岩佐氏寿 : ウィキペディア(Wikipedia)

岩佐 氏寿(いわさ うじとし、1911年12月2日 - 1978年11月22日)は、日本の映画監督、脚本家。

概要

京都市出身。脚本や制作を担当した作品が映画祭・映画コンクールで受賞した。同盟通信社、日本ニュース映画社、日本映画社をへて、戦後、監督としてデビュー後、「日本ニュース」企画編集を担当し、占領政策下のニュース映画のスタイルを確立フィルムは記録する'97:日本の文化・記録映画作家たち。主に脚本を担当するようになり、その後、企業をスポンサーとする科学技術映画、産業映画のプロデューサーとして活躍した。また、児童文学、学校劇なども手がけ、『佐久間ダム物語』(東西文明社、1956年)、『超高層ビルのあけぼの』(鹿島研究所出版会、1967年)、『二十一世紀のもぐら トンネル物語』(文研出版、1971年)などの著作がある。『キネマ旬報』などの映画雑誌、教育雑誌などにエッセイ・論文を発表した。亡くなった時は、鹿島映画(現・カジマビジョン)の専務だった。

受賞

経歴

同盟通信社から日本映画社へ

  • 1936年に発足した同盟通信社のニュース映画から記録映画の世界に入る。
  • 1939年頃、『同盟映画月報 近代戰の華! 戰車物語』(7分、同盟通信社)構成担当。
  • 1940年、朝日、毎日、読売の各新聞社映画部と同盟通信社映画部が「社団法人日本ニュース映画社」(さらに1941年、「社団法人日本映画社」と改称・改組)に統合されたため、同社に所属。
  • 1946年、国鉄労働組合がスポンサーとなった『驀進』を監督し、賃上げや最低賃金制確立を要求する闘争を記録フィルムは記録する'98:日本の文化・記録映画作家たち
  • 1949年、経済安定本部、商工省、農林省、油糧配給公団後援の『ぬかものがたり』(音楽:三木鶏郎、日本映画社)の脚本を担当。

フリーランスとして

  • 1950年、劇映画『君たちはどう生きるか』(東映)を監督。
  • 1951年、今井正監督の劇映画『どっこい生きてる』(新星映画)の脚本を担当。
  • 1953年、『赤い自転車』(第一映画)の脚本を担当。
  • 1955年、京極高英監督『ひとりの母の記録』(岩波映画製作所)の脚本を担当。この映画では、素人俳優を使った再現シーンがあり、ドキュメンタリー制作者の姿勢をめぐって桑野茂と論争が起きた。同年、ソ連の記録映画『北極ものがたり』(1952年制作・ソ連映画輸出協会=独立映画センター=優秀映画)の日本語版解説翻訳。
  • 1956年、今泉善珠監督『名犬ものがたり』(協力プロ=たんぽぽ)の脚本を担当。
  • 1957年、大川博制作『北海道の大自然』(東映)編集構成
  • 1963年、『森林 −北海道の国有林−』(東映教育映画部)監督・脚本。

企業映画の時代

  • 1967年、『地下を進む都市開発 —シールド工法—』(日本技術映画社)製作。『霞が関147M−霞が関超高層ビル第二部−』(日本技術映画社)製作。
  • 1968年、『超高層霞が関ビル』(日本技術映画社)監督・製作・脚本。同年、『海の中の桟橋』(日本技術映画社)『海のなかの桟橋−京葉シーバース−』(日本技術映画社)製作担当。
  • 1969年、関川秀雄監督『超高層のあけぼの』(日本技術映画社、東映配給)脚色、製作担当。『アルプスにダムができた』(鹿島映画)製作を担当。
  • 1971年、『新都心の広場 —京王プラザホテル』(鹿島映画)製作を担当。
  • 1974年、「私が考えるドキュメンタリィ試論--前号登川直樹氏の論稿に対して」を『シナリオ』誌9月号に掲載。

出典

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2020/06/15 10:17 UTC (変更履歴
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