パウロ : ウィキペディア(Wikipedia)

パウロ(ラテン文字表記: 、? - 60年頃『新約聖書』岩波書店P990のパウロ文書の成立の付表 新約聖書翻訳委員会)は、初期キリスト教の使徒であり、新約聖書の著者の一人。はじめはサンヘドリンと共にイエスの信徒を迫害していたが、回心してイエスを信じる者となり、ヘレニズム世界に伝道を行った。ユダヤ名でサウロ(、)とも呼ばれる。古代ローマの属州キリキアの州都タルソス(今のトルコ中南部メルスィン県のタルスス)生まれのユダヤ人使徒言行録9章以下

概要

「サウロ」はユダヤ名(ヘブライ語)であり、ギリシア語名では「パウロス」となる(現代ギリシャ語ではパヴロス)。彼は「使徒として召された」(ローマ1:1)と述べており、日本正教会では教会スラヴ語を反映してパウェルと呼ばれる。正教会ではパウロを首座使徒との呼称を以て崇敬する。

聖人であり、その記念日はペトロとともに6月29日(ユリウス暦を使用する正教会では7月12日に相当)である。

正教会やカトリック教会はパウロを使徒と呼んで崇敬するが、イエスの死後に信仰の道に入ってきたためイエスの直弟子ではなく、「最後の晩餐」に連なった十二使徒の中には数えられない。

パウロはギリシア語とヘブライ語を話すことができた。

略歴

  • ローマ市民権を持つユダヤ教徒であった歴史的に見ると新約聖書の著作の中でこの世に存在していたことが確認できているのは、ナザレのイエスとパウロである。パウロ自身によるものであることがはっきりしている書簡に基づいて、パウロの生涯を見ることが可能である。キリスト教#福音書等の成立年代と著者参照 。
  • 紀元後30年ごろBritannica.com刑死によってナザレのイエスが他界する。
  • イエスはキリストだとする集団が生まれたキリスト者という語が使われた時期は1世紀の終わり頃とされる。『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店P427(使徒行伝11:26 における注5 荒井)。
  • イエスはキリストだとする集団を根絶しようとし、信者を取り締まり、牢に入れた使徒行伝8:3.  パウロがステファノへのリンチを見ていたという事実は、歴史的に疑問であるとされている。『新約聖書』岩波書店P591(ガラテヤ人への手紙1:13 における注2 青野)福音書における「罪人」とは、律法を守らぬ徴税人や売春婦等に投げかけられる蔑称として用いられている(『新約聖書』岩波書店、補注・用語解説P29 罪人の項目 新約聖書翻訳委員会)。イエスは「悪」よりの救済(マタイ6-13)を救済としていたが、それとは異なり、パウロは自己の内面に宗教的「罪」を認め、そこからの救済を追及してゆくことになる。(『新約聖書』岩波書店、補注・用語解説P29 罪人の項目 新約聖書翻訳委員会)。
  • 年代は不明であるが、イエスはキリストだとする集団の一員となったパウロの第一回の伝道旅行は47-48年とされていて、ガラテヤ1:18の注9によれば、その2-3年前にアラビア行きが行われたということになる。『新約聖書』岩波書店(P990)のパウロ文書の成立の付表 新約聖書翻訳委員会教義的な大きな転向があったわけではなく、自らユダヤ人であったパウロは、神のユダヤ人への約束は不変であると考えていたとされている。「信仰義認論」によって彼らも最終的には救われるのだ(ローマ人への手紙11:26)としているので、ユダヤ教で言われていたところのキリストはイエスであったというほどの変化であった。『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店P928 (ローマ人への手紙の解説 青野)。
  • 50年ころ、ユダヤ人からの迫害を受けてきていることを記しているテサロニケ人への第一の手紙2:15。ほかにも迫害の例としては、使徒行伝17:5などがあるとされる。『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店P491(テサロニケ人への第一の手紙2:15における注6 青野自らの信仰の根幹をなすユダヤ教の信仰とユダヤ人との区分けは不明。
  • 54年ころ、コリント人への第一の手紙を記し『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店P921 (コリント第一の手紙の解説 青野)、書簡の中で、死んだはずのナザレのイエスに自分は出会ったことがあるとしているコリント人への第一の手紙15:8 コリント第一の手紙15:5において、弟子12人にイエスが現れたことを記しているが、ルカはこの時点の「12人」を常に「11人」に修正している。その修正のないことは、イエス顕現の伝承が早い時期に成立したことを示唆している。『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店2004,p.543コリント人への第一の手紙 15:5における注1 青野。
  • 54年頃、ガラテヤ人への手紙を記し『新約聖書』岩波書店P924 ガラテヤ人への手紙解説 青野、自らの異邦人への伝道を「キリストの福音」と表明して伝道していることを記している。その福音は、すでに死去したナザレのイエスが直接自身に内的な啓示によって通信してきたものであることを表明したガラテヤ人への手紙1:16-18において、パウロはダマスコスで回心の際に、神より異邦人伝道に召し出されたことを証言している。『新約聖書』岩波書店P465 使徒行伝22:21における注8 荒井。
  • いくつかの地方に教会を開く直筆の手紙の中で、ローマ人への手紙はパウロ自身が設立したのではない教会に宛てた唯一の手紙とされる。『新約聖書』岩波書店P625 ローマ人への手紙1-7における注9。
  • 投獄されるフィレモンへの手紙は獄中から書かれた。『新約聖書』岩波書店P620 フィレモンへの手紙1:1における注1青野。
  • 刑死により他界する60年ころローマにて殉教?『新約聖書』岩波書店2004年(P990)のパウロ文書の成立の付表 新約聖書翻訳委員会。
  • 66年から70年、第一次ユダヤ戦争の結果としてエルサレム神殿が崩壊した。異邦人への「キリストの福音」が主流となる。

生涯

ユダヤ教徒時代

新約聖書の『使徒行伝』によれば、パウロは生まれながらのローマ市民権保持者であった『使徒行伝』22:25-29。。ベニヤミン族のユダヤ人でもともとファリサイ派に属し、エルサレムにて高名なラビであるガマリエル1世(ファリサイ派の著名な学者ヒレルの孫)のもとで学んだ。パウロはそこでキリスト教徒たちと出会う。熱心なユダヤ教徒の立場から、始めはキリスト教徒を迫害する側についていた。ステファノを殺すことにも賛成していた。

回心

ダマスコへの途上において、「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか」と、天からの光とともにイエス・キリストの声を聞いた、その後、目が見えなくなった。アナニアというキリスト教徒が神のお告げによってサウロのために祈るとサウロの目から鱗のようなものが落ちて、目が見えるようになった「目から鱗が落ちた」という言葉の語源。こうしてパウロ(サウロ)はキリスト教徒となった選ばれた器と表現される。自由主義神学では、パウロ自身が『ガラテア書』で言及していないことから、これを「伝説的」な事件とみなし、パウロの回心の史実性が否定される。この経験は「サウロの回心」といわれ、紀元34年頃のこととされる。一般的な絵画表現では、イエスの幻を見て馬から落ちるパウロの姿が描かれることが多い。

一方でパウロ自身はこのエピソードを自ら紹介しておらず、単に「召されて使徒となった」などと記している。

回心後の伝道活動

その後、かつてさんざん迫害していた使徒たちに受け入れられるまでに、ユダヤ教徒たちから何度も激しく拒絶され命を狙われたが、やがてアンティオキアを拠点として小アジア、マケドニアなどローマ帝国領内へ赴き、会堂(シナゴーグ)を拠点にしながらバルナバやテモテ、マルコといった弟子や協力者と共に布教活動を行った。布教活動の時パウロの職業はテント職人であった『使徒行伝』18:3。復活の奇跡を行った事もある。特に異邦人に伝道したことが重要である。『使徒行伝』によれば3回の伝道旅行を行ったのち、エルサレムで捕縛されたが、ローマ市民であるパウロに刑罰を科すには正式の裁判手続きが必要であり、そのためローマに送られ軟禁された。伝承によれば皇帝ネロのとき60年代後半にローマで斬首刑に処され殉教したと言われる。またローマからスペインにまで伝道旅行をしたとの伝承もある。

キリスト信仰

年代順にみると、新約中で最も古い書簡とされるテサロニケ人への第一の手紙と生前のナザレのイエスとの間には、初期のエルサレム教会より伝わる伝承が存在したとされる『新約聖書』岩波書店P543コリント人への第一の手紙15:3における注15 青野。その伝承の中には、信仰告白定型と呼ばれるものがあり、書簡の中でパウロが、ナザレのイエスは生き返ったと表明している箇所については、この伝承に基づいているとされている。コリント人への第一の手紙15:8。パウロにとっては、すでに死去したナザレのイエスが直接自身に内的な啓示によって通信してきた体験ガラテヤ人への手紙1:16がイエスはキリストであるという信仰に至るきっかけとなった。しかし、この時代は新約旧約時代間の断絶意識は薄く、信仰と言う場合はキリスト教への改宗ではなく、旧約にもとづく敬虔という意味合いが強かったとされる。『新約聖書』岩波書店P726テモテへの第2の手紙1:5における注2 保坂盲目からの奇跡的回復という話は自身が記していないことから、キリストはイエスであったと考えるようになったのは、イエスを名乗る存在の内的な啓示と、第三の天にまであげられたというある人の天界の体験ある人とはパウロ自身のことであるとされている。『新約聖書』岩波書店P571(コリント第二の手紙12:2における注3 青野)とが原因として読み取れる。ガラテヤ人への手紙1:16によれば、啓示に神の御子が現れるのをよしとしたのは神であり、その啓示の仕方は、パウロ自身の内側に御子が啓示されたというものであった。手紙の文面では、生前のイエスと関連づけて理解したものではなく、キリストとはユダヤ教の神からくるものでありパウロは神中心主義であるとされている。『新約聖書』岩波書店P508(コリント第一の手紙3:23における注1 青野)、それは、これまで自分が迫害していた集団でイエスと呼ばれていた者であった、というくらいの内的な転換であった。そののちパウロは、ただちに使徒の住むエルサレムに赴くことはせずアラビア行きを実行したと記していることからも、使徒たちの伝承してきている話を精査してゆく方向にはすすまなかった。むしろ後年の使徒会議における使徒たち(割礼にこだわっていた)のことを、かの「大使徒たち」と呼ぶような関係にあった。『新約聖書』岩波書店P566(コリント第二の手紙11:5における注6 青野)手紙の中で、自分はその人たちに何ら劣っていないとパウロは表明している。そのことから見てもパウロは使徒たちの伝承してきている教えには、批判的なところも感じていたようである。後年使徒会議のためにエルサレムに赴いたときは、啓示によってエルサレムに行くことになったと記していることや、自身はユダヤ教において卓越していて、父祖たちの伝承に熱心であり、民族の中でも勝っていたガラテヤ人への手紙1:14と自分を位置付けていたことも、自分は大使徒たちに何ら劣っていないとする自信の裏づけとなっていたようだ。また、当時の教会の中には、第一に使徒たち、第二に預言者たち、第三に教師たちがいて、次に力ある業、次に癒しの賜物、補助の働き、指導能力、種々の異言などの順列があったとパウロはしている。『新約聖書』岩波書店P534(コリント第一の手紙12:28における注9 青野)これらは聖霊による恵みの賜物であると記されている。当時聖霊は世の終わりに神から与えられると信じられていた救いの霊と考えられていた。しかし、世の終わりでもないのに聖霊現象が信者に出現したのは、終末の賜物の先取りであり、「霊の手付金」であると信者によって受け止められていた。そしてそれらはキリストの復活で現実のものとなった、という解釈が教会内においてなされていた。『新約聖書』岩波書店 補注 用語解説P24 聖霊の項目 新約聖書翻訳委員会初期のエルサレム教会に伝わっていた伝承や予言はいくつかあり、大使徒の話を聞くことは無くても、そうした伝承にはパウロも影響を受けていたと思われる。そうしたことからパウロはテサロニケ第一の手紙において、復活したイエスはキリストであり、復活は世の終わりを現実のものとするものであり、彼は自らの啓示に現れたユダヤ教のキリストであったと記した。パウロは、自分が生きているうちにやってくる主の来臨の時には、啓示に出現したキリストによって生き残ったままで救われることになったという信仰を奥義として信者に説いていた再臨の時まで生き残るというのは、パウロの確信であるとされている。『新約聖書』岩波書店P546(コリント第一の手紙15:51における注6 青野)。50年ころ、パウロはテサロニケの信者への手紙の中で、下記のような終末観を表明している。結果的には、主の来臨が来なかったことにより、信者に説いていた真理は「実現しなかった予測」にとどまることになったが、これは主の言葉として伝承されてきた初期キリスト教の預言者の言葉である可能性が大であるとされている。『新約聖書』岩波書店P494(テサロニケ第一の手紙4:15における注11 青野) 生きているうちに主の来臨がおきる。 生きているうちに合図の声とともに主が天から下ってくる。 生きているうちにキリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえる。 生きているうちによみがえった死人や眠っていた人たちが天に上げられる。 生きたままで空中で主に会うことになり、そののちはいつも主と共にいることになる。テサロニケ人への第一の手紙 4:15

パウロはユダヤ教時代から、分派を嫌った。イエスはユダヤ教に言われるところのキリストだとする集団 キリスト者という語が使われた時期は1世紀の終わり頃とされる。『新約聖書』岩波書店P426(使徒行伝11:26における注5 荒井)を迫害したのも、パリサイ派としてユダヤ教の中の一派としての異端を排除しようとした行為である。分派・異端を排除することは、唯一神教に見られる特徴である後世においてキリスト教が国教化された後にも継承されてゆく分派、異端排斥は、ナザレのイエスが分派・異端を仲間として容認したこととは、大きく異なっている。マルコによる福音書9:38ナザレのイエスが信仰していたのは平和の神であるとされていてマタイによる福音書5:9、パウロも手紙において平和の神という語を多用していたけれど、異端者に対しては平和的でなかった。パウロが平和の神の語を使用している箇所は、コリント人への第一の手紙14:33、コリント人への第二の手紙13:11、フィリピ人への手紙4:9、ローマ人への手紙15:33がある。(『新約聖書』岩波書店P667ローマ人への手紙15:33における注22 青野)他に、テサロニケ第一の手紙5:23もある マルコ12-29においては、神は唯一の神ではなく、(唯一の神と表記すべき個所を)一なる神と表記しているとされている(『新約聖書』岩波書店P52(マルコ福音書12:29における注11 佐藤)。また、マルコによる福音書9:38~40には、唯一神教に見られがちな、排他性・異端排斥とは異なる調和的立場がイエスの教示として記されている。イエスの啓示を受けて回心したとされた後でも、その排他性・異端排斥性に変化はなかった。手紙の中では、呪ってはならないという指導を信者に対してなしているが、これは内的な啓示で受けた言葉をそのまま繰り返しただけのようである 呪ってはならないという言葉は、パウロが実際に啓示で受け継いだイエスの言葉を引用している可能性があるとされている『新約聖書』岩波書店P658ローマ人への手紙12:14における注11 青野。異邦人への伝道をするようになっても、党派心、分裂、分派を為す者は神の国を受け継ぐことはないと説いている。ガラテヤ人への手紙5:20そして、自らの異邦人への伝道を「キリストの福音」であるとして、キリストの福音を変質しようとする者に対して呪いの言葉を記している。ガラテヤ人への手紙1:8ニカイヤ信条参照

パウロとナザレのイエスの教説の異なっている点は、異端排斥と並んで、終末観があげられる。ナザレのイエスが直接に語った終末観とは、マルコ福音書13:32にある「かの日ないし〔かの〕時刻については、誰も知らない。天にいるみ使いたちも、子も知らない。父のみが知っている」、という記述であるとされている。『新約聖書』岩波書店P495(1テサ5:1の注19 青野)なお、マルコ福音書に出てくる終末については、エルサレム神殿崩壊を世の終わりの出来事と理解する筆者の見方や古い注によって編集されており『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店P55、P57 不明瞭な記述となっている。世の終わりについて、ナザレのイエスは天のみ使いさえも計り知ることのできないほどの深遠な事態であるとしているのに対して、パウロは、自分が生きているうちに主の来臨の時はやってくるとしていた。。 一方、ヨハネ福音書 執筆年代は90年代、著者は無名の作者で、彼をよく理解した別の人物が今の形に成したとされる。『新約聖書』岩波書店P918 (ヨハネ福音書の解説 小林)はイエスの終末観と共通の部分があると思われ、世の終わり・裁きの時という概念は明瞭になっていない。人々がイエスの啓示に対して下す判断が、その人の運命を決定するとされ、悪人を裁いて滅ぼすためではなく、救うために布教していることが記されている。『新約聖書』岩波書店補注 用語解説P19 裁きの項目 新約聖書翻訳委員会ヨハネ福音書では、裁きはもう来ているとされていて、この世の支配者はすでに裁かれたともされている。ちなみに、この世の支配者に対する、裁きの時がすでに来ている例としては、聖霊を冒涜するものは永遠の罪に定められる、とするイエスの教説マルコ3:28、があげられる。これはキリスト信者を激しく迫害していたと述懐していたパウロにも十分当てはまる罪であったと考えられる。ユダヤ教徒が、ユダヤ教に精通し、義を求めて熱心に信仰しているというだけで、聖霊冒涜の永遠の罪を犯すリスクにさらされるということは不可思議なことである。また、永遠の罪というのは、原罪という枠組みを超えていて、かつ日常的な精神の悪であるようにも見える。罪からの救いを求め、信仰義認論を説いていたパウロは、書簡の中で、自分が救われるためには、あるいは救いの経験があったのは、信仰だったということを述べている。

パウロ書簡

パウロ書簡には新約聖書中真性書簡として『ローマの信徒への手紙』『コリントの信徒への手紙一』『コリントの信徒への手紙二』『ガラテヤの信徒への手紙』『フィリピの信徒への手紙』『テサロニケの信徒への手紙一』『フィレモンへの手紙』があり、偽名書簡として『エフェソの信徒への手紙』『コロサイの信徒への手紙』『テサロニケの信徒への手紙二』『テモテへの手紙一』『テモテへの手紙二』『テトスへの手紙』がある。

なお伝統的にパウロ書簡とされる『ヘブライ人への手紙』は近代までパウロの手によるとされていたが、そもそも匿名の手紙であり、今日では後代の筆者によるものとする見方が支持されている。

パウロ書簡の成立年代と著者

パウロ自身が記したのは、テサロニケ人への第一の手紙(執筆年代は50年頃)『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店P920 テサロニケ人への第一の手紙解説 青野、コリント人への第一の手紙(執筆年代は54年頃)『新約聖書』岩波書店P921 コリント人への第一の手紙解説 青野、コリント人への第二の手紙(執筆年代は54年から55年頃にかけての手紙の集合体とされる)『新約聖書』岩波書店P922 コリント人への第二の手紙解説 青野、ガラテヤ人への手紙(執筆年代は54年頃)、フィリピ人への手紙(執筆年代は54年後半頃)『新約聖書』岩波書店P925 フィリピ人への手紙解説 青野、フィレモンへの手紙(執筆年代は54年から55年頃)『新約聖書』岩波書店P927 フィレモンへの手紙解説 青野、ローマ人への手紙(執筆年代は55年から56年頃)『新約聖書』岩波書店P928 ローマ人への手紙解説 青野。

これら以外はパウロの名を使った偽書である可能性が高いとされる。『新約聖書』岩波書店P929~P933 (コロサイ、テサロニケ第二、テモテ第一、第二、ヘブルにおける各解説)保坂 小林

自由主義神学での議論

歴史的キリスト教会がパウロの著者性を認めてきた『テサロニケの信徒への手紙二』『コロサイの信徒への手紙』がパウロの真正書簡であるか自由主義神学者の中では議論があり、『エフェソの信徒への手紙』およびいわゆる牧会書簡(『テモテへの手紙一』、『テモテへの手紙二』、『テトスへの手紙』)はパウロの弟子によるものとされ、パウロを擬してパウロの死後書かれたとする見方が今日の自由主義神学(リベラル派)では一般的である。リベラル派ではこれらを擬似パウロ書簡と称する。

近代の自由主義神学の批判的聖書学高等批評によれば(異論もあるが)、パウロ書簡は新約聖書中、著者が明らかである唯一のものであり、また全文書の中で(一般的には『テサロニケの信徒への手紙一』)最古の文書である。

外典

他にもパウロの名を借りた『パウロの黙示録』『パウロ行伝』といった外典も存在し、パウロという人物の影響力の大きさを物語っている。

思想

教会のリーダーは男性であるべきと主張した(当時各地の教会で婦人による問題が多発していたためといわれる)(しかし、パウロ書簡と同時期に成立した福音書においては、むしろ女性信徒が男性信徒よりも高く評価されているマルコによる福音書 4:35-41、5:25-34、8章と14章の対比、15:40-16:7ヨハネによる福音書 4:26-39、12章、13章、20:1-16)。結婚は苦難を招くと説いた。結婚は性的誤りを無くす為に有ると説いた。 パウロにおいては自らの不完全さ、罪の意識が非常に強いことがまず指摘できる。彼は心の欲する善を行うことができずに、かえって心の欲せざる悪をなしてしまうことに悩んだ。そのため彼の思想では人間の無力さが強調される。このような人間は自力では救われることがないために、神の恩寵によってしか救われないし、パウロはイエスの死こそ神の自己犠牲であると考える。この神の自己犠牲によって人間は罪から解放されるのであり、これを信じ、イエスの教えを実践することで新しい生を迎えることができるという。この新しい生は物質性を捨て、人類史から神の世界に逃れることではない。このことは初期教父、たとえばエイレナイオスにおいてグノーシス主義の説く異端の教説に対する批判のなかで明確に表明される。彼によれば、人類の救済史とはあくまでその本来的な物質性から、神の導きによってより高次の霊性を獲得していく過程である。そしてこのような立場に立つとき、物質的な現実世界は矛盾と不幸に満ちている不完全なものとして相対化されていくのである。だが同時にこの物質的世界こそが神の救済史の舞台であり、神の現存し、働きかける場である。

政治思想

パウロの政治思想としては、受動的服従が知られる。ウォーリンによれば、パウロや初期の教会指導者たちが政治権力への服従を繰り返し述べていることは、この時代のキリスト教徒に政治秩序への鋭い対立意識があったことを物語っているという。。事実66年にはユダヤ戦争(〜70年)が起き、112年〜115年にもユダヤ人が蜂起し、135年にもバル・コクバの乱が起きている。パウロによれば、この世の権威は神に拠らないものはなく、したがってこれを受け入れなくてはならない。パウロは政治的権威に対して負う義務と宗教的権威に対するそれを区別した。しかしそれは政治的忠誠心と宗教的忠誠心を完全に分離したものであると主張したわけではない。彼は政治秩序を神の摂理の中に位置づけ、当時のキリスト教徒が政治秩序のキリスト教的理解に基づいて受け入れるよう促した。

パウロは、教会と国家を分離し、国家に対するキリスト教の服従を説くが、従うべき対象として「皇帝」ではなく、神によって認められた「権威」を挙げている。パウロはローマ帝国の支配を無条件に肯定しているともいわれる。

歴史家の意見

ローマ帝国のキリスト教に対する迫害についてテオドール・モムゼンは、ローマ帝国によって「許された宗教」ユダヤ教と「許されざる宗教」キリスト教と対比したが、1世紀段階では、キリスト教迫害はネロ迫害を除いてユダヤ教迫害の一環として行われている。またネロ帝によるキリスト教迫害についても、タキトゥスの記述は2世紀におけるキリスト教観を示しており、1世紀段階のヨセフスや新約聖書との相違が著しいため、その史実性には幅がある。

労働観

パウロは「自分の手で働くこと」を推奨しているが、これは古典古代の労働観に反する。古典古代においては労働は奴隷がするもので、自由人は閑暇(スコレー )にあることを誇りとしていた。アリストテレスは「幸福は閑暇(スコレー)に存すると考えられる。」と述べており、ハンナ・アーレントによれば、アリストテレスは全体として必要に従属しているヒト属を人間と呼ぶことを認めなかった。

死生観

パウロは復活の教えを強調した。(当時、ユダヤ教ではサドカイ派などや、キリスト教会内部でも、イエスの教えに反して復活を否定する動きがあったためか。)もし死人の復活がないならキリストもよみがえらなかった事になり、それをよみがえらせたと言っている私達は神にそむく偽証人という事になる為、全ての人の中で最もあわれむべき存在になるとまで語った偽りの証人は罰を免れない、偽りをいう者は滅びる。。

哲学との接点

パウロはアテネに滞在した際にエピクロス派やストア派の哲学者数人と論じ合っている。 当時、哲学とキリスト教の教えを巧妙に混ぜた教えが多かったためか、それらの哲学を「むなしいだましごと」と批判した事もある。

評価

ルターによる評価

ルターはパウロ書簡を極めて高く評価しているM.ルター『新約聖書への序言』「新約聖書の正しい且つ最も貴重な書はどれであるか」(1522年)、石原謙訳『キリスト者の自由、聖書への序言』岩波文庫、1955年 ISBN 4003380819 所収。

トロクメによる評価

ルター以来パウロはユダヤ教からイエスによって解放されたとする見解が主流であったが、トロクメによると彼自身の意識ではユダヤの思想家であり、意識としてはユダヤ教内部の論争に関わっていたつもりであったとされる。またトロクメは歴史家たちがパウロを「キリスト教の創始者」と考える傾向にあることを批判し、この考えがイエスを「ユダヤ教の改革者」という誤った位置づけに貶めるものだという。トロクメはパウロの思想がアウグスティヌス以前は正確に理解されているとは必ずしも言えないこと、中世の神学者たちも彼をあまり重視していないことを挙げ、パウロにキリスト教における中心的な地位を与えたのはルネサンスと宗教改革であると述べている。

注釈

出典

参考文献

  • シェルドン・S・ウォーリン 著『西欧政治思想史 : 政治とヴィジョン』(尾形典男・佐々木武・佐々木毅・田中治男・福田歓一・有賀弘・半沢孝麿 訳)、福村出版、1994年。。
  • 新約聖書翻訳委員会 訳『新約聖書』岩波書店、2004年。訳者: 佐藤研、小林稔、荒井献、青野太潮、保坂高殿、大貫隆、小河陽 (解説: 佐藤研、小林稔、青野太潮、保坂高殿、大貫隆、小河陽) 補注・用語解説: 新約聖書翻訳委員会

関連項目

  • 信仰義認
  • 割礼
  • サン・パオロ・フオリ・レ・ムーラ大聖堂
  • スタヒイ(スタキス) - パウロの弟子と伝えられている。正教会で七十門徒。
  • パウロ 愛と赦しの物語
  • 心のともしび

外部リンク

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