コラム:佐々木俊尚 ドキュメンタリーの時代 - 第103回

2022年4月18日更新

佐々木俊尚 ドキュメンタリーの時代

第103回:見えるもの、その先に ヒルマ・アフ・クリントの世界

本作はヒルマ・アフ・クリントというスウェーデンの女性画家をテーマにしたドキュメンタリーである。

その名前を聞いたことのない人は多いだろう。ヒルマは1862年、日本で言うと幕末に生まれた人。しかも世界で初めて、抽象画を描いたアーティストと呼ばれている。しかしその名前が注目されるようになったのは21世紀に入ってから。およそ100年間にわたって、ほとんど忘れ去られた存在だったのだ。

スウェーデンの女性画家ヒルマ・アフ・クリントのドキュメンタリー
スウェーデンの女性画家ヒルマ・アフ・クリントのドキュメンタリー

その「忘れ去られた」という理由には、ふたつのポイントがあると本作では指摘している。ひとつは彼女が女性画家だったこと。そしてもうひとつは、彼女が神秘主義、最近の用語で言うのなら「スピリチュアル」にはまっていた人だったということだ。

ヒルマの人生を紹介してみよう。彼女のお父さんは、スウェーデンの海軍士官。ストックホルムの郊外で生まれ、夏には家族そろって農場で過ごしていたというから、中流の豊かな生活だったのだと想像できる。長じてスウェーデン王立美術館で美術を学び、職業画家としてオーセンティックな絵画を描いていた。正統派のアーティストだったのである。

しかし17歳のころに妹を亡くした経験から、彼女はだんだんと神秘主義にはまり始める。同じような思想を持つ女性4人とグループを結成し、スピリチュアルな高次の存在からのメッセージを絵画に表現するという方向に傾いていった。

およそ100年間にわたり“忘れ去られた存在”だったヒルマ・アフ・クリント
およそ100年間にわたり“忘れ去られた存在”だったヒルマ・アフ・クリント

19世紀末から20世紀初頭のこの時代、ヨーロッパではスピリチュアルが大流行していた。背景には、既存の古い教会を否定して人間中心の思想を確立したいというリベラリズムの流れがあり、また帝国主義の拡大のなかでヨーロッパの人々が日本やインドの仏教、ヒンドゥー教などに触れるようになって、わかりやすく言えば「東洋かぶれ」のひとつとして神秘的な東洋思想に憧れたということもあったようだ。

このヨーロッパのスピリチュアル(日本では神智学と訳されている)は、当時の芸術や音楽に大きな影響を与えただけでなく、今に至るまでのニューエイジやオカルト、現代日本のスピリチュアルなどあらゆる神秘思想のすべての源流になっている。日本で大事件を引き起こしたオウム真理教も、もとを正せばここにルーツがあると言っていいだろう。

そういう神智学に、ヒルマもはまっていったのだった。そこで彼女は、高次の霊的な存在が自分のなかに舞い降りて来て自動的に筆をとらせて絵を描く、オートマティスム(自動筆記)などの手法で、頭に浮かぶさまざまなイメージをそのままキャンバスの上に定着させるような絵を描き始める。

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そしてそれらの作品は、それまで誰も書いたことがないようなものだった。つまりは世界初の「抽象絵画」だったのである。

抽象絵画の創始者として一般的に知られているのは、ワシリー・カンディンスキーである。彼はヒルマとほぼ同世代で、奇しくもヒルマと同じ1944年に亡くなっている。そしてカンディンスキーも神智学に影響を受けていたことは史実として知られている。

カンディンスキーが最初の抽象画を手がけたのは1911年だったのに対し、ヒルマの抽象画は1906~07年と先んじていた。しかしカンディンスキーの抽象画が世界に認められ、母国ロシアでもレーニンに「革命的」と賞賛されたのに対し、ヒルマはそうではなかった。自分の絵画が認められないであろうと考えたのか、彼女は膨大な数の抽象画を描いていたのにもかかわらず「死後20年は公表しないで」と言い残したまま世を去ってしまったのである。

グッゲンハイム美術館で開かれた回顧展は史上最高の来場者を記録した
グッゲンハイム美術館で開かれた回顧展は史上最高の来場者を記録した

しかしその評価は、死後も変わらなかった。1970年にヒルマの親族がストックホルム近代美術館に作品を寄贈しようとしたところ、「霊媒師の作品に興味はない」などとあしらわれてしまったのだという。彼女の作品がようやく認められるようになったのは21世紀に入ってからで、2018年にニューヨークのグッゲンハイム美術館でひらかれた回顧展は、グッゲンハイム史上最高という60万人もの来場者数を記録した。

しかしニューヨーク近代美術館(MoMA)は、ヒルマの作品を抽象芸術と言えるかどうかを判断しかねているということが本作で指摘されている。そしてこのような背景には、彼女が女性の画家だったというジェンダー的な問題があるのではないかということも、本作の主題となっている。

本作ではそうした社会的な背景が主題となっているが、一方で次々と紹介されるヒルマの作品の数々の大胆さや色の美しさ、デザインの雄大さも非常に魅力的である。ぜひ本作でヒルマの芸術を堪能してほしい。

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■「見えるもの、その先に ヒルマ・アフ・クリントの世界
画像5

2019年/ドイツ
監督:ハリナ・ディルシュカ
4月9日からユーロスペースほかにて全国順次公開中

筆者紹介

佐々木俊尚のコラム

佐々木俊尚(ささき・としなお)。1961年兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部政治学科中退。毎日新聞社社会部、月刊アスキー編集部を経て、2003年に独立。以降フリージャーナリストとして活動。2011年、著書「電子書籍の衝撃」で大川出版賞を受賞。近著に「Web3とメタバースは人間を自由にするか」(KADOKAWA)など。

Twitter:@sasakitoshinao

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