白毛女

劇場公開日:

解説

中華人民共和国の中央電影局東北電影製片廠製作、一九五〇年度作品。戦後最初公開される中共映画である。原作は魯迅芸術文学院の集団創作劇で、一九四四年完成、その後オペラ化され、現在最も人気のある舞台劇だが、水華、王浜によって映画化されたこの作品も、一九五一年チエコ国際映画祭で特別賞をうけている。スタッフ、キャスト共にわが国ではまだ馴染みのない人々だが、主役田華はじめ、中国の代表的映画人である。

1950年製作/111分/中国
原題:白毛女
配給:独立映画センター
劇場公開日:1955年12月6日

ストーリー

一九三五年のこと。河北省のある村に喜児(田華)という美しい乙女がいた。同村の若者大春(李百萬)と結婚することになっており、婚礼の日を待っていたが、喜児をみそめた村の大地主黄世仁(陳強)の非道によって破られてしまった。彼は喜児の父親白労に、貸した金のカタに喜児をよこせとせまり、とうとう証文に判を押させてしまった。白労は悲しみのあまり自殺し、喜児は泣く泣く世仁の家につれ去られ、ひどい虐待をうけるが、それに堪えて愛人との再会の日を待っていた。ところが或る夜、黄世仁に手ごめにされ、彼の子供をみごもってしまった。一方、大春は村から脱出し、八路軍に加わった。喜児は女中の味方をえて黄家を逃げ出し、深山に入ってほら穴に住みつき、そこで子供を流産した。飢えと悲しみにやせ細った喜児の頭髪は、いつかまっ白に変り、村人のあいだに「白毛の仙女」のうわさがひろがった。三年たち、一九三七年七月、日本軍の侵入をむかえうつため、八路軍が北上してきた。その中には大春もいた。世仁は八路軍の解放政策に対抗して「白毛の仙女」の迷信をふりまき、農民の抗日意識や小作料引下げの運動をくじこうとした。大春は迷信をひらくため、ある夜仙女を追って山奥のほら穴に入り、意外にもそれが喜児であったことを知り、相抱いて村に帰った。地主の悪事はあばかれ、ふるい制度はとりのぞかれた。喜児の白髪もだんだん黒くなっていった。

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映画レビュー

4.0生きながらえて、恨みをはらすのだ

2021年7月25日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

本作の背景として、「国民党とつながる地主による暴政から、共産軍(紅軍、八路軍)が人民を解放する」というテーマがあるという。
八路軍は“抗日”団結を呼びかけ、農民は小作料の引き下げを要求する。

ただし本作において、八路軍はあからさまに賛美されるものの、“反国民党”とか“抗日”とかいった、政治的な要素は皆無といって良い。
共産主義思想やイデオロギーなど、どこにも出てこない。
あるのは、親子の愛や貧しい者どうしの隣人愛、そして何より、理不尽な地主の圧政からの解放、それだけである。

とはいえ、シンプルなだけの作品ではない。

主人公のシーアル(喜児)は、地主に妊娠させられ自殺しようとする。しかし、ついには「生きながらえて、恨みをはらすのだ」と決意し、白髪頭の「仙女」の姿となって、洞窟にひそむ。
そして、村人はその「白毛仙女」を恐れるという、民間信仰や迷信のようすが描かれていて面白い。

また、ミュージカルとまでは言えないものの、歌がよく出てくる。主人公シーアルも何度も歌う。
歌詞は重いが、いかにも中国らしいメロディーは、自分は大好きだ。いつまでも聴いていたい気さえする。

「白毛仙女」がひそむ、洞窟のセットもなかなか立派である。
シーアルの婚約者の八路軍兵士である大春が、「白毛仙女」の謎を暴きに洞窟に進入するのだが、洞窟のセットがしっかりしているので、クライマックスが盛り上がる。

なお、娘を売って苦悩する父親が“ニガリ”を飲んで自殺をはかるのだが、さすがに“ニガリ”で即死するのは無理であろうから(笑)、気分が悪くなって倒れた後、凍死したのだろう。

プロパガンダ映画としてではなく、虚心坦懐に見れば、感動的な映画だ。
脚本や演出に“ひねり”が全くなく、ど真ん中の直球勝負で突いてくる。
こういう純真・純朴な、良い意味でのステレオタイプを徹底してくる映画は、時々観る分には、現代のひねくれた映画に対する良い“解毒剤”になる。

<逝ける映画人を偲んで 2019-2020(@国立映画アーカイブ)にて鑑賞>

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