古典、というものについて考えてみました。古典とよばれるもの(映画、音楽、演劇、小...

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古典、というものについて考えてみました。古典とよばれるもの(映画、音楽、演劇、小説など)はよく、基礎として評価されることが多いと思うのですが、古典の真価はそこではないのではないか、と考えました。なぜそういうことを思ったかと言うと、先日の「爆問学問」で坂本龍一氏が次のようなことを言っていたからです。「9.11テロが起こったとき、あまりの絶望で、みな言葉を失い、音楽もかかっていなかった。そんな時、初めて耳にした音楽がビートルズの『イエスタデイ』だった。そこに、僕は『音楽の存在意義』のようなものを感じた」ビートルズといえばある種の「古典」「先駆者」です。彼らは多くの音楽人に多大な影響を与えました。しかし、僕の周りの友達にこう言うことをいう人がいます。これは黒澤監督について僕が語っていた時です。「『先駆者』。何かを始めた昔のもの(人)より、それを発展させた今のもの(人)の方がすごい」と。僕は一応こう返しました「でも、お前が好きだといってる監督のほとんどが黒澤の影響をうけてるんだぜ」。友達は首をひねりました。僕は、間違っていました。知らず知らずのうちに無意味な比較をしてしまったのです。卵が先か?鶏が先か?そんなことは問題ではないのです。どっちが、すごいかというのは卵にも鶏にも失礼だと気づきました。そこで、僕は考え方を変えたのです。つまり、基礎を築いただの、発展させただの、という問題ではなく「本質的な部分」に触れたかどうかが問題ではないのか?ということです。まず、新しいことをしないと世間に評価されません。黒澤監督も小津監督もです。そしてその時代を風靡しました。その「新しいこと」は今となっては、新しくないことが多い(技術的な面などは特に)ですが、それは「本質」ではないのです。モノクロでCGなどない時代の映画が評価されるのは「本質的な部分」に(黒澤、小津それぞれのやり方で)触れているからではないでしょうか?その証拠に彼らを尊敬してる監督達はまったく作風がそれぞれ違います。その「違う」部分を比べても仕方ない。大切なのは「本質」なのです。話を戻すと「ビートルズはあの時代だから評価され、古い部分もあるかもしれない、けど、彼らは確かに音楽『本質的なもの』にふれたのだ」坂本さんの言葉はこう解釈できないでしょうか。つまり僕が言いたいのは、古典や先駆者が評価されるのはなにも、「基礎」を築いたからではなく(そんなものはないのです)、「新しいこと」に挑戦しそのなかに、普遍的な「本質的な部分」があったからだ、ということです。皆さんはどう思いますか?お礼は250枚です。

質問日時: 2009/09/06 14:42:05

解決日時: 2009/09/13 02:42:33



古典と一口に言ってもいろいろあります。「大絶賛上映中」と世間で言われるものでも千差万別あるように、古典にも様々な段階があるはずです。古典というのはとりあえずの区分けですから、世間で古典といわれるものでも、それが果たしてその分野において歴史上の評価に値するのかどうかは、実際に自分がその作品に触れて判断するしかないものです。古典にも当時の世相に影響を与えたところどまりのものもあるでしょうし、新しい手法に挑戦して基礎を形作ったものもあるでしょうし、またそういうものの中でも風化してもしようがない価値しかないものもあるでしょうし、また現在不当に貶められていても再評価に値するものもあるでしょうし、今だからこそ誰も届かない表現に到達した作品と崇められている作品もあるでしょうし、それぞれが古典と呼ばれるものの中にはあると思われます。一概に世間で古典と称されているものはこういうものだとは断定できない。世間で言われている潮流が正しいとは限らないからです。昔の日本映画を見ていくと、世界では特に有名でなくても、埋もれているもので素晴らしいものは沢山あります。いろいろなものを手がかりに、実際に自分の目で判断していくことでしか本質的な価値は判断できません。全てを理解することは人間には無理です。いろいろ積み重ねていくうちに無駄なものが勘で見えてくる。映画なら映画の、自分にとっての本質的な価値はなんなのか、を追求していくうちに、自分にとっての無駄なものと必要なものがわかってくる。無駄なものに付き合っている暇が無いことにも気付いてきます。本質的な価値はどこかのカテゴリーに必ずあるものではなく、自分の経験と感覚で選別して追求し、研ぎ澄ましていくものです。私の場合は、見えてきた無駄なもののなかのひとつが現在つくられている映画ということは言えます。何も好き好んで無駄な宣伝と金銭主義やイデオロギーに塗りたくられた、拙い水準の芝居や、拙い価値観の劇に付き合う筋合いが無いからです。女が女らしくあってはいけない、男が男らしくあってはいけない、粋が野暮でなければいけない、人情が功利的でなければいけない、そんな病に犯された時代の疲弊しきった作品に付き合っている暇は私にはありません。『96時間』を最近観ましたが、これは大変面白かったです。近年まれに見るアクションの傑作だと思い、興奮しました。しかしそれはあくまで、現在のハリウッド映画における、「刺激」「流麗な」などでの語り口の範囲内での秀逸な技量であって、それを超える価値観を私は芝居からも画面からも見出せませんでした。今ではまず前提としてある「功利的な判断」によって、ただの教科書とスポイルされることに甘んじるよりほかにない、全盛期の優れた映画郡が持ちえた映画美に匹敵する場面は一瞬も見当たりませんでした。今の映画しか知らない人にとっての映画は、現在ハリウッド映画による技がいかに優れているかどうかという話です。昔の映画を知らないと今の映画を相対化する視座を持てないいのだからそれは無理も無い。昔を知るというのは今の本当の姿を知るということでもありますでしょう。もっとも私は今の映画に何の希望も持っていないので、今の映画のことは特に知りたくもありません。昔の映画のほうが単純に面白いから見続けているだけです。知っている人が周りに誰も居ない、宣伝に無関係なところにある昔の映画作品群を観続けるというのは大変孤独であり、またスケジュール面でも大変困難なことです。映画という趣味は時間と手間ががかかります。一足飛びにどうなるものではないと思います。観るべき映画は次から次に出てくるからやっかいです。しかしそういう個人都合で、それら昔の優れた映画作品郡から与った恩恵を裏切ることは出来ないし、本当にいいものにまた巡りあいたいからこそ、これからもコツコツ観ていこうと私は思っています。

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