劇場公開日 2018年3月10日

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「国民的女優で犠牲・ギャップ~国民栄誉賞もらえば~」北の桜守 PAPASさんの映画レビュー(感想・評価)

2.0国民的女優で犠牲・ギャップ~国民栄誉賞もらえば~

2018年3月25日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

笑える

悲しい

単純

「北の桜守」40点。

もう無理です。「昭和」をひきずるのは。
もう30年も経っています。流れの早い「映画界」では無理です。

「北の三部作(勝手に「東映」が銘打っているんでしょう)」全てがダメでした。全ての脚本の「那須真知子」がダメなんでしょう。

「三部作」だけではなく彼女の出演する作品の多くは、
人の世の「不幸(多くが「戦争」)」・「困難(欲望ゆえに罪を犯される)」・「貧しさ(恵まれていない環境)」の中で、
さらに「厳しい自然・時代条件」の中で、
「虐げられた人々(戦争犠牲者・罪を犯された人・ワケあって偏見を受け差別される人々・社会の下層の人々)」を取り上げ、
「ひたむきに」・「頑張って」・「決して落ちぶれず」・「情がわかり(特に親子の情)」・「(結果的に)くじけず強く」生きていく様子を描き、
多くが「肯定的な」・「決して非難されることのない」結果に落ち着きます。
+「お涙頂戴」的です。
結局=「昭和そのもの」なんです。
つまり=「文科省推薦」的作品ばかりです。

+いつも「キレイキレイ」な「アイドル(「120本」を全てを観たわけではありませんが。恐らく。この年齢になってもやっているんですから)」です。
つまり=「国民的女優」なんです。

したがって、どうしても「記念碑的」な作品になります。
「協力」=「稚内市」「網走市」「ニトリ(社長が「北海道」出身)」「伊藤園(お茶のシーンありました)」他の2つも何らかの関係が?
「特別協力」=「JR東日本」「JR北海道」
「協賛」=「ANA(勿論、飛行機映りました。せこいですが旅費は全てタダ?)」
「宣伝協力」=「宝酒造(お酒)」「LAWSON(「ローチケ」でチケット販売)」
「製作委員会」=「東映(社長があの「アカデミー賞」主催者「岡田裕介(「東映」の元社長の息子で、過去に彼女と共演)」「TV朝日系列(「北海道TV」も入っています)」「朝日新聞社(いかにも好きそう)」「北海道新聞社(オール「北海道」です。後でわかりました「北海度と命名150周年記念」と!)」「博報堂(「電通」があれですので)」などです。
何故こんなに多いんでしょう?また掲示しているんでしょう?

そして、「監督」が最近では「行定勲」「堤幸彦」「滝田洋二郎」「成島出」「阪本順次」「山田洋次」「大林宣彦」「市川崑」(過去にも一杯)と有名監督(食い散らし、多くの「条件・しばり」の中で苦しめて、結果的にその監督らしさを奪った?)ばかりです。

そして、どの作品に於いても「キャスト」の豪華さを言うまでもありません。
選ばれた「スタッフ」も一流でしょう。

どうしてこんなことが可能なんでしょうか?
「記念碑的」「文科省推薦」「国民的女優」だからです。
つまり、「国」「圧倒的多数の国民」によって製作されているのです。「国の花・象徴」である「桜」が散りばめられているのを観てもわかります。

で、作品そのものは「む~ん」でも、彼女の全盛期や支持してくれた人が多い時は良かったんです。
でも今は?ガラガラです。
観衆は圧倒的に「高齢者」です。涙を流されている方もおられます。それはそれでいいんです。昔を懐かしんでおられるんでしょうか。

しかし時が移るのは、「エンターテインメント」「映画」の世界は速いです。次々と時代を先取りして「新しいもの」を産み出していきます。「昭和」が終わって「30年」も経っています。そろそろ…。
「若い人(高齢者以外の全盛期を知らない人)はついて来ていないのでは?「温故知新」もいいですが。昔を懐かしむのもいいですが。それなら別の名優でいいのでは?

多くの「ひと・もの(お金)・こと」が「犠牲」になっています。
もう「引退」されて、静かに「余生」を送られ、死後「国民栄誉賞」を受けられたらいかがでしょう?大変失礼ながら。「映画界」への功績は凄いんですから。

もし作品が素晴らしいものであっても、同じことを言いたいです。
ただ「キレイキレイ」の「アイドル」を脱皮(? 今更?)して、映画の途中まで展開していた「汚れ役(老いぼれていく役や捨てられる役など)」を演じられるのであれば(ラストの舞台のシーンでそれも…)、「観に行こう」という気が起こるかも知れませんが。他の往年の女優のように。もう演じませんね?

さらに多くの(?)レビューに書かれているように、舞台のシーンの必然性です。監督はインタビューで答えています。「実写として描けば具体的悲惨しか伝わらない。抽象化することで心象風景がわかりやすくなる」と。
ここに大きな「ギャップ」が存在します。
私たち多くの(全国津々浦々の)観衆は、「舞台」を鑑賞する機会が実際に(TVなどは別にして)ほとんどありません。舞台の「抽象化」だの、「特色・魅力」など理解していません。突然に「舞台シーン(これまた有名な「ケラリーノ・サンドロヴィッチ」演出。ついでに主題歌が「小椋佳」)」が映されても戸惑うだけです。
「心象風景」?「舞台」など多くの「エンターテインメント」に触れている「都会」の「通(?)」の「映画人」と、「観客」の間に大きな「ギャップ」が存在することをわかっていません。

この「ギャップ」が「国民的女優」にも言えるのではないでしょうか。
恐らく「吉永小百合」は「スゴイ人」なんでしょう?性格が良くて(「堺雅人」が「謙虚でストイック」と絶賛)、才能があり美しく知的で、「ひたむきに」役に取り組む、まさしく前述の「国民的女優」と呼ばれるのにふさわしい「魅力たっぷり」の人なんでしょう?「何十年にひとり」の逸材なんでしょう?「大スター」なんでしょう?

でも全てに「?」が付きます。
何故なら今の彼女しか知らない世代の観客には、それほどには思えないからです。ガラガラが証明しています。私個人としては演技がうまいとも、美しいとも思えません。
もし多くの「映画人」のように実際に会ったら?「間接的」には一杯見ています。それらしくは感じます。でも「直接会ったがゆえに感じる魅力」についてはわかりません。「スター」と呼ばれる人とは比較にならないほど、会った人たちは魅了されるんでしょう。だからこそこれだけ多くの「映画界・エンターテインメント界」の人々がついてくるんでしょう。

魅了された「映画人・エンターテインメント人」と、その巨大な「+α」がない人との「ギャップ」は、特別な存在の彼女と他の「スター」との違いが顕著過ぎる分、「ファン」でない限りはわかりません。残念ながら。
わかりにくいですか?
圧倒的多数の「スター」とは圧倒的多数の観客は会えません。「番宣」や「SNS」で「素顔」が覗けても。だから「120本」ものある意味「異常な数の作品」を作ってもらえる彼女だからこその「ギャップ」です。

以上、長々と、誠に「エラそう」に申しました。
「神をけなすな!」というクレームも受けますので。

言い換えれば、このままでは
彼女も「国民・昭和という時代」の「犠牲」とも言えます🍀

PAPAS