飛鳥みさ子 : ウィキペディア(Wikipedia)

飛鳥 みさ子(あすか みさこ、1935年12月13日 - 1998年7月9日『キネマ旬報』1998年8月号、キネマ旬報社、79頁。)は、日本の元女優であるKINENOTE 飛鳥みさ子の項『日本映画俳優全集 女優篇』、キネマ旬報社、1980年、26頁。『芸能人物事典 明治大正昭和』 日外アソシエーツ、1998年。。本名は犬飼 淑乃(いぬかい よしの)。

来歴・人物

1935年(昭和10年)12月13日、愛知県挙母市(現在の同県豊田市)に生まれる。

1954年(昭和29年)、神奈川県立横須賀大津高等学校を卒業後、東宝舞踊学校へ入所。1955年(昭和30年)4月、第10期東宝ニューフェイスとなり、東宝と専属契約を結ぶ。翌1956年(昭和31年)1月22日に公開された本多猪四郎監督映画『若い樹』で映画デビューを果たし、以後、ジャンルを問わず多くの作品に出演。特に、1958年(昭和33年)1月6日から放映された菊田一夫原作のテレビドラマ『人知れずこそ』(KRテレビ系列)では、同じく東宝の専属俳優だった大塚国夫と主役を務め、一躍話題となった。また、1961年(昭和36年)3月、フィリピン共和国マニラで開催された第8回アジア映画祭(現在のアジア太平洋映画祭)に、永田雅一、伊藤義をはじめ、女優の原知佐子、叶順子らと参加した記録が残っている『映画年鑑 1962年版』、時事通信社、1961年、112頁。『東宝三十年史』、東宝三十年史編纂委員会、1963年、343頁。。

ところが、1962年(昭和37年)11月3日に公開された稲垣浩監督映画『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』に脇役出演したのを最後に東宝を退社し、フリーとなったが、ほどなくして芸能界を引退した。以後の消息は不明とされていたが、1998年(平成10年)7月9日、急性冠症候群のため亡くなっていたことが分かった。満62歳没。

出演作品

東宝

特筆以外、全て製作・配給は「東宝」である。

  • 若い樹(1956年、本多猪四郎監督) - 矢部ミサ子 ※デビュー作
  • 見事な娘(1956年、瑞穗春海監督)
  • のり平の三等亭主 愉快な家族(1956年、丸林久信監督) - 正子
  • のり平の浮気大学 愉快な家族(1956年、丸林久信監督) - 正子
  • 新婚第一課(1956年、筧正典監督) - 東
  • 若人の凱歌(1956年、青柳信雄監督)
  • 早く帰ってコ(1957年、斎藤達雄監督) - 小原京子
  • その夜のひめごと(1957年、木村惠吾監督) - ナオミ
  • 東京の休日(1958年、山本嘉次郎監督) - ファッションモデルH
  • 人生劇場 青春篇(1958年、杉江敏男監督) - おりん
  • まり子自叙伝 花咲く星座(1959年、松林宗恵監督) - 桜井京美
  • 日本誕生(1959年、稲垣浩監督)
  • 花嫁さんは世界一(1959年、新藤兼人監督)※東京映画製作
  • 侍とお姐ちゃん(1960年、杉江敏男監督)
  • 新・三等重役 当るも八卦の巻(1960年、杉江敏男監督)
  • 別離の歌(1960年、瑞穗春海監督) - 女給・良子 ※東京映画製作
  • 新・女大学(1960年、久松静児監督) - 座談会の司会者
  • サラリーマン忠臣蔵(1960年、杉江敏男監督)
  • 社長道中記(1961年、松林宗恵監督) - 列車の美人
  • アッちゃんのベビーギャング(1961年、杉江敏男監督)
  • 黒い画集 寒流(1961年、鈴木英夫監督) - 桑山の情婦B
  • 暗黒街撃滅命令(1961年、福田純監督) - 吉井千枝子
  • 愛のうず潮(1962年、久松静児監督) - E夫人
  • 香港の星(1962年、千葉泰樹監督) - モデル
  • 忠臣蔵 花の巻・雪の巻(1962年、稲垣浩監督) - 汐路太夫

テレビドラマ

  • ナショナルゴールデンアワー(KRテレビ系列)
    • 人知れずこそ(1958年) - 悠子(主演)

外部リンク

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2023/07/16 14:01 UTC (変更履歴
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