ギュンター・グラス : ウィキペディア(Wikipedia)

ギュンター・グラス(Günter Grass, 1927年10月16日 - 2015年4月13日)は、ドイツの小説家、劇作家、版画家、彫刻家。代表作に『ブリキの太鼓』など。1999年にノーベル文学賞受賞。

来歴・人物

ギュンター・グラスはダンツィヒ(現ポーランドのグダニスク)で生まれた。父はドイツ人の食料品店主、母は西スラヴ系少数民族のカシューブ人。当時、ヴェルサイユ条約によりドイツから切り離され、国際連盟の保護下に形式上独立国だったダンツィヒ自由市で、ドイツとポーランドをはじめとする様々な民族の間で育ったことが、その後のグラスの作品に大きく影響することになった。

15歳で労働奉仕団員や空軍防空部隊補助員を務め、17歳で武装親衛隊の第10SS装甲師団『フルンツベルク』に召集入隊した後、敗戦を迎え、米軍捕虜収容所で半年間の捕虜生活を送る。その後、デュッセルドルフで彫刻家・石工として生計をたてながら美術学校に通い、詩や戯曲なども書く。1958年には朗読による作家・批評家同士の作品発表の場「47年グループ」で才能を認められ、1959年発表の長編小説『ブリキの太鼓』で一躍有名作家となった。

 『ブリキの太鼓』(1959年)は第二次世界大戦を中心とした前後30年間を時代背景とする戦争責任の問題に深く関わった作品で、その特徴は誕生と同時に治癒しがたい世界を認識し、その世界の一員になることを拒絶し、小人にとどまった主人公オスカルの視点から時代を自由に活写したところにある。大人たちの価値基準からすれば、オスカルは所詮哀れな白痴の太鼓叩きにしかすぎず、大人たちは彼の存在に少しの顧慮も払うことなく、自分たちの生を営む。このオスカルの視点が、左右均整のとれた非人間的な演壇を裏側から眺めることを可能にし、性や栄誉の自己満足を求めて奔走し、状況を認識し得ない政治社会的に未熟な大人たちが、結果的にはナチスの台頭を支え、極めて大きな政治的役割を演じたというパラドクスな状況を、逆に大人たちを見下しながら客観化することに成功したのである。『ブリキの太鼓』を皮切りに1963年まで2年ごとに『猫と鼠』(1961年)、『犬の年』(1963年)を発表する。この3作品は共に第三帝国時代を中心としたダンツィヒを舞台にし、登場人物も、かなり多くの者が共通していることからダンツィヒ三部作と呼ばれる。

 ダンツィヒ三部作後、グラスは自らドイツ社会民主党(以下SPDと略記する)の党員となり、作家の枠を超えて直接政治活動を行う。1965年の連邦議会選挙の際、彼はSPDへの支持を訴え選挙遊説する。敗戦から20年が経過し、西ドイツはすでに奇跡の経済復興を為し遂げ、連邦首相はアデナウアーからエアハルトに代わっていた。グラスは作家という職業を現実社会から遊離したものではなく、社会的存在とみなし、積極的に政治活動をする。「未だ嘗て国家主義的ヒステリーに陥ったことのないその成長した国民意識と、実証済みの憲法に対する忠誠でもって、社会民主主義者たちは何度もヴァイマル共和国を救いました」と議会制民主主義の漸進的な発展を保証するSPDを支援し、不当に誹謗中傷されるSPDの党首ヴィリー・ブラントを弁護する。戯曲『賎民たちの暴動稽古ードイツの悲劇』(1966)は、1953年6月16日・17日に東ベルリンを中心に東ドイツ各地で実際に起きた労働者の蜂起とソヴィエト軍の戦車による暴動鎮圧を題材とし、ベルトルト・ブレヒトをモデルにした劇団の座長を主役に据え、知識人の思想と行動の乖離を問題化したものである。『局部麻酔をかけられて』(1969年)の中では、グラスが批判的に描写したものが二つある。一つは戦後の豊かな消費社会に物質的欲求が充たされた結果、精神が鈍感になった人々、これらの人々は非政治社会的で自己の欲望の充足のみに情熱を注ぎ、ナチスの台頭を支えた第三帝国時代の状況共同構成者と同質の精神状態にあるケンピンスキー・ホテルのテラスでケーキをぱくつく満ち足りた人々であり、砂箱で幼稚な復讐戦遊びに夢中になるクリングスである。「状況が要求するところのものを自ら欲するような心的態度が取れるように我々を教育しよう」と言うクリングスの言葉を最高度に実現したのが、かつてナチスの党員で、戦後首相になったキージンガーである。もう一つはテロルとアナーキーに傾斜していく過激な議会外反対勢力(以下APOと略記する)である。『蝸牛の日記から』(1972年)は、1969年の連邦議会選挙の際に全国を選挙遊説してまわったグラスの体験が、そのままアクチュアルな現代政治の問題として登場し、この現代とドイツの近過去を主人公が子供たちに物語るという教育的側面を持つ小説である。SPDから金銭的援助があるわけではなく、グラスは党の組織とは別個に、シンボルカラーを決め、自らデザインしたポスターや選挙新聞「賛成」(Dafür)を自前で印刷し、睡眠と演説と討論以外の時間は移動するVWバスの中で、あるいはホテルの部屋で、講演原稿、遊説中の体験などについて思考をめぐらし、虚空に、紙の上に絶えず書き続ける精力的な活動を展開する。グラスの選挙遊説が、いつも何の障害もなく順調に進んでいったわけではない。過激派に演壇のマイクを占領されたり、野次られたりしたこともしばしばであった。左翼の急進主義者からは「裏切り者」、「改良主義者」と批難され、右翼の急進主義者たちからは「断念の太鼓叩き」(Verzichttrommler)と罵られた。しかしながら、グラスはコチコチの、あるいは狂信的なSPD支援者ではない。1992年、SPDが難民の庇護を制限する新難民法案に賛成票を投ずると、グラスはSPDを脱党する。柔軟で自己の信念に忠実なアンガジュマン(社会・政治参加)の作家である。

 『女ねずみ』(1986年)の時代背景は次のようであった。1970年代の初めから西ドイツ各地で活発となった環境保護運動から、「原発反対」、「地球を守れ」をスローガンとする緑の党が誕生。1960年代後半に高揚した学生運動は70年代初めに退潮。東西両陣営の対立がエスカレートし、ソ連の中距離核ミサイルSS20に対抗して、アメリアは西ドイツに巡航ミサイル・トマホークと中距離核弾道弾パーシングIIを配備。ハイルブロンでパーシングIIのエンジン部分が暴発し、米兵4人が死亡。偶発戦争の不安が高まる。反原発デモが頻繁に行われ、大気汚染による森林の枯死が深刻になる。このような現代地球の、ドイツの危険な状況を認識する「女ねずみ」が鈍感で利己的な人類に、人類の自己破滅について警告するというのが本書である。『ひらめ』(1977年)では、ひらめは最初は女性の歴史の敵対者として登場し、最後はその廉で女性の法廷で裁かれる。作品は食と栄養の分野で各時代の料理女がヴィスラ河の河口で演じる女性の歴史、現代の語り手とその妻イルゼビルが演じる男女の役割関係及びひらめの裁判という3つの物語が童話から借用したひらめのモチーフを軸に、1973年10月のイルゼビルの受胎から出産までの9カ月にわたって展開される。『テルクテの出会い』(1979年)は、グラスが「グルッペ47」の生みの親ハンス・ヴェルナー・リヒターの70歳の誕生日を記念して彼に捧げた、架空の、300年前に開催された「グルッペ47」の物語である。「グルッペ47」が創設された、第二次世界大戦というドイツ最大の戦争後の1947年とキリスト教最後にして最大の宗教戦争末期の1647年には、国土の荒廃、外国勢力による占領、数百万人の死者、言語の混乱、絶望的社会状況などいくつかの類似性があり、その類似性がグラスの想像力をかきたて「グルッペ47」を300年前にミュンスター近郊のテルクテで開催させることにしたのである。グラスの豊かな想像力と旺盛な知識欲がほとんど見通すことさえ不可能な資料を整理し、17世紀バロック時代の文学を自家薬籠中のものにしたのである。『鈴蛙の叫び声』(1992年)で物語られる時間は1989年11月から1991年5月頃までの、およそ1年6カ月である。舞台はダンツィヒ、偶然の積み重ねで出会い、親しくなっていった初老の男女、レシュケとピョントコフスカは、当初は穏やかに慈悲深く計画されたのであるが、しだいに拡大され、営利第一主義の企業として発展していく「墓地教会」に裏切られる。二人は正式に結婚するが、未来予知能力のあるレシュケは再統一されたドイツの歩みとヨーロッパの行く末に対して不安を告白する。最後にナポリを見学しローマへ帰るハネムーンの途中、二人はカーブの多い崖から転落し死亡する。ドイツ再統一をポーランド側から見た作品である。グラスは生まれ故郷ダンツィヒの、ドイツマルクによる支配についての懸念を『鈴蛙の叫び声』の墓地教会を通して形象化したことによって、その後は再統一後の旧東ドイツの問題に集中することが可能となる。それ故、本書は内容的には『広い野原』の習作でもある。『蟹の横歩き』(2002年)では、海難事故として派手に取り上げられるタイタニック号の背後に埋もれ、ほとんど忘れ去られたかのような9千人ほどの死者を出した史上最大の海難事故を扱っている。

 1999年、グラスはノーベル文学賞を受賞する。「グラスは生き生きした暗い寓話で歴史の忘れ去られた側面を描き出した。『ブリキの太鼓』は20世紀の、永久に残る文学作品の一つに数えられよう」というのが、スウェーデン・アカデミーが明らかにした受賞理由である。『ブリキの太鼓』はグラスの名前を戦後のドイツ叙事文学と同義語まで高めた代表作であるが、「歴史の忘れ去られた側面を描き出した」のは何も『ブリキの太鼓』だけではなく、彼の小説のすべてがそうであると言っても過言ではない。特に少年の眼から第二次世界大戦当時のダンツィヒを描いた『猫と鼠』と『犬の年』、石器時代から現代までを歴史の背後にいる女性に焦点を当てて描いた『ひらめ』、ネズミが人類の自己破滅を警告する『女ねずみ』、テオドール・フォンターネを復活させ現代ドイツの150年を描いたEin weites Feld『広い野原』(邦訳名『はてしなき荒野』であるが、以後『広い野原』と表記する)などには、『ブリキの太鼓』と同様にいずれも「歴史の忘れ去られた側面」が描かれており、ドイツの歴史はグラス文学の本質的な基盤である。

 グラスは、アドルノの「アウシュヴィッツの後で詩を書くことは野蛮だ」というテーゼ(命題)を「野蛮なのはこの禁令だ、この要求は人間にとって大きすぎる、根本において非人間的である」と考え、イデオロギーではなく、懐疑を基調にしたアンガジュマンの作家として、一貫して「弱者、被害者、少数者」のベンチに坐り、勝者の背後にある忘れられた歴史に焦点を当て続けた。ドイツ再統一に際してグラスは、西側主導による迅速な東の吸収合併によって再び強大な中央集権国家になることに異議を唱え、悲願の再統一に熱狂し陶酔感に浸っている人々の気持ちを逆撫でするようなEin weites Feld『広い野原』(1995年8月28日)を発表する。現代の中に過去の狂気を嗅ぎ取り、その歴史的連続性を現在化したのである。だが、『広い野原』は公刊前後、ドイツ文学史上前代未聞のスキャンダルに見舞われる。その発端となったのはマルセル・ライヒ=ラニツキの批評である。ライヒ=ラニツキは1995年4月、自らのたっての願いによって実現したグラスの『広い野原』の朗読会で拍手喝采を惜しまず、作品の成功を保証し、グラスを祝福していたのであるが、その4カ月後、彼の態度は一変する。彼は8月21日付けの「シュピーゲル」第34号で友人グラスに当てた公開書簡という形式を借りて、グラスと『広い野原』を酷評したのである。その批判を要約すれば「グラスは事実を歪曲し、旧東ドイツを美化しすぎている」ということである。さらに『広い野原』を一つの事件にまで拡大したのが、ライヒ=ラニツキがこの書を真っ二つに引き裂いている、同号の表紙に掲載されたモンタージュ写真である。グラスは直ちにこれに対し「表紙に本を引き裂く不快極まりない写真を載せた雑誌に独自の貢献をしたくない」と自分のインタビュー記事の掲載を拒否する。これを契機に『広い野原』をめぐる内外のジャーナリスト、政治家、批評家、文学者の賛否両論及び本を引き裂くライヒ=ラニツキの行為を糾弾する発言が連日マスコミを賑わすことになる。グラスに対する攻撃はエスカレートし、24日のドイツ第二テレビの「文学カルテット」で頂点に達する。この番組の中でライヒ=ラニツキは「文芸批評は評価し、判断を下さなければならない、そうしてグラスは教えられなければならないのだ。ドイツ再統一が重要なテーマであるこの本は退屈で、絶対的に無価値である」と批判する。ベルリンの壁の崩壊後、迅速なドイツ再統一に腐心してきた旧西ドイツの政財界の指導者、あるいは再統一に対して極めて高揚した精神状態にある人々の勝利者感情にとっては、この『広い野原』に表れた歴史認識は放置できないものであった。こういった国内の激しい批判とは反対に、外国からは概ね好意的な反響が返ってくる。このように『広い野原』をめぐる過熱した報道、とりわけ「シュピーゲル」の表紙の『広い野原』を引き裂くライヒ=ラニツキのモンタージュ写真と、あたかも一般読者が独自の読書体験をする前にこの本を読むに値しない、無価値なものとして拒絶する意識の形成を意図しているかのようなドイツ第二テレビの「文学カルテット」での『広い野原』批判は、この書の大宣伝となり、『広い野原』はベストセラー上位に躍進する。

 『広い野原』は、「19世紀を体験した」主人公フォンティが、「私にはどうしても大きい存在になろうとするこのような出来事は本当に少しも意味を持ちません」というベルリンの壁崩壊直後に抱いた見解の正当性が、通貨統合、再統一、信託公社の清算、フリードリヒ大王の遺骸のポツダムへの帰還と急展開していくおよそ1年10カ月の間に、現代ドイツの150年を「過現未」というグラス独特の第4の時間概念で時間を自在に飛び越えたり、過去を現在に溶解させたりしながら、「ドイツでは統一はいつも民主主義を台無しにする」から過去及びポーランド人とベトナム人を標的にした現在の暴力事件を引き合いに出して「ドイツでは何も変わっていない」を経て、「私は出ていかなくちゃ、立ち去らなくちゃ、遠くへ立ち去らなくちゃならないんだ。すべてが私にこう言うのだ。《いつの時代にもブーヘンヴァルトがヴァイマルの近くにある国から出て行く以外に何もないのだ。この国はもはや私の国ではない、あるいは私の国であってはならない」に至るまでに、歴史的にいかに実証されうるかというアンガジュマンの書である。フォンティは「その問題は広すぎて論じ始めたらなかなか決着がつかない“Es ist ein weites Feld”というフォンターネ『エフィ・ブリースト』のブリーストが問題解決を延期する慣用的表現を作中至る所で用いてきた。このような問題解決を延期する、どっちつかずの曖昧な態度は、第一次世界大戦前、スイスのサナトリウムで7年間過ごした、トーマス・マン『魔の山』のハンス・カストルプの態度に通じるものがある。この点、カストルプの態度に対するジェルジ・ルカーチの「無為にお落ち込み、決断する力もなく、一方でセッテムブリーニに共鳴しながら、他方ではナフタのデマゴギーに対してイデオロギー的に無武備であるというような、そういう敬うべき凡庸さというものは、歴史的な罪過となるのである」という評言は、『広い野原』のフォンティに関しても正鵠を得ているように思われる。グラスは、そのような人々をこれまで状況共同構成者として批判的に描写してきたのであるが、このような曖昧な態度のドイツ人こそが、結局はヒトラーの第三帝国とホロコースト、秘密警察国家東ドイツ、信託公社の清算による悲劇など、ドイツの歴史的罪過を生み出した元凶であると考え、最後にフォンティにその不決断な態度を撤回させる。フォンティは「それはそうとブリーストは思い違いをしていました。いずれにしても私はこの野原の広さを察知できます」(広すぎて論じ始めたら決着をつけることができないというのは欺瞞で、決着をつけることができる)とブリーストを否定し、“Es ist ein weites Feld”の“Feld”(野原)が何であるか、多くの埋もれたものや忘れられたものを掘り起こしたのである。グラスが掘り起こした“Feld”は、『旧約聖書』の中の「エゼキエル書」に通じており、「主の手が私の上に臨んだ。私は主の霊によって連れ出され、広い野原の真ん中に下ろされた。そこは死骸でいっぱいであった。主は私を至る所に連れて行った。見ると、野原の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらはすっかり干からびていた」のである。「勝者のベンチではなく、犠牲者のベンチに坐って歴史を見るグラスの姿勢は『ブリキの太鼓』から一貫しており、勝者の歴史が意識の中で習性化されている人々にとっては我慢できない書となっている。

 このように『広い野原』には悲願の再統一に熱狂し幸福感に浸っている人々の気持ちとは正反対のペシミスティックな調べが一貫している。グラス自身、ヴィリー・ブラント元連邦首相が東ドイツを国家として承認し、東西ドイツが共存していく東方外交を推進したときの強力な支持者の一人で、ドイツの再統一に関しても、ドイツはアウシュヴィッツという過去があり、単純に強大化されるドイツは近隣諸国に恐怖を与えるのみである、とドイツ再統一に危惧の念を抱いていた。それではドイツが一つになることにグラスは反対なのかというと、そうではなく、当時行われていたような西側主導の迅速な東の吸収合併によってドイツが再び強力な中央集権国家になることに反対しているのであって、グラスは東ドイツを悪とみなすのみではなく、東の良い面を生かしながら、東の民主主義の成長に時間をかけて西が手を貸しつつ対等に、東西ドイツという区別ではなく、東西のそれぞれの州が独立した連邦主義国家として、来るべき欧州連合の中で、世界の中で一つの優れた範例としてしかるべき役割を担っていくべきだと考えるのである。グラスはベルリンの壁崩壊直後、ヴィリー・ヴィンクラーとの対談で、ベルリンの壁崩壊という東ドイツの無血革命を評価しつつも、次の注釈を付ける。「本当は国内の民主化を先に進めて、それから国境の解放が予告されなければならなかった。」このようにグラスは、過激な清算などによる迅速な資本主義化ではなく、時間をかけて新たな問題を生じさせない旧東ドイツの改革を主張していたのである。

 2006年、グラスは『玉葱(たまねぎ)の皮を剥きながら』という自叙伝で、「17歳の時、武装親衛隊の一員であった」と告白し関係者に衝撃を与えた。15歳の時、ドレスデンの新兵徴募局に行き志願する。ファナティカルな軍国主義の時代に「お国のために」兵士になり、英雄になることを夢見たり、狭く苦しい家庭環境から外に出て、広い世界で仲間と自由になれるという解放感に憧れるのは、15歳の少年にとってはごく普通のことではあるまいか。志願していたことさえ忘れていた17歳になる直前、突然、召集令状が届き、数カ月、激しい訓練を受けた後、武装親衛隊の戦車隊に配属される。コトブスの南、シュプレー川とナイセ川に挟まれたラオジッツ地方に投入される。ソ連軍から激しい攻撃を受け、グラスは一発も弾を撃たないうちに散弾に当たり、右大腿と左肩を負傷する。負傷後、グラスは前線から野戦病院に運ばれ、チェコのマリーエンバートで終戦を迎え、アメリカ軍の捕虜となる。わずか6カ月余りの軍歴である。この事実は長い間、グラスの心に一片の良心の呵責として存在し続けてきた。2012年、グラスは南ドイツ新聞に発表した散文詩で、「イスラエルはその核兵器でそうでなくとも壊れやすい世界平和を危険に晒し、イランの国民を抹殺することができる最初の一撃を加えることを計画している」と非難する。それに関連してドイツの潜水艦のイスラエルへの引き渡しを批判し、同時に点検不可能なイスラエルの核兵器庫のタブーにも触れる。これは驚天動地の大事件である。ホロコーストの負い目のあるドイツ人にとって、イスラエル批判はタブー視されていた。激しい批判にもかかわらず、断念と絶望に対して不死身となり、常に敗者、弱者の立場から発信し続けるグラスには、いかなるタブーも存在しなかった。過去を現代の中に嗅ぎ出し、抑圧されたものを明るみに出し、それを起こり得る危険性として認識し、意識させることによって克服しようとするのがグラスのアンガジュマン文学の精髄である。グラスの生涯は、絶対に岩は頂上にとどまらないと知りつつ、命の続く限り大岩を頂上めざして転がし上げていくシーシュポス(カミュ『シーシュポスの神話』の主人公)の労役そのものであった。

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作家・評論家とも活発な交友を持ち、グラスを高く評価した著名人にウーヴェ・ヨーンゾンやマルセル・ライヒ=ラニツキ、ハンス・ヨアヒム・シェートリヒなどがいる。政治家とも交流が深く、のちのヴィリー・ブラント政権で大蔵大臣、経済大臣を兼務したカール・シラー([[:de:Karl Schiller]])が西ベルリン市経済大臣を務めていた当時(1966年)に、「税金を追加請求されてしまったのだが、西ドイツの記者のインタビューに答えるのは市のためでもあるので、これを労働時間と見なして3年前に遡り、3万マルクを基礎控除してほしい」という私的な請願書を贈ったこともある(朝日新聞社「論座」2007年1月号)。

その作風は非現実的な奇怪さと、詳細なデータに裏付けられた現実性の両方が同居する特異なもので、作品の発表ごとに物議をかもしている。その一方で、ドイツ社会民主党の応援など積極的な政治活動でも知られている。1990年のドイツ再統一の時には、「ドイツは文化共同体としてのみ統一をもつべきだ」、と政治的統一には徹頭徹尾反対を唱えたことが大きな議論を呼んだ。1999年にはノーベル文学賞を受賞した。また2002年に起こったアメリカのアフガニスタン侵攻を「文明にふさわしくない」と述べ、武力をもって武力を制するやり方を批判した。

2006年8月12日、17歳の時にドレスデンでナチ党の武装親衛隊に入隊していた過去を自ら明らかにして大きな波紋を呼んだ(「#武装親衛隊所属の告白」節で後述)。

主な作品に、ダンツィヒ三部作といわれる『ブリキの太鼓』『猫と鼠』『犬の年』や、フェミニズムを料理と歴史から描いた『ひらめ』、20世紀の百年それぞれに一話ずつの短編を連ねた『私の一世紀』などがある。

『蟹の横歩き』(2002年)では、1945年のヴィルヘルム・グストロフ号事件を題材にし、同避難船上で生まれた父と、ネオナチであるその息子を描いている。

2014年1月、小説の創作活動からの引退を表明した。

2015年4月13日死去ギュンター・グラス氏死去=独ノーベル賞作家 時事通信 2015年4月13日閲覧。87歳没。

武装親衛隊所属の告白

78歳を迎えた2006年8月、自伝的作品『玉ねぎの皮をむきながら』において、第二次世界大戦の敗色の濃い1944年11月、満17歳でもって志願の許される武装親衛隊(陸軍・海軍・空軍は義務兵役年齢に達していないと入隊できない)戦後、ニュルンベルク裁判で親衛隊全体が犯罪組織と認定された。に入隊、基礎訓練の終了を待って1945年2月にドイツ国境に迫るソ連軍を迎撃する第10SS装甲師団に配属され、同年4月20日に負傷するまで戦車の砲手として務めた過去を数ページに亘り記述した。同月11日付け日刊紙フランクフルター・アルゲマイネのインタビューで、この記述を事実と言明した。この言明はドイツ国内に大きな波紋を呼び、国際的に広く報道された『産経新聞』2006年8月13日「『ナチス親衛隊だった』 独ノーベル賞作家が告白『東京新聞』2006年8月14日付「G・グラス氏『親衛隊告白』」――など各社が報道した。。大手ニュース週刊誌デア・シュピーゲルも同15日付で、米軍文書からその事実を確認したと報道している。

自伝は注文が殺到したため、公刊予定を前倒しし同16日、ドイツ、オーストリア、スイスで出版され「読売新聞」2006年8月17日付「ナチス告白・グラス氏、自伝を前倒し発売」たが、ポーランドの元大統領レフ・ヴァウェンサ(レフ・ワレサ)や与党法と正義が名誉市民の称号返上を求め『東京新聞』2006年8月14日付「G・グラス氏『親衛隊告白』」、グラスの出生地グダニスク市から説明要請を受けている。またドイツのグラビア週刊誌シュテルンは表紙にグラスの顔写真と親衛隊兵士のイラストを並べ「モラリストの失墜」と見出しを掲載。大衆紙ビルトは「ノーベル賞を返還すべきだ」と主張するなどマスコミから強い批判を浴びた。

報道によれば、文壇、歴史学者や政界で賛否両論が飛び交ったとされているが、ドイツ国内に於けるテレビ世論調査によれば七割近くはグラスへの信頼を表明「東京新聞」2006年8月19日付「『独の良心』 苦悩60年」、主に批判側に回ったのは、グラスが一貫して支持し続けた社会民主党と対立するキリスト教民主同盟であったとする指摘、ニュース専門テレビ n-tv の世論調査によれば、ノーベル賞の自主返還をすべきだとする意見も三割にとどまっている。

戦後60年以上の間、この過去の告白を拒み続けたグラスは、「それでもその重荷は、決して軽減されることはなかった」とその自伝に記し『読売新聞』2006年9月12日付、岩淵達治「元ナチス武装親衛隊…78歳“最後の告白” グラスの業績傷つかない」、また、隠していたことを誤りであったと認めている。

問題の火種となった自伝は8月下旬からベストセラーとなり出版部数は20万部を突破し、ポーランドでは批判が収束しているが『産経新聞』同9月12日付「元ナチス・グラス氏への批判、ポーランドでは収束」、グラスは、一連の抗議を懸念して12月に予定されていた「国家間の和解に貢献した人物」に与えられる「国際懸け橋賞」の受賞を辞退している。取り沙汰された名誉市民の称号も、グダニスク市議会は剥奪の決議案を取り下げた。

主な作品

  • 『ブリキの太鼓』(Die Blechtrommel (1959)、高本研一訳、集英社) 1972、のち文庫
    • 『ブリキの太鼓』(池内紀訳、河出書房新社、世界文学全集) 2010
  • 『猫と鼠』(Katz und Maus (1961)、高本研一訳、集英社文庫) 1977
  • 『犬の年』(Hundejahre (1963)、中野孝次訳、集英社) 1969
  • 『自明のことについて』(高本研一, 宮原朗訳、集英社) 1970
  • 『局部麻酔をかけられて』(Örtlich betäubt (1969)、高本研一訳、集英社) 1972
  • 『蝸牛の日記から』(Aus dem Tagebuch einer Schnecke (1972)、高本研一訳、集英社) 1976
  • 『ひらめ』(Der Butt (1979)、高本研一, 宮原朗訳、集英社) 1981
  • 『テルクテの出会い』(高本研一訳、集英社) 1983
  • 『女ねずみ』(Die Rättin (1986)、高本研一, 依岡隆児訳、国書刊行会、文学の冒険) 1994.12
  • 『ドイツ統一問題について』(高本研一訳、中央公論社) 1990.8
  • 『僕の緑の芝生』(飯吉光夫訳、小沢書店) 1993.10
  • 『鈴蛙の呼び声』(Unkenrufe (1992)、高本研一, 依岡隆児訳、集英社) 1994
  • 『ギュンター・グラスの40年 仕事場からの報告』(フリッツェ・マルグル編、高本研一, 斎藤寛訳、法政大学出版局) 1996.1
  • 『はてしなき荒野』(Ein weites Feld (1995)、林睦實, 石井正人, 市川明訳、大月書店) 1999.11
  • 『私の一世紀』(Mein Jahrhundert (1999)、林睦實, 岩淵達治訳、早稲田大学出版部) 2001.5
  • 『蟹の横歩き ヴィルヘルム・グストロフ号事件』(Im Krebsgang (2002)、池内紀訳、集英社) 2003.3
  • 『本を読まない人への贈り物』(飯吉光夫訳、西村書店) 2007.12
  • Letzte Tänze (2003)
  • 『玉ねぎの皮をむきながら』(Beim Häuten der Zwiebel (2006)、依岡隆児訳、集英社) 2008.5
  • 『箱型カメラ』(Die Box (2008)、藤川芳朗訳、集英社) 2009.11

日本の研究書

  • 『ギュンター・グラスの世界 その内省的な語りを中心に』(依岡隆児著、鳥影社・ロゴス企画) 2007.4
  • 『ギュンター・グラス『女ねずみ』論 人類滅亡のリアリティと「原子力時代」の文学』(杵渕博樹著、早稲田大学出版部、早稲田大学モノグラフ) 2011.10

外部リンク

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