アミルカレ・ポンキエッリ : ウィキペディア(Wikipedia)
アミルカレ・ポンキエッリ(Amilcare Ponchielli , 1834年8月31日 - 1886年1月17日)は、イタリアのオペラ作曲家。
人物・来歴
クレモナ近郊のパデルノ・ファゾラーロ(現パデルノ・ポンキエッリ)に教会音楽家の家庭に生まれる。9歳で奨学金を得てミラノ音楽院で音楽を学び、10歳にならずして最初の交響曲を作曲した。音楽院卒業から2年後の1856年に、アレッサンドロ・マンゾーニの有名な小説に基づき最初のオペラ《婚約者 I promessi sposi》を作曲し、8月30日にクレモナで初演して成功したものの、その後の作品では成功することができなかった。
経済的な理由から、1862年、ポンキエッリはピアチェンツァの国家警備隊音楽監督に就任し、1864年からはクレモナの市民楽団の楽団長をつとめた。
転換点は、1872年における《婚約者》改訂版のミラノ上演で、これによって楽譜出版社リコルディやミラノ音楽院当局ならびにスカラ座と契約を結べるようになったのである。バレエ音楽の佳作《2つの双眼鏡 Le due gemelle》(1873年)によってポンキエッリの名声は確固たるものとなった。次のオペラ『リトアニア人』(1874年)も成功を収めた。
その次のオペラ作品が最も有名な《ラ・ジョコンダ La Gioconda 》(1876年初演)で、ヴィクトル・ユーゴーの戯曲に基づきアッリーゴ・ボーイトが脚本を書いた。
《ラ・ジョコンダ》の後でポンキエッリの音楽的な創意は落ち込んだかのようで、その後のオペラで同じような成功に出くわすことはなかった。1881年にポンキエッリはベルガモ大聖堂の楽長職maestro di cappellaに任命され、1883年から母校ミラノ音楽院で作曲科教授を務めた。ジャコモ・プッチーニやピエトロ・マスカーニは門人である。1886年、急性肺炎のためミラノにて死去。。 ヴェルディはポンキエッリの訃報に接し、次のように言った。
可哀想なポンキエッリ、あんなにいい奴だったのに、あんなに立派な音楽家だったのに。
生前ポンキエッリは人気と影響力に非常に恵まれ、拡大されたオーケストラと、より複雑なオーケストレーションを取り入れたにもかかわらず、こんにち定期的に演奏されているオペラは、唯一《ラ・ジョコンダ》だけとなっている。このオペラには、ソプラノの名アリア「私は死のう "Suicidio!"」やバレエ音楽「時の踊り Danza dell' Ore 」が含まれている。
作品
オペラ
- 愚人市長 Il sindaco babbeo(学生時代の習作オペラ)
- ベルトランド・ダル・ボルミオ Bertrando dal Bormio(トリノ公演のために作曲、上演は実現せず)
- 婚約者 I promessi sposi (初稿1856年クレモナ初演、改訂稿1872年ミラノ初演)
- リーナ Lina(1877年)
- ゴート族の王ロデリクス Roderico, re dei Goti(1863年)
- いつまでも喋る男 Il parlatore eterno (1873年、バリトンのためのモノローグ)
- I Lituani (初稿1874年、改訂稿1884~5年)
- ラ・ジョコンダ La Gioconda (初稿1876年、1876年4月8日ミラノで初演、改訂稿1880年)
- 放蕩息子 Il figliuol prodigo (1880年)
- マリオン・デロルメ Marion Delorme (1885年)
- I Mori di Valenza (未完。死後、息子とA.カドーラにより補筆。1914年初演)
その他
ポンキエッリは1864年から1874年までクレモナのバンドマスターとして多数の吹奏楽曲を作曲した。
- オーボエと管弦楽のためのカプリッチョ
- 管弦楽のための悲歌
- トランペット協奏曲 Op.123
- バンドのための「ヴェネツィアの謝肉祭」変奏曲 Op.140
- フリコルノ・バッソ協奏曲 Op.155 (世界最初のユーフォニアム協奏曲として知られる)
- コルネット協奏曲 Op.198
注釈・出典
外部リンク
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