読み込み中...
「雨あがる」(堯史監督)山本周五郎の原作を黒澤監督が脚本を書き、その遺志を継いで、小泉堯史監督がメガホンをとったのですが。脚本構成が黒澤監督にしては甘くないでしょうか?物語のやま場は、賭け試合をした主人公が、仕官が決まりかかったが、杓子定規の家老が官僚的な裁断でもって待ったをかける際の妻女が「あなたみたいなとうへんぼくには・・・」と啖呵を切るところなのでしょうが。徹底的名善人の寺尾とはゆえ、仕官をしたいのは本人はもちろん妻の宮崎美子も願ってたわけでして、そのお宝ともいえる仕官を棒に振る要因(賭け試合)を序盤にあっさりと観客に見せてしまい(宿屋で他の宿泊者に酒肴を振舞う金策)それが足かせになって仕官かなわず・・・。ドラマとして浅くないですかね?お宝(仕官を)とるか、善人100%の仕舞をとるかの選択肢と葛藤がないままに妻君の啖呵へ・・・。物語としての構成として(私案ですが)寺尾の超善人振りを見せる(宿での酒肴を振舞う以外)エピソードを見せておいて(主人公のキャラ設定)長期の浪人生活の困窮ぶり(だから、お宝の仕官がクローズアップされる)藩の若侍の私闘を止める寺尾→殿の饗応(指南番の推挙)→御前試合(勝利を収めて仕官叶う)殿からのお沙汰待ち(正式な辞令)→宿で妻に告げる。宿へ帰ったら、宿で浮かぬ顔の遊女(原田三枝子)がいて、わけを聞くとよんどころない事情があり、それを勇躍助けようとする寺尾だが、家老から私闘は固く禁じられている・・・。仕官をとるか、一人の女、それが遊女ではあるが人を助ける行為をとるか。(妻の嫉妬もからめて)このあたりの葛藤がない物語なので(お宝かヒューマンか)寺尾の人物が薄っペラく思えてしまいますが。しのつく雨の中、寺尾の白刃が初めてスクリーンできらめく。→私闘がばれて(町の道場たちが密告)仕官はなし。→妻の啖呵へと→降り続いていた雨が晴れる。旅たつ二人。てな感じならば、寺尾の馬鹿ほどの善良さと妻の啖呵も納得しやすいですが。見た後、晴れ晴れとした気持になるようなコンセプトの映画を目指したらしいですが、確かにそれでもいいのですが、何かひねりがなくて単調な物語に思えるのはおいらだけでしょうか?もちろん、製作者側の意図を否定するわけでなく、面白い素材なので・・・。もったいないな~。「雨あがる」をごらんになった方は、映画本編をどう思われましたか?長文失礼しました。
質問日時: 2009/11/11 12:59:52
解決日時: 2009/11/12 06:32:40
映画版「雨あがる」では最後に殿様は追いついて召し抱えるのですか。映画版「雨あがる」では最後に殿様は追いついて召し抱えるのですか。それとも寺尾聰と宮崎美子は流浪の旅を続けるのですか。
質問日時: 2006/12/23 13:15:05
解決日時: 2006/12/23 21:17:22
注)Yahoo!知恵袋内の情報を検索した結果を表示しております。