坂東好太郎 : ウィキペディア(Wikipedia)

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坂東好太郎 の Wikipedia

坂東好太郎(ばんどう こうたろう)(1911年(明治44年)5月4日 - 1981年(昭和56年)11月28日)は、歌舞伎役者、昭和初期の時代劇映画の二枚目スター。屋号は大和屋。定紋はミツ大・かつみ。

生涯

東京市神田区連雀町(現在の東京都千代田区神田須田町)に生まれた。本名本間健太郎。父は十三代目守田勘彌、母は町内の富士見湯の娘であった。淡路尋常小学校(現在は昌平小学校に統合)を了えた。

5歳のとき七代目沢村宗十郎に弟子入し、8歳のとき伯父七代目坂東三津五郎の門へ移った。1922年(大正11年)、帝国劇場で(市村座ともいわれる)。沢村健太郎として初舞台を踏み、1924年、初代坂東好太郎を名乗った。1930年(昭和5年)、六代目尾上菊五郎の日本俳優学校を卒業した。この頃、四代目片岡我當が座長を勤めた新宿第一劇場の『青年歌舞伎』に、参加した。

1931年(昭和6年)20歳、松竹下加茂撮影所の映画俳優に転じ、翌年『世直し大明神』でデビューした。以降、林長二郎、高田浩吉とともに下加茂の三羽烏と呼ばれ、多くの時代劇映画に出演した。溝口健二監督のもとで田中絹代と共演した『浪花女』(1940年)は、名作といわれる。

下加茂撮影所の女優飯塚敏子と結婚し、のちの歌舞伎俳優坂東吉彌 (2代目)(1937年 - 2004年)、坂東彌十郎(1956年 - )などの子を持った。

1941年(昭和16年)30歳、『報国劇団坂東好太郎一座』を結成して大日本移動演劇連盟に加盟し、大戦下に巡業した。

戦後の1948年(昭和23年)37歳、大映京都撮影所に入社し、その後1955年日活、1958年新東宝、1960年東映へと移籍したが、1962年9月、八代目坂東三津五郎の襲名披露興行のとき、歌舞伎に戻った。

その『口上』の舞台で、十七代目中村勘三郎が、「けーんちゃん」と呼びかけ、好太郎が「はぁーい」と受けて笑わせた。勘三郎は少年期、母親が関係した連雀町の寄席『白梅亭』に入り浸って、町内の好太郎と古馴染みだった。

以降、勘三郎一座ほかの舞台で、敵役や老役に活躍した。

1981年(昭和56年)没。享年70歳。

外部リンク

出典

上の外部リンク、脚注の情報のほか、

  • 『演劇界臨時増刊 新版歌舞伎俳優名鑑』、演劇出版社(1973)
  • 上田正昭ほか監修:『講談社日本人名大辞典』、講談社(2001) ISBN 4062108496
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2009/11/08 03:49 UTC (変更履歴
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