田辺修 : ウィキペディア(Wikipedia)

田辺 修(たなべ おさむ、1944年4月23日 - )は、徳島県出身の元プロ野球選手(投手)。

同じく元プロ野球選手・十川雄二の叔父にあたる。

来歴・人物

美馬商工ではエースとして活躍、1961年秋季四国大会県予選で準々決勝に進むが徳島商に敗れた。翌1962年夏の甲子園県予選でも準々決勝に進むが、池田高に敗退した。

1963年に近鉄バファローズへ入団プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、343ページ。同年から一軍で起用されるが、結果は残せなかった。3年目の1965年は5月末から先発として起用され、6月2日には山本重政をリリーフして東映から初勝利。17日には西鉄の井上善夫と投げ合い初完封勝利を飾るなど、同年は5勝、1966年も4勝を挙げた。1967年も先発として起用されるがわずか1勝と不振に陥り、その後は主に中継ぎに回る。

1970年に中日ドラゴンズへ移籍し、5月には阪神から完投勝利。8月から先発に定着し星野仙一と並ぶチーム最多の41試合に登板する。9月16日には大洋の平松政次と互いに無失点で投げ合い、9回裏に谷沢健一の犠打でサヨナラ勝ちを飾った。さらに9月26日の阪神戦では江夏豊と投げ合い、延長14回を投げ抜いて完封勝利をあげた。この試合で江夏は中日打線を34人連続パーフェクトに抑える記録を作ったが、木俣達彦に決勝ホームランを打たれた。同年は初の2桁勝利となる11勝を挙げ、防御率1.98(リーグ3位)の好記録を残す。しかし翌1971年は2勝に終わり、1972年は登板機会が無く同年を最後に引退した週刊ベースボール 田辺修

引退後は郷里に戻り、誠光建設に勤務していた。

田辺は足を高く上げる独特のフォームで速球に威力があり、変化球もスライダー、カーブ、チェンジアップ等多彩な球種を持っていた。

詳細情報

年度別投手成績

近鉄5100000--------276.060200400423.001.33
1000000--------91.220100000200.001.80
391942159----.357643159.1125176301662062543.061.18
291531044----.500477119.110583323631143372.801.16
241310017----.12532374.18562621480040323.891.49
23500001----.00017638.24441511260024225.081.53
12100000--------9120.224180070010104.291.55
中日4112933117----.611645167.2127122863880142371.980.92
14800023----.40018039.05231702170022204.621.77
通算:9年1887417642331---.4262571626.2570511931111319322492143.071.22

背番号

  • 64 (1963年 - 1966年)
  • 13 (1967年 - 1969年)
  • 33 (1970年 - 1972年)

関連項目

  • 徳島県出身の人物一覧
  • 大阪近鉄バファローズの選手一覧
  • 中日ドラゴンズの選手一覧

外部リンク

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2023/09/30 05:37 UTC (変更履歴
Text is available under Creative Commons Attribution-ShareAlike and/or GNU Free Documentation License.

「田辺修」の人物情報へ