山科 誠(やましな まこと、1945年2月24日 - )は石川県金沢市出身の実業家、小説家。日本BS放送社長(2006年- )。元バンダイ社長。慶應義塾大学経済学部卒。柔道3段。
小説家としてはおもちゃ屋の二代目という意味を込めて「茶屋二郎」というペンネームを使用。
来歴
誕生からバンダイ入社まで
バンダイ創業者、山科直治の長男として生まれる。文筆家志望で家業のおもちゃ会社を継ぐ気はなく、直治も「自分が作った会社だからと言って、息子に継がせるようなことはしない」と公言していた。文筆家を断念し、1967年に出版社である小学館に入社。編集志望だったが営業に配属され、不満が溜まっていたところ「バンダイ倒産近し」という「黒い噂」を払拭するため直治の誘いを受け、1969年にバンダイに入社。
入社から社長就任まで
外国に行ってみたかったので輸出部を志望し、配属。米トンカ社との提携により1970年にジャパントンカが設立され、その社長に就任する。トンカのミニカーの日本販売を手掛けるものの不調に終わり、1973年にバンダイ本社に戻る。
この頃、子会社のポピーが『仮面ライダー』の変身ベルトなどのキャラクター玩具を手がけ急成長する一方、純玩具(キャラクター玩具ではない普通の玩具)を手掛けるバンダイ本社の業績は伸び悩んでいたことから、山科は経営の多角化を提案。玩具自動販売機事業や出版事業などを手掛けるようになる。
1980年に35歳でバンダイ社長に就任。直治によると「決して私の長男だから継がせるという世襲制的な考え方は全くない。新社長には未完ながら大変優れた素質がある」としている。また直治と「業績が数年にわたり悪くなったら、年が若くとも止めてもらう」という約束を交わした。
山科誠が後に語った所によると、直治は胃ガンで先が無いと考え社長職を譲ったものの初期のもので手術後回復。「もし父の病気がなかったら、他の優秀な社員がバンダイの後継者になっていて、私が社長になることはなかったのではないかと思います」とも語っている。
海外展開・経営多角化
社長就任直後にガンプラがヒット。前述の約束のこともあり「『ガンプラ』が売れたおかげでその後も社長でいられた」と語っている。当時の新聞に「機動紳士」と書かれた。
1983年にバンダイグループ8社をバンダイ1社に合併する。この際にポピーのキャラクター路線でバンダイの社風を統一する。これに関して後に「(キャラクターが)一番イージーだった」と語っている。また純玩具をなくしキャラクター玩具のみになってもよしとした。
前述のように輸出部にいた経緯から海外展開に積極的だったがバンダイのような日本のブランドは海外では相手にされなかった。東映の渡邊亮徳(元東映副社長)の協力により、東映製作のキャラクターを使ったビジネスを展開、最初の成功はフランスで、同国では日本のアニメのフランス語吹替えで成功した。しかしこの手法はアメリカでは通用せず、同国で成功するには、渡邊亮徳が長年手がけて来ていた戦隊シリーズ『パワーレンジャー』の登場を待つことになる。「日本ジャパニーズヒーローは世界を制す!」に書かれている。
経営の多角化は社長就任後加速し、次々と新規事業を手掛けることになり直治は「また赤字事業がはじまった」と周囲にこぼしていた。これは玩具事業だと山科直治が育てた古参社員が邪魔だったからとされている。特に映像事業は「社長の道楽」と言われるもののガイナックスなどの若い才能を育てることとなる。
多角化戦略の最終目標はディズニーのような「総合エンターテインメント企業 」であり、「私は日本のウォルト・ディズニーになりたい」と語っている。
1985年にプラザ合意による急激な円高で輸出の採算が悪化。「もう(日本国内での)合理化はやめた」と語り海外生産比率を引き上げることを決定する。後には「将来、国内生産をゼロにしたい」、「日本でおもちゃを造る時代は完全に終わった」などと語っている。
マルチメディア事業の失敗
1970年代よりエレクトロニクス玩具に注目しており、玩具事業ではこれを積極的に手がける。しかし1982年の「LSIショック」でビデオゲーム機から撤退。1985年に任天堂のファミコンに参入する。
1980年代は一般玩具の需要はすでに成長が見込めず、「任天堂さんにおんぶさせてもらっている」と語っている。「それがいやなら自分でハードを作ればいい」とも語っている。
1990年代に成長戦略としてマルチメディア事業を重視するようになり、1996年にマルチメディアゲーム機「ピピンアットマーク」を販売するも失敗、「マルチメディアは短期で成功するのが難しいと感じた」と語る。このような中、セガとの合併によるセガバンダイの設立が浮上、合併会社の社長に就任予定と報じられる。
しかし自ら「ワンマン」とする山科誠の強引な合併構想は社員の反発が強く破談、この騒動の責任をとり社長を辞任するも会長として経営の一線に留まる。
その後、ピピンの事業を諦めざるを得なくなり、その清算による1999年3月期の赤字決算の責任をとり会長職を辞する。
バンダイ社長の頃から小説を発表しており、日本BS放送社長に就任するまでは小説家として執筆に専念していた。
早くから現在では主流となるメディアとの融合を見据えた商品展開を手掛けており、今日の同社の根幹を成すといっても過言ではない。また、映像事業は現在では主要な柱の一つに成長した。変革をためらい、80年代に新規事業に進出しなかった他社が軒並み業績を低下させたのに対して対照的である。
発言
- 「成功するキャラクターというのは、せいぜい三割」
参考文献
月刊トイジャーナル
外部リンク
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