに限らず、アラブ・イスラム圏の国全般に及ぶもので、アラブ・イスラム諸国が団結してイスラエルの所業に抗議する「ストライキ」の意味合いをもつ。
労働運動としてのストライキは周知の通り、使用者の行為に対して労働者が団結して労働を行わないことで抗議するものだが、労働組合が機関決定に基づいて行うストライキは組合員を拘束する。
もし個々の組合員が、「私は労働がしたい!わざと何もしないなんて我慢できない!」なんて言い出して勝手に労働現場に戻ったら、それは「スト破り」として他の組合員に対する裏切り行為とみなされ、組合からは除名処分など制裁の対象となりうる。
意地の悪い見方かもしれないが、ホセイニ選手の行為は「スト破り」そのもので、アラブ・イスラムの同胞に対する裏切り行為と解釈することも可能であり、制裁を受けてもやむをえない面もあるのではないか。
個人的な意見では、わざと棄権させて対戦を忌避するやり方が賢明とは思えないし、映画で描写されたように家族まで脅迫の対象とするやり方はさすがに行き過ぎだし、一般論としてスポーツに政治を持ち込むのは勘弁してほしいと思うが、昨今のロシア・ベラルーシ選手の閉め出しをみても、依然として「スポーツに政治が持ち込まれ」ているのは動かざる現実だし、イスラエルのパレスチナに対する残虐行為を目の当たりにすればボイコット行為が不当とは必ずしもいえまい。
この映画はイスラエル人と反体制イラン人の両監督の合作だが、パレスチナ問題に関してどういうスタンスなのかも気になるところだし、仮にイスラエルのパレスチナに対する所業を棚に上げてボイコットの不当性だけを喧伝するプロパガンダが目的だとしたら、お世辞にも賛同できるものではない(実際はどうなのか知らないので、この点に関する評価は保留とする)。
それはさておき、私が言及した「スト破り」との解釈は、映画の作者にとっては「想定外」であるのは間違いないと思うが、このように作者が意図しなかった解釈の余地を許容する点で、本作は「良作」だといえよう。
ニーチェ曰く「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。」
あなたは死闘の合間にあんなことを決められるか?
観る前は「スポ根もの」か、せいぜい「政治とスポーツのせめぎ合い」ぐらいに考えていましたが、なんのなんのずっと深いです。
人間の尊厳と究極の決断を描いた作品です。最近では「聖なるイチジクの種」はもとより、「ブルータリスト」や「ステラ」などにも通じるテーマですね。
試合と試合の合間の数十分間、身体はくたくた、心は潰されそうな状況下で、「家族を捨てて亡命するかどうか」を即断しないといけないんですよ!これはキツイね。もはや金メダルを目指すの次元ではない。
主人公と監督は亡命を選択し、個人の尊厳を命がけで守りました。しかし二人の親は最低でも投獄、最悪は処刑されてしまったでしょう。試合を棄権していたら英雄として帰国でき、独裁政権下ではあったとしても家族と一緒には暮らせたのですから、やはり何が幸せなのかは個人の究極の決断に委ねられることになるのです。
柔道チームの監督役のザーラ・アミール、「聖地には蜘蛛が巣を張る」のあのジャーナリストを演じた方ですね。実体験に基づいた内面の演技が素晴らしい!今回は映画の兼任監督もつとめたとのこと。中東の映画人も侮るなかれレベル高いです。
モノクロ映像がもたらす閉塞感。
2019年の東京で開かれた世界選手権で、イランの男子選手がイスラエル選手との決勝戦を棄権した実話にインスパイアされた作品であるようだ。ちなみに映画に出てくるWJFという組織は存在せず本当の柔道の国際連盟組織はIJF。
ジョージアの首都トビリシで開かれた女子柔道世界選手権で60kgのクラスに出場したイランのレイラ・ホセイニ。(しつこいようだが補足すると60kgというクラスはなく63kgとなる。北京で金メダルをとった谷本歩実さんのクラス)ガンバリ監督と二人三脚で序盤順調に勝ち上がるが、イスラエル選手と対戦することを恐れる本国から棄権するよう圧力がかかる。
全編の8割位がトビリシの会場の場面でありそれも広い観客席などはほとんど映らず選手控室や関係者席、廊下など狭くて暗い場所でのシーンが多い。あとは畳の上。そしてレイラと監督が右往左往して追い詰められていく姿をスタンダードサイズのモノクロフィルムが切り取っていく。実に殺風景であり閉塞感極まりない。
二人は柔道がしたいだけ、というよりは長く努力してきた柔道で結果を出したいのである。でも国家がそれを許さない。さらにスポーツ大会でありながらヘジャブの着用をもとめられること、国際大会で外国に行く妻が夫に許可をもらわなければならない不道理も描かれる。
映画の結末としては、やはり個人は国家に勝てない、選択肢は限られている。そのために何を失ったかについては触れられないけど。
ちなみに、柔道の世界大会でありながら、日本人の選手は1人も出ません。やはり難民問題となった場合、関係のない国(積極的に関与しない国)だと思われているのかな?
現状の日本が抱える問題にも間接的に触れる作品。おススメ。
今年72本目(合計1,614本目/今月(2025年3月度)6本目)。
この作品で扱われていること「それ自体」は史実ではないですが実際にあったできごとを他の問題(後述)と絡めて描いた作品で、それが日本でも一部当てはまる部分にもなっており良かったな、というところです。
まず、映画で示されるように、イランとイスラエルは歴史的にも非常に険悪な状況でにらみ合い状態です。このように、試合をするのも嫌だから棄権しろというのはよくある話で、柔道にせよサッカーにせよ、いわゆる「地域予選」があるような大手のスポーツではイラン、イスラエル(イスラエルを主軸とするとやはり衝突する国も多い)ほか一部で試合が成立しない等も見られます。
もっとも日本をはじめ多くの国では「政治とスポーツほかは別扱い」としますから、ロシアのウクライナ侵攻があっても、アイスホッケー等ロシアのスポーツ等の交流はもちろん続いていますし、諸般あって国として承認していないところでも試合が組まれれば政治論とは別に試合はします。台湾や北朝鮮等がそれにあたります。日本をはじめ大半の国はそうなのですが、政治とスポーツの交流をごっちゃごちゃにする国がいくつかあり、100年どころか500年も1000年もいがみ合うような国ではそれが今現在でも顕著で、その代表例がパレスチナ問題で、それに付随するイランということになります。
実際に起きた事件は男性の柔道出場がテーマとなっていましたが(結果的に棄権をほぼ強制された)、この映画では女性に主人公が変わっています。
このことは、イランにおいて女性特有の帽子(ヒジャブ)の着用を巡って国内で対立が起き、軍隊まで出動して難民まで出てきた「マフサ・アミニ(氏/さん)事件」を参照しており、彼女はいわゆるクルド人にあたります。この事件もいくつかの国は制裁を科していますが、日本は「遺憾に思う」程度で終わっています。
一方で日本のクルド人といえば1990年頃に、日本でもうすでに3K仕事として避けられていた解体業等に積極的に参加していた(イラン他ではメジャーな仕事なので、当時からいる方からすると「日本人はなぜこの仕事を嫌がるのか」ということのよう)彼らが住み着いたまま30年以上がたつ状況です。一方で日本の解体業といえばどうしても高齢者には難しいし、かといって若者が最初につく仕事としてはあまり認知されていない仕事になってしまっています。こうした「(純粋に日本人が就職できる仕事という観点で、社会から消えつつある職業」がまさにこの「解体業」であり(※後述)、一方でクルド人というカテゴリも上記のようにイラン・イラクのように人権思想が無茶苦茶な国に強制送還しましょうということにもできず、一方で日本で暮らすうえでは最低限のルールは守ってねということになるわけで、そうしたバランスを取りながら日本は動いているわけです。
※ 行政書士の資格持ちの一人の意見としては、日本が社会的にも世界的にも認知されている先進国だからこそ、客観的に見て明らかな難民は受け入れていく責務があるというように考えています。
※(上記後述としたもの) ほか、ダイヤモンドなどの貴金属を、ネックレスや腕輪などに加工する「高級(宝石)装身具作成」も、日本では在日韓国・朝鮮の方がその従事者では7~8割を占めます(東京には「御徒町」というその専門を扱う一帯がありますが、その部分の大半は韓国籍の方です。これも「日本人ができない、やりたくないことを引き受けて歴史が途切れていない例」になります(解体業ほど難しい仕事ではないが、独り立ちするのにかなりの年数を要する)。
映画の中ではクルド人といった語はでませんが、原作で参照されている事件の男性を女性にしたこと、またこの女性の上記の事件がクルド人であり難民となったことなども日本は全く無関係というワケではなく(先進国としてお金や経済物資を送っても何も解決しない)、日本がこれからどうあるべきか、より広義にいえば、「西アジア(トルコやイスラエル等含む)とどう向き合うべきか」という問題提起も(日本で見る分には)あるように思えます。
採点上特に気になる点までないのでフルスコアにしています。
決して「派手な」映画ではありませんが、日本からはるかかなたにある「人権侵害が無茶苦茶な国」で何が起きているのかといった知識をアップさせるには良い作品かな、というところです。
モノクロで描かれる、個人の「自由」と「尊厳」
柔道の世界選手権を舞台に、イランの代表選手が、敵対国イスラエルの選手との対戦を避けるよう政府から圧力を掛けられる中、孤独に戦い続ける様子を描くスポーツ・スリラー。モノクロによる鮮烈な映像表現も特徴的。監督はガイ・ナッティヴとザーラ・アミール。脚本は、ガイ・ナッティヴとエルハム・エルファニ。驚くべきは、監督・主演のザーラ・アミールはイラン出身。監督・脚本のガイ・ナッティヴはイスラエル出身である。
最初に述べておきたいのが、パンフレットの内容の充実具合。監督2人からの力強いメッセージに加え、『eJudo』編集長・古田 英毅さんによる本作の基となった事件に関する解説、監督へのインタビュー。その他、寄稿された記事に至るまであらゆる情報が本作を深く理解する事に役立つ。900円の価値は十分にあるのでオススメしたい。
日本発祥の武道「柔道」。その世界選手権で初の金メダルを狙うイラン人アスリートのレイラ・ホセイニ(アリエンヌ・マンディ)は、自身もかつて優秀なアスリートであったマルヤム・ガンバリ(ザーラ・アミール)監督の下、日々研鑽を積んできた。初戦、二回戦を危なげなく制し、初の世界女王の座も現実味を帯び始めた頃、ガンバリにイラン柔道協会から連絡が入る。
「ホセイニを怪我を理由に棄権させろ。これは政府の意向だ」
優勝候補の1人であり、レイラのライバルであるシャニ・ラヴィ(リル・カッツ)はイスラエルの選手。イスラエルと政治的な対立を抱えているイランにとって、自国の選手がイスラエルの選手に破れるような事は、自国の尊厳においてあってはならない事態なのだ。
政府の意向に反発し、ガンバリとの対立によって孤独に戦い続けるレイラは、尚も順調に勝ち進んでいく。しかし、時を同じくしてレイラの夫ナデル(アッシュ・ゴルデー)と息子アミル、そして両親のもとへと脅迫の為の工作員が向かっていた。
自国の尊厳の為に、一人のアスリートの夢と努力が平気で踏み躙られる姿に胸を締め付けられる。日本では信じられないような話だが、世界ではこうした圧力によってアスリートやアーティストの夢が踏み躙られる事があるのだと思うと、あまりにも心苦しい。
本作の救いであり希望は、レイラに対する自国の政府以外からの手厚い対応だ。世界柔道協会(WJA)のステイシー(ジェイミー・レイ・ニューマン)は、いち早く事態を察知し、レイラやガンバリに救いの手を差し伸べる。夫ナデルは、政府の圧力に怒りを示し、彼女に「負けるな、戦え。こっちの事は僕に任せて」と、レイラのアスリートとしての意志や尊厳を尊重し、自らの危険も顧みず背中を押す。かつて政府の圧力に屈し、一度はレイラと対立する事になるガンバリも、クライマックスでは自身の立場をかなぐり捨て、一人のアスリートとして、コーチとしてレイラを応援する。
こうした、レイラを取り巻く様々な環境が、レイラを救おうとする様子に胸が熱くなった。特に、夫ナデルの勇気と妻への揺るぎない愛には、思わず目頭が熱くなる。
そんなレイラを演じたアリエンヌ・マンディの熱演も素晴らしい。逞しく、反骨精神に満ちたレイラ・ホセイニというキャラクターに抜群の説得力を持たせている。協会からの圧力を前に、トイレで激昂して鏡に額を打ち付ける姿、準々決勝でイラン女性に義務付けられているヘジャブを脱ぎ捨て、自らの自由と尊厳を胸に果敢に挑む姿が印象的。
また、試合直前の測量で、自身の出場する60kg級を僅かにオーバーし、与えられた20分という制限時間の中で必死に減量に励む姿がリアル。
政府の思惑とは裏腹に、レイラは準々決勝で敗れ、ラヴィも準決勝で敗退する。あれだけ恐れられていた、イラン人選手とイスラエル人選手の対戦は実現しなかったのだ。しかし、自分達の意思に反して試合を続けたレイラと、彼女を説得出来ずに、遂には試合を応援したガンバリを彼らは決して許さない。彼女達は、WJAのステイシーとアブリエルに保護され、遂にイランからの亡命を決意する。
特徴的なのは、レイラとラヴィは、互いを良きライバルとして認め合い、敬意を払っているという点だ。彼女らは1人の人間として、アスリートとして、国家の対立など関係なく互いを尊重し合っているのだ。だからこそ、それと対比して描かれる政府の傲慢さをより滑稽に浮き彫りにして見せている。
モノクロによる映像表現の美しさと、その選択の裏にある狙いを想像すると、その素晴らしさに拍手を送りたくなる。自らの自由と尊厳を胸に最後まで戦うか、政府の意向に従い棄権するかという選択は、白か黒かという意味において、モノクロ表現によって効果的に示される。また、個人の自由や尊厳という“カラー”が認められない様子にも繋がっている。
惜しむらくは、試合シーン、特に決着がつく瞬間の迫力不足だろうか。古田英毅氏によると、柔道の「投げ」は引きの絵ではたとえトップアスリートを起用したとしても説得力ある表現は難しいのだそうだ。しかし、やはり試合シーンの大半が選手に接近し過ぎており、素人の私には何が起きているのか分かりづらく、投げの瞬間の迫力にも乏しいように感じられた。畳に打ち付けられた瞬間の「ドン!」という音の響きの良さが、辛うじて決着の瞬間の迫力を告げてはいるが、出来れば投げの瞬間だけでもアップによる映像とロングによる映像とを連続して見せる等の外連味ある表現をして欲しかった。
ラスト、レイラとガンバリはイランから亡命し、生活拠点をパリに移している。彼女達は、様々な理由で亡命を余儀なくされた人々の集まる難民チームに加わっている。オープニングと同じ構図でバスに揺られ会場へと向かうレイラとガンバリの面持ちは消して明るくはない。しかし、ヘジャブをせず、自らの「自由」と「尊厳」を取り戻した2人は、見つめ合ったほんの一瞬、僅かな笑顔を見せる。
レイラが試合会場のライトの眩い光りの中へと向かって行く姿は、まるで、「さぁ、リターンマッチだ!」と言わんばかりだ。今度こそ、彼女(達)は「尊厳」と「自由」を胸に、“畳”の上に立つのだ。この力強く希望に満ち溢れたラストの何と美しい事だろうか。
監督達が願うように、本作で描かれている人々の思いやりや協力が勝利する事が、現実でもそうなってくれるよう願うばかりである。
全98件中、41~60件目を表示