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さらば我が愛、覇王別姫でのチャン・フォンイーの評価について、質問です。レッドクリフの曹操役を演じていたことから興味を持ち、「さらば、わが愛~」の作品そのものに魅了されDVDを購入しました。この役者さんに関して検索を重ねていくうちに、あまり高い評価を受けている方ではないことがわかり、少しショックを受けました(>_<)レスリー・チャンが小楼役の役の解釈の誤りを指摘し、二度と共演したくないと語ったことがよく示されていますが、それはつまり、あくまで演出や台本そのものには問題がなかったけれど、解釈一つで台なしになってしまった、ということでしょうか。確かに文革で吊し上げにあう場面では、幼少期・石頭と言われていた頃の情にあつく、兄貴分な人柄と随分隔たってしまったものだなあ…と少し違和感を感じましたが…吊し上げの際のメイクの乱れについて、蝶衣と小楼の京劇にかける想いの差の現れだ、というコメントもありましたが、朴念仁であれ仁義と友愛に満ちた男で、尚且つ妻を気遣う余裕があったならば、果たして死を畏れる余りにメイクができなかった。ということが有り得るのかな?と少し疑問に思いました。この映画において、小楼が憎んでも憎みきれないようなどこまでも気のいい性分の男ならどんな作品になっていたのか、興味深い所ではありますが、卑小で臆病な側面を持ち、そのことを隠そうともしない生き汚い小楼ではいけなかったのか、というのが私の感想です。私が感じたやり切れなさ、悲壮感は、小楼のそんな側面があったからこそで、それでなければ余りに美しすぎる、わかりやすいラブストーリーにおさまってしまうのではないかな…、と思ってのことです。皆さんのご意見をお聞かせ下さい(^-^
質問日時: 2009/05/24 05:32:28
解決日時: 2009/06/07 19:55:37
>演出や台本そのものには~いえ、演出や台本にも問題はあったと思います。何故なら、役者の解釈だけが誤りなら、撮影時に監督なりが「君の解釈は演出意図を理解していない」等と指導するからです。レスリー・チャンもそれは重々承知していたと思いますので、あの発言は、「真の役者なら、自分の意志でもって、演じるべきものの本質を理解すべきである」つまり、「何らかの圧力でねじ曲げられたもの(台本なり演出なり解釈なり)に屈してはいけない」というプロとしての気概の事なのです。実際、中国当局の干渉はあったようですし、中国にとって「同性愛(者)」は全否定すべき物なので、原作の「自分への蝶衣の恋情に気付かず、ひたすら『弟思い』な小楼」では、「同性愛に寛容」とみなされ、上映(或いは撮影)不許可もあり得たでしょう。レスリー・チャン:香港人監督、チャン・フォンイー、コン・リー:中国人ですので、レスリーの役者としての誇りを当時の中国人俳優に求めるのはいささか酷な訳です。それに恐らく、中国人男性には普通に同性愛への嫌悪感情もあるでしょうし。レスリーは、この役の為に完璧な北京語を身に付ける位の努力も払っています。香港=広東語とは、音が随分違います。その他、何時でもそうでしたが、彼は常に全力で、全身全霊をもって役を演じ、心血を注いでいます。「完璧とは、彼(レスリー)の為にある言葉」という賛辞もある位です。蝶衣も、「彼の為にある役」「彼そのもの」「彼にしか演じられない」と言われました。さて、小楼の「解釈の誤り」というのは、「文革時の生き汚さ」もありますが、「蝶衣への態度」「根本的な性格」の部分の事が大きいのです。原作の小楼は、蝶衣が自分を「恋愛対象として」好きだと全く気付いておらず、自分を慕う態度にも素直に嬉しく思い、あくまでも蝶衣を「大事な弟分」として大切にし続けます。ですが、映画では、「同性愛者」である事に対する皮肉・嫌みを示しています。又、小楼の婚礼の祝いに、蝶衣は子供時代の思い出の剣を(悲痛な方法で)手に入れます。原作では小楼が無邪気に大喜びして、それで蝶衣の犠牲が幾ばくかでも報われるのですが、映画では「婚礼の祝いにこんなものを」という感じにあしらいます。文革時も、恐ろしさに動揺し、思わず色々言いもしますが、基本的には蝶衣や菊仙を守りたいという気持ちを忘れません。原作小楼はそこまでの人だから、蝶衣は長年自分の思いが受け入れられなくても構わない・耐えられたのです。映画版では、あそこまで蝶衣が愛する事が不可解になりかねないのです。更に、原作菊仙は、「最後まで嫌な女」です。「三文芝居」で小楼の同情を買って押しかけ女房になり、どこまでも蝶衣を「小楼を張り合うライバル」と見なし、事あるごとに嫌みを言い、文革時には、小楼が「自分と離婚すれば菊仙が助かる」と思って「彼女とは離婚する」と言ったのを、「小楼の妻の座を失う(=蝶衣に対する優位を失う)位なら、妻のまま死んでやる!」という一念で首をくくるのです。決して、「離婚する」と言われて傷ついたからではないのです。ですが、映画では、「悲劇のヒロイン」とばかりに、最後に「単独大写し」が入るなど、すごい扱いです。しかし、これは、コン・リーが「中国の国民的女優」である、当時監督と「深い仲」だったことが理由・原因なのです。>メイクの乱れ・・・蝶衣や菊仙を庇うのは「本人の性分・責任感」で、死を恐れるのは「本能」ですから、あの時は動揺しても当然です。ここは小楼の事より、「人生において舞台しかなかった」蝶衣の気迫(或る意味「怖い物知らず」)を捉える箇所だと思います。彼は、それまでに何遍となく舞台の上で「命を落としている」のです。彼にとって「本当の死」と「舞台での死」は違いがないのです。吊し上げの場で「死ぬ・殺される」というのなら、最後までしっかりと演じきるという気持ちがあるだけなのです。「舞台に立てない」のなら、そんな人生は蝶衣にとって「生きている」とは言えません。役者として生きられない・役者であることを否定するのなら殺せと本気で口にする人です。(戦後の裁判の場面がそんな感じです)恐らく、中国での上映をはじめから考慮せず、香港の役者だけで制作していたら、もう少し原作の良さを生かせたかも知れません。(ラストに関しては、原作より映画の方が良かった・納得がいく物でしたが)もし、小楼が「朴念仁であれ仁義と友愛に満ちた男」として描かれていたら、それでも蝶衣は自死を選ぶでしょうから、残りの人生ずっと「何故彼が死ななくてはいけなかったのか」「自分はどうすべきだったのか」という思いを抱え続けたでしょう。ここで初めて小楼の心に「特別な存在」として蝶衣が突き刺さり、蝶衣の苦悩に遙かに及ばなくても、蝶衣の事で苦悩するのでしょう。それにより、漸く蝶衣の思いは報われるのです。
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