じゃじゃ馬ならし(1966・アメリカ)

劇場公開日:

解説

ウィリアム・シェイクスピアの喜劇「じゃじゃ馬ならし」を「将軍たちの夜」のポール・デーン、スーソ・チェッキ・ダミーコ、フランコ・ゼフィレッリの3人が共同で脚色し、ゼッフィレッリが監督した。撮影は「寒い国から帰ったスパイ」のオズワルド・モリス、音楽は「アルトナ」のニーノ・ロータが担当した。出演は「バージニア・ウルフなんかこわくない」でコンビのエリザベス・テイラー、リチャード・バートンのほか「寒い国から帰ったスパイ」のマイケル・ホーダーン、舞台俳優マイケル・ヨーク、「海賊船悪魔号」のナターシャ・パインなど。総指揮はリチャード・マクワーター。

1966年製作/アメリカ
原題:The Taming of the Shrew
配給:コロムビア映画
劇場公開日:1967年6月10日

ストーリー

16世紀初頭。休暇をとってイタリアの田舎に帰って来たルーセンショー(マイケル・ヨーク)は街で美しいブロンド娘ビアンカ(ナターシャ・パイン)を見て、一目ぼれしてしまった。そこで彼女の後を家までつけていった。家では、親父バプティスタ(マイル・ホーダン)と姉のカタリーナ(エリザベス・テイラー)が口論のまっ最中だった。カタリーナがかたずくまで、ビアンカは誰にもやらないというバプティスタの言葉に、ルーセンショーはカタリーナに男を世話してやろうと考えた。そこへ、ペトルーキオー(リチャード・バートン)という紳士が、金持ち女をひっかけようと街にやって来た。ルーセンショーはペトルーキオーをカタリーナに押しつけようと考え、ペトルーキオーもそれを承知した。翌朝、ペトルーキオーは早速バプティスタを訪れ、カタリーナを嫁にほしいと申し込んだ。土地と持参金が魅力だったのである。カタリーナは手のつけられないじゃじゃ馬娘で、2人はすぐに喧嘩をはじめ、すさまじい追っかけっこが始まった。が、さすがのじゃじゃ馬も次第におとなしくなってきた。ペトルーキオーは、彼女を小脇にかかえて戻ると次の日曜日に結婚すると宣言した。一方、ルーセンショーとビアンカの仲も、順調に進んでいた。結婚式の当日、ペトルーキオーは何を思ったのか花婿としてはみられないような汚い姿で現れた。大騒ぎのあげく結婚式は終わった。ペトルーキオーの家に帰ってもカタリーナのじゃじゃ馬ぶりはなかなかなおらなかった。しかし、ペトルーキオーは巧みな手綱さばきで上手に飼いならしていった。ビアンカの結婚のために実家に帰ったカタリーナは羊のようにおとなしく、皆の前で妻の義務について演説するほどになっていた。一同は驚き、ペトルーキオーは誇らしかった。カタリーナは今こそ完全な女になっていた。

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スタッフ・キャスト

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受賞歴

第25回 ゴールデングローブ賞(1968年)

ノミネート

最優秀作品賞(コメディ/ミュージカル)  
最優秀主演男優賞(コメディ/ミュージカル) リチャード・バートン
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映画レビュー

2.0結婚は上から順番に・・・小津にもあったか?

2019年3月19日
PCから投稿
鑑賞方法:CS/BS/ケーブル

 前半まではかなり面白い。途中からエリザベス・テーラーの魅力もだんだん感じなくなってしまう。ドタバタすぎたのかなぁ。

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kossy

4.0本当にフェミニストに攻撃されるべき作品だろうか

2019年3月14日
Androidアプリから投稿
鑑賞方法:DVD/BD

カトリーナ
2005年にニューオーリンズに大災害をもたらせたハリケーンの名前も同じ
欧米人にはシェイクスピアは一般教養であるからその名を聞いただけで猛烈なハリケーンだと想像できたろう
たまたまリストの名前がそれに当たっただけでもこの名前のイメージはそれほど強い

エリザベス・テイラー35歳
まだまだ美しい
しかし妹のビアンカを箸が転んでも可笑しい十代の娘としたことで、行き遅れの年増感が強調されている

原作初め本作もまた時代遅れの女性蔑視の産物とフェミニストから攻撃されている
男が女性を男性の都合の良い存在に強制する事を賛美している内容であると
確かにペトルーチオがカトリーナにすることは、今風にいえば精神的虐待でありDVであると非難される事だ

しかし本作では若干味付けが異なるように思える
というのもカトリーナはペトルーチオには閉口していて表面的には従っているだけで内面は全く変化していなかったからだ
しかしビアンカとホルテンシオの合同結婚披露宴でカトリーナは初めて自らの愚かさに気づくのだ

年端の行かない男女の子供達がじゃれあっている内に女の子が男の子を馬乗りになって懲らしめロバにまたがる
その様子を見て自分と同じだ
自分はあの年端の行かない子供と同じことを35にもなって結婚してもしていると気づくのだ
我が儘放題に甘やかされ、年の離れた妹に両親の愛情を横取りされたと拗ねて関心を集める為に駄々をこね暴言と暴力を振るい暴れまわるただの大人の子供だと
その時彼女のマインドセットは劇的に変わるのだ
ビアンカは何もできない甘やかされ放題の可愛い子ぶり子しているだけの女で自分と逆の見え方をするように振る舞っているだけだと
ホルテンシオの嫁になった未亡人はまるで自分と同じミニカトリーナであると
変わってしまったマインドセットを通してその二人の言動や振る舞いを見た時に自分の愚かしい過ちと浅ましさに恥じらいを急に覚えたのだ
この解釈は素晴らしい現代的なものだと思う

そしてラストシーンに彼女に引き出されたその二人の表情は、彼女と共にマインドセットが変わった観客の私達にも浅ましいものに見えるのだ
特にビアンカ役の女優は見事にそれを表現してあの清純そうな娘の正体はこれかと

そしてカトリーナのぶつ演説は、男性を立てる女性の役割を説くと表面的にはみえるが果たしてそうか?

男女の共同参画、両性の共同こそが何より重要であるとのメッセージではないのか
それには男女が互いに尊重しあい、互いを立てることから始めるしかないのだと
キス・ミー・ケイトと台詞とともに初めて唇を重ねた時、カトリーナの精神は真に解放され成長していたのでは無いだろうか

そしてペトルーチオもまた、始めは金目当ての結婚に過ぎなかったにもきわらず、この時彼はカトリーナを初めて女性と捉え真正面から向き合ってこころから彼女を愛し始めたのだ

あのキスシーンこそは、この二人が本当の夫婦になった瞬間だったのだ

この解釈もまたフェミニストから攻撃されるのだろうか
生きにくい世の中だ

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