劇場公開日 1958年4月22日

「らっきょうと小学校」無法松の一生(1958) よしたださんの映画レビュー(感想・評価)

2.0らっきょうと小学校

2015年6月12日
PCから投稿
鑑賞方法:CS/BS/ケーブル

泣ける

三船敏郎の豪放磊落な男臭い演技はいかにも芝居じみて、そのせいもあってか、彼がスクリーンに登場すると、途端にそんな彼をどう見つめてよいものやら分からなくなる。つまり、観ているこっちが気恥ずかしくなるのだ。
しかし、この作品での三船は、ひょっとしたらこの人の仕事を離れた素の姿は、この松五郎のような人物なのではないかと思わせる。それはきっと、脇を固める高峰秀子や笠智衆らの演技によるものでもあろうが、やはりここは三船の素朴な人間性が演技にも出ているのだと思いたい。
運動会の徒競走に飛び入り参加した松五郎を見つめる高峰の気色ばんだ瞳を見れば、このあと松五郎との間に何かが起きることを期待しない観客はいないだろう。松五郎の疾走に男の精力を見出す寡婦の、慎みを忘れてしまったかのような姿を無言で演じて見せている。
街の顔役を演じる笠も痛快な演技である。ぶっきらぼうな松五郎を、生真面目に理路整然と諭す親分の人物造形は独特で笑いを誘う。
小学校の窓から子供たちの様子を見ることを愉しみにしている車夫という設定そのものがすでに涙を誘う。自らが辛く淋しい子供時代を過ごしたからこそ、抑えきれない楽しい学校生活への憧憬。
松五郎と同様に幼くして生母を亡くして継母に育てられ、若くして家を離れて旧制師範学校を出たのち小学校教師となった人物を身近に知る者としては、映画の中の松五郎とこの個人的に知る小学校教師とが合わせ鏡のように見えてならない。その私の祖父である小学校教師もまた、竹を割ったような気性であり、子供たちが好きだったと、生前の彼をよく知る者から伝え聞く。
このように観客が現実の生活の中で知っている人物と映画の登場人物とが重なり合うとき、物語の内容や登場人物の印象は通常の者とは全く違ってくる。物事の解釈や認識に強いバイアスがかかっていることを自覚しつつも、そのバイアスに身を委ねたいという欲望。ノスタルジーや同情に浸る快楽。このような映画への触れ方も良いものだ。
さて、松五郎が吉岡少年にらっきょうを勧めるシーンが忘れられない。少年の口では一口で頬張れないほどの大粒のそのらっきょうの美味そうなこと。ペコロス玉ねぎほどの大きさもあるあのらっきょうはどこで食べることができるのだろうか。大正の北九州小倉へ行かなければ食すことのできないものだろうか。

佐分 利信