劇場公開日 2023年3月1日

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「皆さま、ごきげんよう」皆さま、ごきげんよう シネフィル淀川さんの映画レビュー(感想・評価)

4.0皆さま、ごきげんよう

2017年2月14日
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映画『皆さま、ごきげんよう』(2015年仏=ジョージア/オタール・イオセリアーニ監督作品)評

-オタール・イオセリアーニ監督は映画が歴史的パースペクティヴな同一性を纏う為に都市にさ迷う戦闘力が、人であり動物であり自然現象であり消費社会である事を無闇にも白日の下に晒す。そこには絶え間ない争いが虚構に近付けば近付く程、リアルさを秘めた闘争劇に終始する即物的な速度と運動性の劇場空間の裸形の姿を認識できるのだ-

 映画が空間芸術として君臨するには画面のここかしこに遍在する記号を一旦メタファの懐で包括させ、それを表層に浮かせる作業を厭わない余裕の必要がある。この困難を克服するには、荒唐無稽とも準える映画史と闘う倫理学の醸成に賭ける強靭なる通俗的制度から逸脱した領域を開拓すべきだ。例えばこの映画監督オタール・イオセリアーニは、それを記号さえをも超越したメタの聖域にまで昇華させる術を試みるにやぶさかではない。その術とは映画の引用行為、即ち「盗む」事に他ならない。
 イオセリアーニの「盗み」の根源を語る上で不可欠なのはこの「盗む」という行為が単なる引用ではなく、自らの意匠として登場人物に映画人を模倣させるという極めて大胆な構想を実現する事だ。例えばこの映画の主役・管理人の盟友の人類学者をその風貌から、ヌーベル・バーグの巨匠ジャン=リュック・ゴダールその人だと見抜くのは実にたやすい。それはゴダール自身がもつ映画内映画という間=テクスト性に実にあっさりと収まる比喩的人物像をイオセリアーニが聡明にも演出する事が、この映画の出発点として設定されているからだ。
 それでは主役の管理人とは、映画史の誰を引き受けているか? これはまさしく、ユーモア溢れるオプティミストの監督自身に他ならない。そしてこの映画が内包する極めてご都合主義に反する先の読めぬ展開とその荒唐無稽な虚構の連鎖反応から推察するに、それは明らかにゴダールの先輩とも謂うべきルイス・ブニュエル監督の相貌と酷似している。
 物語が登場人物に映画史上の人物を担わせる宿命を持たせる事でイオセリアーニが実に軽々と踏襲するのは、ゴダールの映画的冒険とブニュエルの越境性を各自が装い乍、この非日常という名の虚構にどっぷりと浸かる事でエスプリの効いたユーモアを人道主義で諮るルネ・クレール監督の『自由を我等に』以来の二人組の映画的概念の露呈にも窺えるのだ。
 事ほどさようにこの映画は、二人組という記号に執着する。それはこの主役級の老人二人は勿論の事、都市を滑走する女スケーターの二人組である。そして売春行為で暮らすプチ・ブルの婦人二人組。警視総監とその召使の二人組。しかし映画は、過酷にも主役級の二人を除き全てが瓦解してしまう。それはこの二人の老人が、未だ死ねぬ映画という代物を作った偉人の模倣であることからも頷けよう。
 ここでイオセリアーニは映画史の未来をも暗示させるかのように最期では、自転車に乗り人類学者を下り坂へそして管理人を上り坂へと向かわせる。この反ベクトル作用には聡明にもイオセリアーニ自身のこれからの映画人生を予告する寸劇的な分節化も認められ実に秀逸である。
 それでは上記に記した「盗む」という行為が映画全体に及ぼす機能を考察すると、そこにはスラプスティックな行動原理が確認されよう。それはこの映画が勝ち得た歴史性が盗まれる主体が盗む客体との間で、現代的風土を明示するに足る記号体系の極みを発している。
 例えば冒頭、固有名詞を阻む匿名性に溢れた都市の路地で遊戯的特権を担う女スケーター二人組が管理人の帽子を盗み取り、それをラグビー・ボールに見立て通行人にパスしそれが連続的に模倣者を編み出す場面は、反復と複数性というポスト・モダンの様相を呈する。これこそ都市の幼児性と共に、ルネ・クレールが愛した巴里のシャンゼリゼの風景を彷彿とさせる映画の記憶装置の現代的変貌が披瀝されるのだ。
 更にこの女スケーター二人組は映画の後半では、携帯電話をスリ取る作業に従事しこの行為は辺りに犇めく人々にも伝播。この不可視の電波を掻き乱すかのようなリゾーム的行動学はそれが傍若無人に徹すればするほど、画面を横切るスケーターや人物そして車までもが動物的な視線を獲得する。
 この動物と人間、そして車という記号の遍在はアニミズムとユートピアのイオセリアーニ的解釈を臨む。映画の前半と後半に繰り返される何とも微笑ましい横断歩道を渡る犬の群れの場面には、笑いと共に動物と車社会の融合が生成する現代的都市空間の一面が読み取れよう。それはシニカルなユーモアと、かつてジャック・タチが表象したスピード感覚に慣れた現代社会との齟齬感をきたすマイペースな動物的行動学が顕となる。
 管理人が、都市の壁に度々観るイマージュ。それは前半ではエデンの園への誘いとしての扉が開き中には美女と都会のオアシスとも謂える草木と動物の共存が窺えるが、後半ではそれは朽ち果てた都会的デカダンスの悪夢とも取れる強風の吹き荒れた場面となる。
 確かにこの映画は進行するに連れて非日常的空間に満ちる事でフィクショナルな現実化が、反復と差異を生成する歴史的視点を有してゆく。それはメタ空間として最後に提示される一軒の家屋が野外演劇の舞台となる時、その完成が売春行為に耽っていた女性とその舞台建築者がテーブルに座しティータイムを過ごす場面。ここでは、それまでの都市の非日常的虚構空間が取り戻したユマニストの側面を如実に反映している。それも都市の風景が劇場空間に徹すればする程、このメタ空間はシニフェな日常性を滲ませるのだ。
 この映画の冒頭が、それを見事に証明している。そこではいかにも虚構然としたフランス革命での恐怖政治に加担したバルタザールの処刑が、女性ばかりの一般市民の観る側と断頭台で切断されるその首がまさに作り物である事からも推察されよう。
 そして現代の戦争状況を闘争のエチカに溢れた記号として爆弾破裂による気化作用の煙の存在と、兵士達を慰め聖体拝領のトポスともなる河の満々とした水がその煙の液状化として変容する場面では、戦争という極限状態での水という記号が治癒と聖水の役割を果たす事、つまり闘争と休戦の絶え間無い反復に偏在する記号としての液体の変貌が確認出来るのだ。
 これら革命と闘争の寸劇とも取れる二つの冒頭の場面が遊戯的虚構として徹底される時、その後の本筋のトポスを都市の場面に費やす事でここにも上記の「盗む」行為や紫煙やアルコール類までもが、革命や戦場と何ら遜色のない記号の遍在として共示作用を促すのだ。それは一見平和に見える都市空間を虚構で一杯にする際、穿たれる闘争の異空間の醸成とも謂えるだろう。
 オタール・イオセリアーニ監督はこれが歴史的パースペクティヴな同一性を纏う為に都市にさ迷う戦闘力が、人であり動物であり自然現象であり消費社会である事を無闇にも白日の下に晒す。そこには絶え間ない争いが虚構に近付けば近付く程、リアルさを秘めた闘争劇に終始する即物的な速度と運動性の劇場空間の裸形の姿を認識できるのだ。それは、管理人のもう一つの顔でもある武器商人の役柄からも察知できよう。
(了)

シネフィル淀川