ブーツィー・コリンズ : ウィキペディア(Wikipedia)

ブーツィー・コリンズWilliam "Bootsy" Collins、本名 ウィリアム コリンズ William Collins、1951年10月26日 - )は、アメリカ合衆国のミュージシャンでベーシスト、ボーカリスト。オハイオ州シンシナティー生まれ。ジェームス・ブラウンのバックバンドを経てPファンク主要メンバーの一人として活躍し、ファンクの代表的なベーシストの一人である。

2020年、ローリング・ストーン誌が選んだ「史上最高のベーシスト50選」で第4位。

来歴

幼少時〜最初期

ブーツィーという名は幼少時に母親がつけたあだ名である。

「ブーツィー」は1930年代半ばに黒人漫画家オリー・ハリントン (Ollie Harrington) がアムステルダム・ニュース紙上に書いたひとこま漫画の主人公Black Images in the Comicsである。

ブーツィーはテレビと漫画が大好きな子供であった。8歳の頃から、7歳上の兄フェルプス・"キャットフィッシュ"・コリンズを真似て、ギターを弾きはじめた。兄と同じように、ギターもベースも弾いていたが、地元のクラブで演奏するために兄のギターにあわせてベースを演奏するようになった。14歳(1966年)頃から地元シンシナティのスタジオミュージシャンとして音楽活動を開始した。1967年、ブーツィーは、フィリップ・ウィン(ボーカル)と出会い、フェルプス・"キャットフィッシュ"・コリンズ(ギター)、フランキー・キャッシュ・ワディ(ドラム)、ロバート・マッカラウ(テナーサックス)、クレイトン・"チキン"・ガネルズ(トランペット)とともにバンドを組んで演奏するようになった。このバンドは最初”ペースセッターズ ”(Pacesetters) と名乗ったが、この名前のバンドがすでに存在したことから、ペースメイカーズ (Pacemakers) に名前を変更した。このバンドはジェームス・ブラウンの所属レーベル、キング・レコードの目にとまり、ここで多くの大物ミュージシャンのバックを務めることとなった。1968年にはジェームス・ブラウンとセッションをし、このときの録音は『リッキン・スティック Licking Stick - Licking Stick』としてシングル発表された。

ジェームス・ブラウン、JBズ

1970年、ジェームス・ブラウンのバックバンド、フェイマス・フレイムス (Famous Flames) が待遇改善を求めてストライキをおこした際、代役としてペースメイカーズが突如呼ばれ、リハーサルもなしにステージに立つこととなった。難なくこなしたブーツィーとフェルプスらは、1971年までの間、ジェームス・ブラウンのバックバンド、JBズとしてジェームス・ブラウンと活動をともにし、ファンクソウルミュージック界の中心に立つこととなった。

JBズオリジナルメンバーは、ブーツィー、フェルプス・"キャットフィッシュ"・コリンズ、ボビー・バード(オルガン)、ジョン・スタークス(ドラム)、ジョニー・グリッグス(パーカッション)、ロバート・マッカラウ(テナーサックス)、クレイトン・"チキン"・ガネルズ(トランペット)、ダリー・"ハッサン"・ジャミソン(トランペット)。

それまでリズム隊のメインはドラム、リズムギター、およびホーンで、ベースはハーモニーの低音部であったのに対して、ブーツィーの加入により、ベースが一躍リズム隊のメインに躍り出た。ジェームス・ブラウンはブーツィーのベースをことのほか気に入り、ブーツィーを常にそばにおき、移動の時も(バンドのツアーバスではなく)プライベートジェット機に一緒に乗せていくほどだったという。ブーツィーの在籍時代に、ジェームス・ブラウンは「セックス・マシーン」(1970)、「スーパーバッド」(1970)、「ソウル・パワー」(1971) などの大ヒット曲を多く生み出した。

しかし、LSD等の薬物使用のため、ブーツィーはステージ上にあってもたびたび幻覚をみるようになった。1971年のある日、自分のベースが蛇に見えたブーツィーは演奏を止めてステージから逃げ出してしまい、ジェームス・ブラウンに解雇された。ブーツィーも、規律が厳しいジェームス・ブラウンのもとで仕事を続けていくのが、きつく感じられていたときであった。ブーツィーはタキシードを着てバックに徹しなければならないJBズではなく、サイケデリック・ロックを含んだ音楽やジミ・ヘンドリックスのようなサウンド、ビジュアル、ライブがやりたかったのであった。1960年代後半、ジミ・ヘンドリックスが革新的なギタースタイルで黒人による新しいロック・ミュージックを作り出し、またサイケデリックムーヴメントがブラックミュージックにも押し寄せ、スライ&ザ・ファミリー・ストーンがロックやソウル、ファンクを合わせて演奏していた時代であった。

ハウス・ゲスツ〜Pファンク

ブーツィーはデトロイトに移住し、キャットフィッシュ、キャッシュ・ワディとともに、自身のバンド、ハウスゲスツ (The House Guests) を結成した。ハウス・ゲスツ名義ではJB直系ファンクの「ワット・ソー・ネバー・ザ・ダンス」がベスト盤に収録されている。ボーカルはペースメイカーズで一緒だったフィリップ・ウィンが担当し、またゲイリー・"マッドボーン"・クーパーも加わった。グラムロックのようなカラフルな出で立ちで激しいステージアクトを行うファンクバンドとして活動した。このバンドで活動中の1972年、スピナーズからバックバンドをしないかと誘いがあった。またファンカデリックを辞めたビリー・ネルソンの代わりのベーシストをさがしていたジョージ・クリントンも、後にパーレットのメンバーとなるマリア・フランクリンの紹介でブーツィーに声をかけた。結局ブーツィーはキャットフッシュとともにジョージ・クリントン率いるPファンクに参加した書籍「ファンクはつらいよ」ジョージ・クリントン。歌手のフィリップ・ウィンはスピナーズに加わった。

Pファンクでは、ファンカデリック1972年発表のアルバム、アメリカ・イーツ・イッツ・ヤングで数曲ベースを弾いたが、Pファンクメンバーの薬物使用が頻繁だったためについていけず、また、ブーツィーにとってはファンカデリックの音楽はロックより過ぎたため、一時彼らと距離をおき、キャットフィッシュやキャッシュ・ワディらとともにコンプリート・ストレンジャーズ (Complete strangers) の名で地元でバンド活動をした。しかし、パーラメント1974年発表のアルバム、『アップ・フォー・ザ・ダウン・ストローク Up for the Down Stroke 』の録音には戻ってきて再びベースを弾いた。そして,親指と人差し指、および手のひら全体を使うスラップ奏法とオートワウ(エンヴェロープフィルター)を使い、その後の彼の代名詞ともなる新しいベースサウンドを生み出すことに成功した。パーラメント1975年発表のアルバム『チョコレート・シティ Chocolate City 』および『マザーシップ・コネクション Mothership Connection 』ではこの彼の新しいベース音を聞くことができる。さらに1975年には、JBズつながりでメイシオ・パーカー(サックス)、フレッド・ウェズリー(トロンボーン)らをPファンクに引き連れてきた。彼らはその後Pファンクに欠かせないホーン陣となった。

また、ジミ・ヘンドリックスのまねをして歌う「ブーツィーボイス」をファンカデリック1975年発表のアルバム、レッツ・テイク・イット・トゥー・ザ・ステージ収録の 『ビー・マイ・ビーチ Be My Beach 』で初披露した。

このブーツィーボイスとブーツィーのキャラクターを生かすため、1976年キャットフィッシュ、フレッド、メイシオ、マッドボーン・クーパー(ボーカル)らとブーツィーズ・ラバー・バンドを結成した。バンドは「ストレッチン・アウト・イン」「アイド・ラザー・ビー・ウィズ・ユー」を発表した。ブーツィーは、星形のサングラスをかけ、星形の真っ白いベース(スペース・ベース)を弾き、また「キャスパー」、「ブーツィラ」、「スター・モン」、「ザ・カウント」などのキャラクターを演じる、ユーモアあふれるファンキーなステージアクトを繰り広げ、一躍スターダムにのし上がった。

その後

1980年代半ばになると、Pファンクの活動は急速に収束し、ブーツィーも活動のペースを落とした。プレッシャーや、音楽以外のビジネス面での仕事が嫌で、故郷のシンシナティでゆっくりしていたという。しかしその後もソロアルバムを発表し続けた。1980年代後半から1990年代にはビル・ラズウェルのプロデュースのもと、ロックやハウス的な音楽をやるなど、活動の幅を広げた。セッション・ベーシストとしても活躍し、キース・リチャーズ『トーク・イズ・チープ』(1988年)日本盤CD(TOCP-53026)ライナーノーツ(越谷政義、1999年4月)、久保田利伸『BONGA WANGA』(1990年)等に参加。2006年に最新アルバムを発表、最近では日本の若手インストゥルメンタル・バンドASTERISMの楽曲プロデュースを手掛けるなど(2018年)2010年代も現役で活動中である。

ベースだけでなく、少し聞くだけで彼のものとわかる、甘くファンキーで目立つ「ブーツィーボイス」は、多くのミュージシャンから客演を求められている。ラスト・ポエッツ、スヌープ・ドッグ、ヴィクター・ウッテンなどのアルバムに参加し、彼独特のファンキーさを振りまいている。

またザップのファーストアルバム(1980年発表)ではプロデューサーとしても活躍した。2002年にも地元オハイオ州出身のファンクバンド、フリークベースのプロデュースを行っている。1997年、パーラメント - ファンカデリックのメンバーとして、ロックの殿堂入りを果たした。2007年の映画『スーパーバッド 童貞ウォーズ』の映画音楽をライル・ワークマンとともに担当した。

2010年7月にベース奏者向けファンク大学(Funk University)を創立。オンライン上でベースの演奏指導を受けられる学校である。

楽器と奏法、ファッション

星型のサングラス、シェイプが星、色は真っ白、きらきらひかる装飾がついたベース(スペース・ベース)がトレード・マーク。

JBズ時代にはフェンダー製ジャズベースを弾き、ハウスゲスツ時代およびPファンク参加初期には、フェンダー製プレシジョンベースおよびアレンビック社製プリアンプを使用していたBass Player - William "Bootsy" Collins。1975年、ブーツィーは白い星形のベース(スペース・ベース)作成をラリー・プレスというクラフトマンLarry Pless Musicに依頼したThe creation of Bootsy's Space Bass。このベースはブーツィーズ・ラバー・バンドのファーストアルバムのカバーフォトでみることができる。このベースは1977年に一度盗まれた(翌年シンシナティの質屋でみつかり戻ってきた)ため、同クラフトマンに2号機を作ってもらったが、その後20年以上もメインベースとして使用された。その後他のクラフトショップでスペース・ベースを作成し、2003年にはWashburn社よりブーツィーのシグネイチャーモデルのスペース・ベースが市販Washburn Space Bassされ、ブーツィーもこのベースを使用している。

ブーツィーのベースサウンドは、ディストーションとオートワウ(エンヴェロープフィルター)を多用した、歯切れのよい、畳み掛けるようなよくうねるベースである。「ビヨン」「ポヮ」と不思議な音のするオートワウベースは彼が先駆者であり、彼の代名詞である。オートワウは、Musitronics社製のミュートロンIII (Mu-Tron III) を愛用している。

ディスコグラフィ

リーダーアルバム

ブーツィーズ・ラバーバンド

  • ストレッチン・アウト・イン Stretchin' Out in Bootsy's Rubber Band (Warner Brothers, 1976)
  • 神の名はブーツィー Ahh...The Name Is Bootsy, Baby! (Warner Brothers, 1977)
  • ファンキー・オブ・ジ・イヤー Bootsy? Player of the Year (Warner Brothers, 1978)
  • Live in Louisville (1978)
  • ファンキー・ブーツ This Boot Is Made for Fonk-N (Warner Brothers, 1979)
  • ジャングル・ベース Jungle Bass (4th&Bradway, 1990)

ウィリアム・ブーツィー・コリンズ

  • ウルトラ・ウェイブ Ultra Wave (Warner Brothers, 1980)
  • 灼熱のPファンカー The One Giveth, The Count Taketh Away (Warner Brothers, 1982)

ブーツィー・コリンズ

  • ホワッツ・ブーツィー・ドゥーイン What's Bootsy Doin'? (Columbia, 1988)
  • フレッシュ・アウタ・'P' Fresh Outta "P" University (WEA, 1997)
  • Glory B, Da Funk's On Me! (2001)
  • ファンクだよ全員集合!! Play With Bootsy (WEA International, 2002)
  • ブーツィ・コリンズの灼熱のファンクリスマス Christmas Is 4 Ever (Shout Factory, 2006)
  • Tha Funk Capitol of the World (Mascot, 2011)
  • WORLD WIDE FUNK (Mascot, 2017)

ブーツィーズ・ニュー・ラバーバンド

  • ブラスターズ・オブ・ザ・ユニバース Blasters of the Universe (P-Vine Records / Rykodisc, 1994)
  • Keepin' The Funk Alive 4-1995 (Live) (P-Vine Records / Rykodisc, 1995)

ズィラトロン

  • ロード・オブ・ザ・ハーヴェスト Lord of the Harvest (Rykodisc, 1994)

代表的参加アルバム

ファンカデリック

  • アメリカ・イーツ・イッツ・ヤング America Eats Its Young (Westbound, 1972)
  • レッツ・テイク・イット・トゥー・ザ・ステージ Let's Take It to the Stage (Westbound, 1975)
3曲め"Be My Beach"がブーツィーボイス初出。ベースは弾いていない。
  • ワン・ネイション・アンダー・ア・グルーヴ One Nation Under A Groove (Priority, 1978)
  • アンクル・ジャム・ウォンツ・ユー Uncle Jam Wants You (Priority, 1979)

パーラメント

  • アップ・フォー・ザ・ダウン・ストローク Up for the Down Stroke (Casablanca, 1974)
  • チョコレート・シティ Chocolate City (Casablanca, 1975)
  • マザーシップ・コネクション Mothership Connection (Casablanca, 1975)
  • ザ・クローンズ・オブ・ドクター・ファンケンシュタイン The Clones Of Dr. Funkenstein (Casablanca, 1976)
  • ライヴ!! Pファンク・アース・ツアー Live: P-Funk Earth Tour (Casablanca, 1977)
  • モーター・ブーティー・アフェア Motor Booty Affair (Casablanca, 1978)
  • グローリィホーラストゥピッド Gloryhallastoopid (Casablanca, 1979)
  • トロンビピュレイション Trombipulation (Casablanca, 1980)

ジェームス・ブラウン

  • イン・ザ・ジャングル・グルーヴ In the Jungle Groove (Polydor, 1986)
1969年 ~ 1971年に録音。
  • ライヴ・イン・パリ’71 Love Power Peace. Live At The Olympia, Paris (Universal International, 1992)

JBズ

  • フード・フォー・ソート Food For Thought (Polydor, 1972)
ブーツィーが参加した1970年発表のシングル曲、The GruntThese Are the JB's を収録。

坂本龍一

  • ネオ・ジオ (Neo Geo, 1987)

大沢誉志幸

  • Serious Barbarian (Epic sony, 1989)

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  • ボンガワンガ BONGA WANGA'' (Sony Record, 1990)

アステリズム

  • イグニッション(IGNITION, Tokuma Record, 2018)

映画サウンドトラック

  • 2007年映画『スーパーバッド 童貞ウォーズ』:多くの曲にベーシスト・ボーカリストとして参加。

関連項目

  • ファンク

外部リンク

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