アマデウス ディレクターズ・カット版のレビュー・感想・評価
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赦し
治安が悪い土地に、モーツアルトの楽曲を流したら、犯罪件数が激減したという実験があると聞く。
そんなモーツァルトをめぐる物語。
(舞台・映画の劇場版未鑑賞。ディレクターズ・カット版のみ鑑賞。)
目の前から消し去りたくて消し去りたくて、足を引っ張っているものの、
その動向が、作品が気になって、気になって、追ってしまう。
そんな状況が苦しくって、神を恨み、神と決別までさせた相手。
(神と決別ってことは、死後安寧は得られないわけだ、未来永劫に)
そんな想いを抱く相手から、先に「赦し」を乞われたら、私はどうするのだろう。
鳥肌がたった。
神。祈り。
信仰とは代償を求めるものなのか。
この世に送ったただ一人子を磔にしたのち復活させて自分の威光を世に知らしめた神。
一人息子を生贄に捧げることを命じて、その人の信仰心を試した神。
サリエリが、己の生活を律して、求める才能を神から授けてもらおうとしたごとく、修道士等も同じように、時には自分にこれでもかという苦難を課して、神の愛を得ようとする。(『悪魔の陽の下に』)
神とは、そういう取引をしなければいけないものなのか。
日本にも、治水祈願等生贄をモチーフにした物語はある。元々、自然の驚異を神に見立てた祭礼。非業の死を遂げた人々への鎮魂・鎮守。
同じ生贄のエピソードでも、ブッダのうさぎのエピソードと違いすぎて…。(仏教にも荒行はあるけれど…)
キリスト者ではない身には、”信仰”の意味が、今一つピンと来なくて…。
それでも、話を聞く神父の表情を観ていると、圧倒させる。
神父にとって、唯一無二の存在を無にされる・汚されるその驚き・怒り・悲しみ。翻って、サリエリの神への、運命への想い。「渇望だけ与えて~」恨みたくなる気持ちはわかる。
舞台はもともとサリエリが観客に物語るという方法をとっているので、神父の役はないそうだ。映画では、”誰か”に語る必要があり設けた役だそうだ。(DVDの解説から)
神との対峙という点では、神父の力を借りて理解するものの、
”渇望”、それを得られない狂おしい気持ちは、嫌というほど伝わってくる。
努力してある程度得られた人ほど、努力しても得られなくなった時の空回り度の深み。
”神”の種類は違えども、初詣を始め、神社・仏閣、ありとあらゆるところへの願掛け。神頼み。その努力(?)に見合った対価を期待し、裏切られた時の失望。恨み。
目の前にいるサリエリは自分の姿だ。
とはいえ、日本には「苦しいときの神頼み」と努力もしない他力本願を戒める知恵もある。だが、サリエリの場合、欲を封じるという努力もしているから、それこそ「俺の人生なんだったんだ」という絶望に陥るのもわからなくはない。
才能。
才能の種類は一つではない。
成功。
成功の形も一つではない。
極上の音楽を生み出したいサリエリ。後世まで、わが名が称えられることを望んだサリエリ。
事実として、サリエリの楽曲は今も残っている(図書館の所蔵を調べたら、サリエリの曲のCDがあった)。ある新聞記事によると、サリエリの故郷では今でも名士だ。決して、相手の才能を見抜くだけの才能の持ち主ではない。
皇帝や聴衆の理解度・趣味に合わせた楽曲を生み出す才。そつのない立ち回りを行える才(難しい人間関係の中でのコミュニケーションの手本となるべき応答の巧みさ)。人生への計画性。時代の寵児となれる才。
モーツァルトには持ちえぬ才。サリエリのその地位。モーツァルトはどれだけ渇望したものか。
人はなぜ、自分にないものを求めてしまうのか。
自分の存在が消えていく。生きた証を残したい。終活の年齢が近づけば、その気持ちは痛いほど共感できる。
世間の栄誉をわが手に。
でも、それだけでなく、その道の専門家中の専門家、自分が認めてもらいたい相手からの評価。それは別物。
欲深い願いと思うものの、共感してしまう。
モーツァルトは性病を患い、その治療のために服用した薬で命を縮めたとも聞く。
もし、モーツァルトが、金遣いが荒くなかったら、稼いだ分を使うという収支をわきまえていたら、相手の立場に立つことができていたら、コミュニケーションを工夫する術に気をまわしていたら、
妻のコンスタンツェも「金、金」言っている鬼嫁でなく、
自分の好きな音楽だけをやって、自分の仲間と幸せに暮らしていたろうに。
(宮廷の面々の鬘は変わらないのに、モーツアルトの鬘は毎回違う。どれだけ浪費家だったのか)
ステージママならぬ、ステージパパ。
「猿回しの猿」にした人。”神童”としてもてはやされた昔の子役と同じ末路。
”管理する”ことに一生懸命で、人生で大切なことは教えなかったのだろうな。
そんなモーツァルトはサリエリのアイドルだった。
もし、その憧れを壊さなかったら、サリエリは、モーツァルトの熱狂的なパトロンになっていたのではないか。
アイドルの実態が、思い描いていたものと違うときの落胆。
しかも、自分のテリトリーにずかずかと踏み込んでくる輩。
心の平安を乱す甲高い声・言葉。
賞賛を述べたかと思うと、刃のような言葉を吐いてくる。悪気は全くなく。一番厄介。
自分が大切にしたものを汚す存在。
人間誰しも、一人や二人、生理的にどうしても合わぬ奴がいる。
自分が自分に禁じたことをすべてやる存在。
見切って、憧れの対象を移せるような存在だったらよかったのに。
その人が放つ、唯一無二のパフォーマンス。
そんな唯一無二の瞬間を共にできたと思ったら…。その顛末。後を引く。未完のワーク。
そんな誰の心にもある心情がサリエリを通して、描かれる。
誰が誰を赦すのだろう。何を赦すのだろう。
なんという脚本・戯曲だ。
見返す度に、想いは果てしなく巡る。
演じる役者が良い。その表情だけでも、ずっと観ていたくなる。基本、おっさんだらけなのに。
エイブラハム氏が、恍惚とした表情、憎しみ、絶望、ありとあらゆる表情を見せてくれる。
ハルス氏が、サリエリたちが顔をしかめるような下品でありながら、皇帝がつい身を乗り出して興味を示す、人を魅了してやまない側面。音楽に対するゆるぎなさ、指揮をするときの躍動感。後半の窶れ、孤独。デスマスクまでが見事。
べリッジさんの大きな瞳。家計を何とかしようとする必死さ。
キャロウ氏は、舞台でモーツアルトを演じられていたとか(DVD解説より)。どんな気持ちでシカネイダ―を演じていたのか。そして、歌はご本人によるものだろうか。聴かせてくれる。
ジョーンズ氏の皇帝。威厳がありながらも、劇場監督達に翻弄されている姿、ピアノを練習している姿が可愛い。意外なコメディパート。ゴールデングローブ賞ノミネートもかくや。
反対に、ザルツブルグの大司教の重み。モーツアルトをペットとして飼っている雰囲気が出ている。舞台では皇帝を演じていたそうだ。
劇場監督・宮廷楽長・宮内長官・男爵のつるみもおかしい。
メイドの表情で、モーツアルトの様子の変化が見て取れる。
フランク氏の神父も上述の通り、その一つ一つの表情に入っていってしまう。
映像がいい。
プラハでロケしたとか。歴史の重み、ロココ調のインテリア。
ろうそくの灯が近づくさま。ろうそくの柔らかな光と闇。
音楽・オペラの入れ方がいい。
クラッシックに疎いので、使われた音楽・オペラが、モーツアルトを語る上で外せないものなのかはわからねど、そのシーンを百の言葉よりも語ってくれる。
オペラは、実際に公演されているもののリハーサルにカメラを入れたかと思うくらいの出来。『夜の女王のアリア』の舞台のモダンさ。コンスタンツェの母を演じた方は本物のオペラ歌手なのか?『ドン・ジョヴァンニ』の迫力。舞台の上での爆発なんてあの当時にあったのか?全編観たくなって、DVDを探してしまった。機会があったら、生でも観たい。
そして、時代考証。
鬘。あんな感じだったのね。
舞踏会・社交場。つい、『山猫』の影響か、『shall we ダンス?』みたいのを想像してしまっていたけれど、あんなフォークダンスみたいのもあったのね。
精神病院。18世紀末にフランスのピネルという人が「精神病患者を鎖から解き放ったのが、精神病医療の始まりとされる」と習ったが、あんな感じだったのね。
劇場。歌舞伎座や国立劇場みたいのから、大衆劇場まで、様々。鑑賞する人々の、自由で楽しそうなこと。
埋葬。DVDの解説によると、当時、コレラ等の感染病対策で、墓地へは出入り禁止だったとか。だから、街の出入り口でお見送り。実際はもっと少なかったであろうが、増やしたとか。オペラ歌手も参列していたが、男爵が来ていたのはびっくり。お金があれば、自分の”墓”が買えたのだろうが、お金がないから共同墓地に入れられてしまった。棺桶もお金がないと使いまわしと解説で言っていたが、感染源になりそうだ。
映画としてのテーマも永久不滅。
細部にまでこだわりぬいた作品。
音響の良い劇場でも観てみたい。
タイトルなし
苦悩 嫉妬 悲劇
人の美しさ醜さ 生々しい人間模様を
美しい映像 音楽と共に
宮廷音楽家サリエリ視点で描かれたモーツァルトの生涯
サリエリの心情を丁寧に描かれ
180分の長編も
常にひきつけられます
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野外ロケの殆どをプラハで
劇場 歴史的建造物
優雅な音楽 そして衣装
見処がたくさん
.
中世もの宮廷もの大好き
何度も鑑賞
生涯ベスト映画
美しい音楽と映像のなかに、生々しい人間が描かれる。人の美しさと醜さがすべて詰まった大傑作。尺はさらに長くなるけど、ディレクターズカット版がやはりおすすめ。なぜサリエリが神との縁を切るのか。それはディレクターズカット版の方がよく描かれている。
初、3時間の映画
まったく長く感じなかった
コメディ要素もあるから面白くて飽きなくて、その中にも人間の性とか、生まれ持ったものの切なさとかがあって良かった。
凡庸な人間が生きる意味、生き方、それをまざまざと見せつけてくれた映画でした
やはり名作か
午前十時の映画祭二回目!
この映画は学生の頃に授業で鑑賞しました。授業では数回にわたって細切れに観たため、こんなに長尺の映画だとは今回初めて知りました。しかし話が面白いのとBGMが極上なのとで長くても全く苦にならずに観られますね。
一度観たとはいっても中学生の時。だいぶ前なのに加え、当時あまり興味がなかったので(笑)、おおまかなあらすじ以外は覚えておらず新鮮に鑑賞できました。
まず一番の感想は、サリエリ役の人、めちゃくちゃ演技うまいですよね…??!びっくりするくらい演技うまいなあと終始思っていました。ごく控えめに言って神演技ですね
二番目、コンスタンツェ、おっぱいおっきくて超カワイイ。救いようない愚妻だがカワイイ。
三番目、サリエリとモーツァルトの違いってなんだったんだろう、って考えた時、生来の才能っていうのはもちろんだけど、やはり、生まれ育った環境、とりわけ幼少期の親の影響って大きいのかなあ…って思えて、自分に振り返って少し鬱に(・・)
サリエリ氏の哀れなところは、努力の凡人、凡庸の人なのに、才能を見抜くことに関しては天才だったことだろうな。鈍感で何にも気が付きさえしなければ、かように苛烈に嫉妬することもなく、凡庸な幸せを慈しむ人生を歩み続けていけたのに。
でも懺悔して吹っ切れて最後はハッピーそうだったからよかったよ。
映画ならではの贅沢で豊穣な作品
以前にレンタルで観たときは、サリエリのエイブラハムが凄い!
と思ったけど、今回映画館で観たらモーツァルトを演じた
トム・ハリスの後半の徐々に憔悴してゆく演技も良かった!
映像的には、お金のかけ方も桁違いだろうけど
宮廷や貴族の館の豪華絢爛さ、
この後の中世モノに比べれば群を抜く華やかさ!
何より、クラシックにはそれ程詳しくは無い私が
モーツァルトのオペラをちゃんと観てみたい!!
と思わせる程の、舞台と音楽の再現の半端なさ!!!
余りに常軌を逸脱した人物であり、
自分をバカにしていると解っていながら
実は誰よりもモーツァルトの才能の素晴らしさを見抜いていた
サリエリの葛藤が、とにかく切ない。
誰よりも自分自信がモーツァルトのファンであり、
最初は陰謀のために利用しようとしたレクイエムを
最後は陰謀の為では無く純粋にその完成曲を
聴きたかったのでは無いか?
そう思うとサリエリの心情は余りに哀しく
現代のモーツァルトファンにも通じるモノがあるように思います。
凄かった!!
時間があればもう一回観たい!!
やっぱイイねぇ
スクリーンで観れるのが嬉しくて足を運んでみました。
昔はモーツァルトの天才っぷりに感心したけど、今回はサリエリの苦悩、絶望感の方に心が打たれてしまった。自分も歳をとり色々な経験値の差かな、と。
天才の悲喜劇
モーツァルトと同時代のウィーンの宮廷音楽家アントニオ・サリエリの目を通して、彼の短い生涯を描く。
この観察者・サリエリは、ベートーベンに教えたりもしたたたき上げのエリートなのだが、モーツァルトの登場によって自信を打ち砕かれ、彼の下品な言動を徹底して嫌うことになる。
映画に描かれるモーツァルト、つまり、サリエリの目で見たモーツァルトの下品な笑い方、他人への尊敬の欠如は不愉快極まりない人物像である。
しかし、なぜここまでモーツァルトという作曲家が無神経な人物として描かれなければならないのか。もちろん彼の意外な一面を観客に提示するとは、映画を魅力的にする要素の一つには違いない。だが、単にこれまでのモーツァルトのイメージを覆すような新しい人物像として描いただけでは、この作品の映画としての完成度はこれほど高くなく、もっと薄っぺらなものになっていたことだろう。
モーツァルトの厚顔無恥ぶり。それは、この人の無私によるものなのだ。映画はそのことを繰り返し示唆する。
皇帝や他の宮廷音楽家たちの目の前で、サリエリの書いた曲を即興で改訂し、サリエリ本人ですら感嘆するような素晴らしい曲にしてしまう。このときのモーツァルトにサリエリを侮辱する意思は全くない。むしろ、サリエリには作曲家としての才能が(自分ほどではないにせよ)あるということを認めているのだ。
でも、モーツァルトにはサリエリの尊厳に対する配慮は微塵も見られないのだ。皇帝ですら持っている他人の尊厳への配慮が彼には全くない。映画の肝は、なぜこのような人物像が成立するのかということである。
音というものは自然界に存在するものである。これは、モーツァルトや先達の作曲家が創造したものではない。「日の下に新しいものなどない。」という言葉のごとく、音楽を構成する音という要素は人間が作り出したものではない。作曲家はただその自然界に存在する音を紡ぎ合わせ、美という真理を見出した場合に美しい音楽として生み出すことができるだけだ。
音と音楽のそのような関係を知っているモーツァルトにとって誰が作曲したものでも、この自然の真理と作曲者の人格が一体をなすなどという発想とは無縁なのだ。
モーツァルトにとって、サリエリの作品を改変してしまうことなど、数式の間違いを正すことと変わらず、この訂正が人格や尊厳を傷つけるなどという憂慮には至らない。
そして、真理が誰にとっても真理であるという当たり前のことが、宮廷音楽家の端くれであるモーツァルトに大衆向けの音楽を書かせることにもなる。
真理としての音楽。この神の領域に自分が手をつけることができると勘違いをしたことにサリエリの悲劇があり。神の領域にから得た才能、つまり天才は、凡人には計り知れないものであることを知らなかったことが、モーツァルトの悲劇なのだ。
夫を残して温泉療養へと出かけてしまうモーツァルトの妻は、最後までこの天才を理解することはなかった。天才は孤独を強いられる。
終盤に、病床のモーツァルトが口述し、サリエリが譜面をおこす。モーツァルトが誰よりも自分の理解者であると信用したのは、皮肉なことに、誰よりも彼を恨むサリエリに他ならなかった。
孤独な天才は、少なくともサリエリという理解者を得て死んでいく。嫉妬の炎に焼かれたエリート音楽家が、偉大な天才を死に追いやり、そして天才の死に際してその孤独から救うという悲喜劇である。
才能への嫉妬
努力型のサリエリに対し、天賦の才で作曲するモーツァルト。サリエリにとってモーツァルトは、邪魔な存在でしかありません。でも心うちでは、音楽は自分以上と認めています。サリエリがモーツァルトに対して行った過ちを懺悔する形式で、物語が進んでいきます。
この映画が作られて長く経つのに、今見ても興味深いです。サリエリとモーツアルトの2人の心理的駆け引きが見物。衣装とセットもちろん音楽も素晴らしい!
3時間の長さを感じさせません。
ちょうど、安藤美姫さんのトークショーでレクイエムの衣装のエピソード...
ちょうど、安藤美姫さんのトークショーでレクイエムの衣装のエピソードを聞いた後に鑑賞、これも運命…華やかで軽快な音楽が多い印象のモーツァルトが死の淵で作曲したレクイエム。何百年時が経っても荘厳な響きは失われない。
期待を裏切らない作品
今作品、重厚な音楽・華麗なオペラ・サスペンス調のストーリー、そして何よりモーツァルトとサリエリの人物描写が見応えあった。天才と凡人、神はどちらにも平等に苦悩を与えられたということか。サリエリはモーツァルトを通して常に神と対峙していた…のでただの嫉妬心とはちょっと違う気がする。
神父に告白していく中で彼は何度も「神が私を…」と呟く。最終的には自分自身も罪の意識に苛まれ、自己を破壊していく。
一方、天賦の才能を魅せつけたモーツァルトも厳格な父親の前ではひとりの息子、父が彼にとっての神だった気がする。生活のために「金を稼いで!」と彼をあおる幼妻コンスタンツェの存在がある意味、一番俗物的でその他大勢の代表かも。登場人物を通して人間の内面を深く描きだした傑作だと思う。おすすめです。
ディレクターズカットの方が負けています
両方観てます
ディレクターズカットの付け増しは余計ですね
ディレクターズカットはこれらの蛇足エピソードのせいで変えてはならないストーリーがやや微妙に変わってしまいます
切るべきだから切られたシーンを作品人気にあやかって足して出す失敗例はニューシネマパラダイスもラストエンペラーもそうです
完全版とかディレクターズカットとかは、作り手の自己満足か商業的理由による蛇足がほとんどです
私はアマデウスを数え切れないほど観ましたけれど、ディレクターズカットじゃない普通のアマデウスをおすすめします
普通のアマデウスは完璧です
ディレクターズカットは蛇足分だけマイナスが付きますけど、それでも普通の映画はおもしろさにおいてこの作品に近づけません
だだ流し状態の普通のよくある映画にとってアマデウスは影すら踏ませないおもしろさです
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