放浪記(1962)のレビュー・感想・評価
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苦苦しいが、印象深い映画 → ただ、観てて気分良くない
1.ふみ子は、言いたい放題+放言 → 正直とも言えるが空気が読めない女
→ 自分の部下や後輩に、こんな人が居たら迷惑
2.ふみ子は安岡に冷たい → 別の書き方をすれば、①面食い、
→ 及び、②男を見る目が曇ってる
3.ふみ子の発言や態度から、感謝の心が感じられない
→ 小生は、好きになれない、 尖がり過ぎている
→ 因みに、ふみ子の夫:菊池貢も尖がり過ぎている → 好きになれない
4.日夏京子から預かった原稿の提出が期限後になってしまった件
本人に悪気はなかったとしても、京子に迷惑をかけたのは事実
→ それを「悪気は無かったから責任はない」みたいな発言
こんな知人がいたら嫌だな
5.映画の出来としては、良いと思う
女とは何かと言うことでは、成瀬監督作品に共通するテーマの作品だと思います
成瀬監督作品で林芙美子原作のものは
1951年 めし 原節子
1952年 稲妻 高峰英子
1953年 妻 高峰三枝子
1954年 晩菊 杉村春子
1955年 浮雲 高峰秀子
ときて
1962年の本作となります
しかも林芙美子のデビュー作にして出世作
それを東宝創立30周年記念作品として撮るのだから気合いが入っているのは間違いないでしょう
放浪記は本作公開の前年に森光子主演で芸術座での舞台公演が始まり大ヒットをしています
なんと2009年までの空前絶後のロングランになったのはあまりにも有名です
森光子がでんぐり返りすることで超有名なあれです
そこが最大の見せ場のように言われていますが、本作にはそれはでてきません
本作の製作が決まったのはこの舞台の大成功がきっかけであったのは間違いのないことかと思います
と言うことで、ノンストップの舞台ですから、その舞台俳優を使っては撮影することはできません
音楽の古関裕而だけはスライドしています
では本作の主演女優を誰にするかが問題です
原節子には、このヒロインは逆立ちしてもできはしません
杉村春子は年を取り過ぎです
当然、高峰秀子が主演になるわけです
本作はその高峰秀子の演技の頑張りを楽しむことが目的の映画となっているようなあんばいです
成瀬監督らしさというより、林芙美子の放浪記を忠実に映画化することに力点がおかれてあります
田中絹代もあまり見せ場はないです
成瀬監督には田中絹代へのリスペクトはあってもなんとしても美しく撮りたいという妄執はないので普通におばあさんとしての佇まいで、サンダカン八番娼館の時の姿を予告したものになっています
それでもこの二人をして、女とは何かと言うことを描こうとしていることでは成瀬監督作品に共通するテーマの作品だと思います
演技力が良い
森光子の舞台の話しか知らず、物語も知らなかったので、たまたま放送していたので観ました。
今なら流せないような、女性の姿が良かった。
幸せに見えそうでも幸せでない感じの演出が良かった。
最後は成功して大きな家に住んでるところまできたけど、やはり幸せそうに見えない感じが醸し出されてました。
モノクロ映像の光と影が貧しさを効果的に映し出している。眉尻の下がっ...
モノクロ映像の光と影が貧しさを効果的に映し出している。眉尻の下がった高峰秀子の憐れな表情が見事だった。
男の苦労も糧とする逞しさ
最初に捨てられた大学生をはじめ、
生活力のないインテリの優男にめっぽう弱いふみ子だが、何くれとなく親身になってくれる安岡の思いに応えるでもなく、それでも繋ぎとめておく強かさも持つ。
書くことに関しては最初から絶対的な自信があったとは思うが、ふみ子という人は女としては、すごく自己評価が低い人なんじゃないかと思った。
だから、心理的、身体的虐待を許してしまう。
ふみ子に文学がなかったら、福地と別れられなかったかもしれないが、書き続けるためには独りになるよりほかなかったのだ。
仲谷昇、宝田明のダメ男ぶりも見事だが、
卑屈さを感じさせるいつも少し猫背なふみ子像を作り上げた高峰秀子もお見事だが、最後までふみ子の友人であり続けた加東大介の演じる安岡の実直さも印象的だった。
高峰秀子
『二十四の瞳』の女子先生は可愛かった。その頃とはまったく違う。貧乏で何とか暮らしていこうとする懸命さが売りだから、生活臭が漂う女性。給料の安い女工時代や飲み屋で働いているときはキラキラ輝いているようにも見えたが、徐々にやつれてくる雰囲気。美形の俳優の顔そのものよりも、働くことで輝いて見せるところが素敵です。
これぞスタンダード名品
シーンの繋がりが実に効果的。
例えば「エヴァ」の翼をくださいのように、また例えば「ゴッドファーザーパートスリー」のオペラのように、また例えば「天国と地獄」の犯人逮捕で流れるラジオのように、
マイナスなイメージの冷酷さを増幅させるための、陽気なBGMのような効果を、シーンのラストカットと次のシーンの最初のカットの落差が、無理なく生んでいる。
……といったように、芸術的作品たる作り手の、その意図が、観客ごときの自分だが、その自分に心地良い。
抑えられてなお強く芯を捉えるといった、作為の見せ方の、ストンと落ち着いて奇をてらわない手触り感が、観ていて実に小気味好い。我々はリアルな質感を観ているのではない、技術の仕草を観ている。
ただただ風景を詠んだ俳句を観ている感じの連結の小気味好さ。
観客は、興奮させるために作られた芝居を観たいのではなく、良いものを作るために作られた芝居を観て、それで各々勝手に沸々と興奮してくるものである。
近頃の作為が蔓延しきった作品にはなかなか無い妙味がある。
また、高峰秀子の身体は水を通った白玉のようで、汚しがいがあるのだ。
・なーんでそんな男にこだわるの?早く見切りつけなよ!ってイライラす...
・なーんでそんな男にこだわるの?早く見切りつけなよ!ってイライラするけど人それぞれだからなぁ…
・女給シーンは観てて楽しい
・登場するたびに安岡の好感度が上がっていく
・お屋敷での母親の着物、来客への返しにニヤニヤした
書くことへの執念
背を丸め、口はへの字、眉はたれ気味。貧乏であることがその内側から滲み出てくる女性を高峰秀子が力演している。他のどの出演作にも増して相手の男性役が彼女の背景に霞んでしか見えない。
彼女の詩を批評する同人の一人が、「ゴミ箱をかき回して、中身を放り出したような」と表現したような女の生活がスクリーンに描かれている。
しかし同時に、彼女がなぜそこまで書くことに執念を燃やすのかについても、映画はしっかりと伝えてくれる。
林扶美子は、貧乏を書きたかったのではない。貧乏な生活を送る自分が、カフェーの女給しかできない人間ではないことを明かすためにものを書くのだ。
そして、彼女自身が言う通り、教育もなく、金もない彼女が書くことのできる内容といえば、貧乏暮らししかないのである。
映画の中では何度も林の文章が映し出され、高峰のナレーションが入る。これが、功成り名遂げた現在の林扶美子が、過去の自分を回想している構図を生み出す。映画表現としては面白みに欠けるが、一人の作家の自叙伝という形には必要だったのだろう。
意思。
林芙美子の自伝的小説、ということは知っていましたが未読のまま鑑賞。
間借り、木賃宿、その日暮らし。働けど働けどの日々の中、私の人生こんなもんじゃない、書いて書いて書き続ける。売れなくても、さっぱり目が出なくても、一寸先が闇であっても。
センスもさることながら、続けていく意思力、その力強さがうかがえた。
何度も失敗する男関係、他の文芸仲間とのやりとり、裸の自分を開示する、その覚悟が潔くて良かった。
また、就活の様子の第三者から見た滑稽さは、今みても何かしら感じる処がありました。
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