山田勝彦 : ウィキペディア(Wikipedia)

山田 勝彦(やまだ かつひこ、1969年7月2日 - )は、愛知県名古屋市熱田区出身の元プロ野球選手(捕手、右投右打)、コーチ。現在は北海道日本ハムファイターズのバッテリーコーチを務める。

経歴

プロ入り前

中学時代は陸上部に所属し、投てき種目(ソフトボール投月刊タイガース 1992年6月号)でジュニアオリンピックに出場。野球はシニアチームに所属していた。東邦高校では2年生の時、春の選抜に控え投手として出場。1回戦で坊西浩嗣のいた岡山南高に敗退する「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年が、この試合でリリーフとして甲子園初登板を果たす。同年夏の甲子園県予選でも左翼手として決勝に進むが、エース近藤真一を擁する享栄高に完封負け。3年生からは捕手に転向、夏の甲子園県予選決勝では後藤孝次を打の主軸とする中京高に敗退。高校通算24本塁打を放った。高校2年下に山田喜久夫がいた。

1987年のドラフト3位で阪神タイガースへ入団。

プロ入り後

にプロ入り初出場を果たすと、からは出場機会が増え、打率1割台と打撃には苦しんだが、プロ初本塁打を含む2本塁打を記録。

5年目のには正捕手として投手陣をリードし、チームの2位躍進に貢献。打撃では打率.204と苦しんだが、本塁打は前年を少しだけ上回る4本を記録した。その後は正捕手の座を手中にするかと思われたが、関川浩一・矢野輝弘などとの正捕手争いを余儀なくされ、自身も伸び悩む。

には野村克也監督に守備を酷評されるが、には規定打席不足ながら打率.319を記録するなど打撃で開眼し、同年8月24日のヤクルト戦(大阪D)では延長14回二死一・二塁の打席で高橋一正からプロ初のサヨナラ安打を放つ「阪神14回サヨナラ」『読売新聞』(縮刷・関東版) 2000年(平成12年)8月25日付朝刊、17面(スポーツ面)。。も打撃面では安定し前年より出番は多かったものの、守備面では矢野に勝てず二番手捕手止まりであった。

には正捕手の矢野が故障離脱をしてしまい在籍捕手の中では最多の34試合先発マスクを被ったがチャンスを生かせず、逆に出場機会が減る。同年のシーズンオフに下柳剛・中村豊との複数トレードで、伊達昌司と共に日本ハムファイターズに移籍した。

日本ハムでも自身は怪我に苦しみ、その間に若手の髙橋信二の台頭やベテラン捕手の中嶋聡の加入もあり、に現役を引退した。

現役引退後

現役引退後は球団側から二軍バッテリーコーチ就任の要請があったが、これを辞退。、阪神時代の監督である野村を慕って東北楽天ゴールデンイーグルスの一軍バッテリーコーチに就任し、に退任。

からまでオリックス・バファローズの一軍バッテリーコーチを務めた。

からは古巣・阪神の一軍バッテリーコーチ、からは二軍バッテリーコーチ、からは再び一軍バッテリーコーチ、2019年からは再び二軍バッテリーコーチを務める。試合中は一塁ベースコーチも兼任する。

シーズンをもって阪神を退団し、からは阪神時代から公私ともに親交の深い新庄剛志が監督を務める日本ハムで一軍バッテリーコーチを務める。

7月19日、新庄をはじめとした監督・コーチ陣、一部の選手による新型コロナ集団感染により、同日から対オリックス・バファローズ戦にて新庄に代わり監督代行を務めたが翌日の20日に山田自身も感染が判明し1日だけの監督代行となった。そのため、20日からは二軍監督の木田優夫が急遽一軍に合流して監督代行を務めた。

人物・選手としての特徴

ヤクルト戦での大乱闘

1996年6月29日、ヤクルト戦の古田敦也の打席で嶋田哲也が古田の頭部付近にビーンボール球を4球続けて投げたことで古田が嶋田に激怒し歩みよる。そこで古田を制止しようとした山田に古田が放り上げたバットが山田に当たったことから山田も激高し応酬してしまい、両チーム入り乱れての大乱闘に発展した。山田と古田は乱闘の当事者として退場処分を受け、当試合は警告試合となった。また山田は乱闘で古田に投げられたのと同時に、阪神時代の同僚であったトーマス・オマリーに突進され、ヘンスリー・ミューレンスからはアッパーを喰らう(オマリー、ミューレン共々退場にはなっていない)など悲惨な結果となった。山田曰く、「古田がインサイドをえげつなく投手に要求してくるからその報復の意味もあった」と後に語っている。またこのシーンはこの年の珍プレー番組でも取り上げられた。

その他

阪神時代の監督である野村は、山田を真面目な性格だと人間性を評価し楽天のコーチとしても期待していたという。

詳細情報

年度別打撃成績

阪神1110000000000000000.000.000.000.000
66166149141940229600611010413.128.181.195.376
11434031317641204883101931481817.204.239.281.520
631151087193002220040221311.176.198.204.402
581141038212033282041600171.204.245.311.556
3019160100010001020070.063.167.063.229
993012741952902671800631741529.190.237.245.482
9223821414561604842100601721377.262.319.393.711
691461384282003060001611265.203.240.217.457
2139352510060003010082.143.167.171.338
451029463041242110041221212.319.337.447.784
54147134143770250100241721318.276.315.373.688
39106979153012190030620216.155.204.216.420
日本ハム4082777131011781020300153.169.200.221.421
3000000000000000000----------------
1000000000000000000----------------
通算:16年79519161753121360641214891303352119324738854.205.247.279.526

記録

初記録
  • 初出場:1989年10月15日、対横浜大洋ホエールズ25回戦(阪神甲子園球場)、7回裏に高村洋介の代打として出場
  • 初先発出場:1991年6月23日、対ヤクルトスワローズ13回戦(札幌市円山球場)、8番・捕手として先発出場
  • 初安打・初打点:1991年6月30日、対ヤクルトスワローズ16回戦(阪神甲子園球場)、8回裏に金沢次男から
  • 初本塁打:1991年7月2日、対横浜大洋ホエールズ9回戦(阪神甲子園球場)、5回裏に斉藤明夫からソロ
  • 初盗塁:1994年6月5日、対中日ドラゴンズ10回戦(阪神甲子園球場)、8回裏に二盗(投手:小島弘務、捕手:矢野輝弘

背番号

  • 61(1988年 - 1991年)
  • 35(1992年、2005年)
  • 27(1993年 - 2002年)
  • 24(2003年 - 2004年)
  • 70(2006年 - 2010年)
  • 72(2011年 - 2012年、2022年 - )
  • 82(2013年 - 2021年)

注釈

出典

関連項目

  • 愛知県出身の人物一覧
  • 阪神タイガースの選手一覧
  • 北海道日本ハムファイターズの選手一覧

外部リンク

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2024/03/07 07:43 UTC (変更履歴
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