ジョセフ・M・シェンク : ウィキペディア(Wikipedia)

ジョセフ・マイケル・シェンク(, 1878年12月25日 - 1961年10月22日)は、アメリカ合衆国の映画プロデューサー、実業家である。同国の映画産業の発展の鍵を握ったパイオニアである経営者である。英語での発音はスケンク/ˈskɛŋk/。

人物・来歴

1878年12月25日、ロシア帝国(現在のロシア)ヤロスラヴリ州ルイビンスクのユダヤ人家庭に生まれるJewish Standard Letters。1893年、14歳のころに当時幼かった弟のニコラス・シェンクとともに、家族でニューヨークに移民した。ジョゼフとニコラスの兄弟は、ニューヨークのフォート・ジョージ遊園地で使用権を経営することで、エンタテインメント・ビジネスに関わった。

エンタテインメント産業のポテンシャルを思い知り、1909年、30歳のころにパリセイズ遊園地を兄弟で買収し、その後マーカス・ロウのパートナーとして映画館チェーンを経営することで、黎明期の映画産業に参入した。映画ビジネスとの関わりを通じて、1916年、ジョゼフはヴァイタグラフ・スタジオの若手のトップスター、ノーマ・タルマッジと結婚した。

弟とは離れて、ジョゼフは映画産業の未来が存するように思えた西海岸に移住した。わずか数年のうちに、ジョゼフは新会社ユナイテッド・アーティスツの初代社長になっていた。1933年にダリル・F・ザナックとパートナーシップを結び、20世紀ピクチャーズを創立し、同社は1935年にフォックス・フィルムと合併した。20世紀フォックスの会長として、映画ビジネスにおける、もっともパワフルでもっとも影響力のある人物となった。

戦闘的労働組合との和平を買収するペイオフ計画で逮捕され、所得税回避の罪で有罪判決を受け、恩赦を受けるまで獄中生活を送った。釈放後、20世紀フォックスに戻り、マリリン・モンローという名の若い女優に夢中になり、モンローのキャリア開始に当たって重要な役割を担う。

映画芸術科学アカデミーの創立者のひとりとして、1952年には、映画産業の発展への著しい貢献に対して、アカデミー賞特別賞を受賞した。映画における貢献に対し、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム(6757 Hollywood Blvd.)にその名を刻む。

1957年に引退し、そのわずか後に脳卒中に罹患し、最後まで完全には回復できなかった。1961年10月22日、カリフォルニア州ロサンゼルスで死去した。満82歳没。ニューヨークブルックリン区のマイモニデス墓地に眠る。

おもなフィルモグラフィ

  • 『キートンの探偵学入門』 : 1924年 - 製作
  • 『キートンのラスト・ラウンド』 : 1926年 - 製作
  • 『噂の女』 : 1928年 - 製作
  • 『山の王者』 : 1929年 - 製作
  • 『月世界征服』 : 1930年 - 製作総指揮
  • 『恋愛即興詩』 : 1930年 - 製作
  • 『濁流』 : 1934年 - 製作総指揮
  • 『野性の叫び』 : 1935年 - 製作

関連項目

  • ニコラス・シェンク ([[:en:Nicholas Schenck]])
  • パリセイズ遊園地 ([[:en:Palisades Amusement Park]])
  • マーカス・ロウ ([[:en:Marcus Loew]])
  • ヴァイタグラフ・スタジオ ([[:en:Vitagraph Studios]])

外部リンク

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2023/06/23 03:26 UTC (変更履歴
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