ピエール・カルダン : ウィキペディア(Wikipedia)

ピエール・カルダンPierre Cardin、1922年7月2日 - 2020年12月29日ピエール・カルダン氏死去 世界的な服飾デザイナー - 産経ニュース 2020年12月29日)は、フランスのファッションデザイナー。

イタリア・ヴェネト州サン・ビアージョ・ディ・カッラルタ生まれ。イタリア名ピエトロ・コスタンテ・カルディン Pietro Costante Cardin。前衛的なスタイルでオートクチュールのブランドを立ち上げ、1960年代〜1970年代に一世を風靡した。

人物・来歴

1945年、パリに移り建築家を目指したが、ジャンヌ・パキャンのブティックでいろいろな人脈が出来、ファッションの道へ進む。クリスチャン・ディオールの独立時立ち上げに参加。1950年より自らのアトリエを開始し、1953年にはオート・クチュールも始めた。

カルダンは宇宙時代的なデザイン(コスモ・コール)を標榜し、女性的な形状を無視するユニセックスなスタイル、幾何学模様や幾何学的な形などの実験的でアバンギャルドなスタイルで名を売った。これらのデザインは実用的ではないものも多かった。1954年には、「バブル・ドレス」を発表した。1959年に百貨店プランタン向けにプレタポルテのコレクションを発表し、新しい時代の流れをつくった。

カルダンは日本に注目した初めてのオートクチュールのファッション・デザイナーであり、1959年には日本をオートクチュールの有望市場として訪れている。その後、日本人ファッションモデルの松本弘子を起用した。日本人モデルを起用したヨーロッパのデザイナーは、カルダンが初めてだった。また当時珍しかった、男性や黒人女性モデルも起用している。

女優のジャンヌ・モローと同棲していたことがあり、彼女の主演映画『』(1962年)の衣裳を手掛けている。

1970年2月11日、パリにあった作業場と倉庫が火事に遭い全焼。当年の春夏物が全滅する被害を受けたカルダンの店で火事『朝日新聞』1970年(昭和45年)2月13日朝刊 12版 14面。

1971年に自らの作品を発表する場として、パリ8区コンコルド広場至近ガブリエル大通り1番地の「テアトル・デ・ザンバサドゥール」を劇場や映画館、ギャラリー併設の「エスパス・カルダン(Espace Cardin)」として開き、その他の芸術の発表の場にも使用した。

1975年から1976年にかけて放映されたTBSドラマ『赤い疑惑』(主演:山口百恵三浦友和、岸惠子)の衣裳に全面協力した。

「ピエール・カルダン」はオートクチュール及びプレタポルテの世界的ブランドとして人気を博し、世界各国で事業活動を行っている。日本では、1966年に髙島屋、京王百貨店と紳士服部門で業務提携を始め、1972年に武田正彦が日本代理店「ピエール・カルダン・ジャパン」(PCJ)を設立し、カルダンブランドを広く日本に定着させた『現代日本人名録2002』日外アソシエーツ 322頁中日新聞:創業家が遺産25億円隠し 解散のピエール・カルダン代理店。1997年からは、三井物産が経営の中核を運営する「ピエール・カルダン・ジャパン株式会社」が当該ブランドのライセンス事業を行っている。

当時開放政策を進めていたソ連や中国に乗り込み、いち早くショーを開催している。欧米のファッションや音楽を熱望していた若者から絶大な支持を受けた。

1981年はレストラン「マキシム(Maxim's)」のオーナーとなり、ロンドン、ニューヨーク、北京に支店を開業したが、2020年現在、全て閉店した。

1991年よりユネスコ親善大使として、チェルノブイリ被害者救済とその他の人道的プログラムにも尽力している。各国より数々の勲章等を受勲。日本では勲二等瑞宝章受勲。

2020年12月29日、ヌイイ=シュル=セーヌにあるパリアメリカン病院 (fr) で死去。。

関連書籍

  • シルヴァナ・ロレンツ『ピエール・カルダン ファッション・アート・グルメをビジネスにした男』永瀧達治 訳 駿河台出版社 2007

関連項目

外部リンク

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2023/12/10 18:52 UTC (変更履歴
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