悪人のレビュー・感想・評価
全195件中、21~40件目を表示
世の中悪人だらけなのか
妻夫木くんは、映画でみるのがよい。なんとも言えない雰囲気をかもし、スクリーンに映る
今回は残念ながら映画館ではないのだが
ほとんど喋らない、短いセンテンスのみ、いつもは饒舌に語るような目ヂカラもない、そして金髪。今まで妻夫木さあまりみたことがないキャラを、見るもに共感与える演技で淡々と、生きてることの苦しさを淡々とみごとだ。人殺しは彼なんだが、彼は悪人ではなかった。あとは、彼のおばあちゃんは悪人ではない、旅館のボンのお友達ひとりも、悪人ではなかった。妻夫木くんが無口なように彼もボンの取り巻きの1人として声を発することができない、、あとは大体ほんまもんの悪人、旅館のボンやらマスコミやら健康食品屋のヤクザやら、、か、利己的な気持ちか、マウントみたいなものが見え隠れする無意識の悪意の人ら。悪のないおばあちゃんに育てられた妻夫木さんは悪がない。親に捨てられても愛情を受けて育ってきた。、私は悪くない、頭なたは悪くない、私の子供は悪くないと思っていると、そうやって一生生きていくしかなくなる、、柄本明がボンにいうように。悲運のヒロインの深津絵里も、自分の幸せのために祐一を利用しただろう、それを愛だと思って、自分の人生変えようと思って。
国道のそばから離れられないでずっとそこで暮らすしかない人、海を目の前に暮らしていると逆に海に立ちはだかられどこにもいけない気分になる人、。人間関係にも土地にも閉塞されている生、人と比べたり人より偉そうにしなければ満足自己満足できない生。それでも人生には一瞬輝くモーメントはあるだろう、日の出を見るとき、スカーフを結ぶとき、自分が大切と思う人を守る時。
悪人とは主観
人の立場によって悪人かどうか異なる。
もちろん殺人を犯してしまった清水は悪人。
だが、視聴者からすれば置き去りにした大学生も、殺された女性も悪人だと感じるかもしれない。
柄本明が幻想の娘に、お前は悪くないと言っていたのが印象的。
誰が正義で誰が悪かなんて、結局は主観でしかないのかもしれない。ニュースで流れる犯罪を犯した人以外にも悪人はいる。
本当の悪人とは?
犯罪者だけが悪なのか?
犯罪さえ犯さなければ善なのか?
他人を見下す男
男のスペックによって態度を変える女
子供を捨てる母親
こういう存在は糾弾されずに、不器用ゆえに犯罪を犯せば即悪人なのか?
この映画を観ると考えさせられます。
てか、岡田将生は暴行罪にはならないのですか?笑
本作は2010年の映画ということで、2021年現在鑑賞してみると社会背景の移り変わりをとても感じます。
今はマッチングアプリという洒落た名前になっていますが、当時は出会い系=よく分からない人がたくさんいる怪しいモノ、というイメージ。当時を知る人が見れば「こんな時代もあったなぁ」とすんなり入ってきますが、デジタルネイティブ世代には理解しづらい内容かもしれないですね。
久々の当たり映画
最近暇すぎて映画ばっかり見てて、またよく分からない内容なんだろうなって見てたら、分かりやすく話が展開されていて、どんどん続きが気になっていく映画でした。それにしても、妻夫木くん若すぎる。
深津絵里さん変わらなすぎる。
昔の映画だから、脇役が今をときめく俳優さん、女優さんだから、より楽しめた。
たぶん妻夫木くんは悪くない。でも、結果的に暴力はダメだよね。でも、自分が好きになった人が殺人犯だったら、あんな感じで一緒に逃げれないと思う。
だって怖いもん。
でも、愛があるからかなぁー殺人犯じゃなきゃ、一生のパートナーだったかもしれないのにな。
好きかも。
見逃していたけど今頃拝聴。
泣けた。
本当の悪人は誰だろう
手を下さなくても間接的にきっかけをつくった心無い大学生か
罪悪感を感じる殺人者か
人の心を踏みにじるマスコミか
直接的な犯人でなくとも殺したいほど憎む被害者の親か
それとも自ら殺人に導かせたかのように描かれる被害者か
無垢な人からお金をだましとろうとするチンピラか
誰が悪かったのだろう
皆悪いんじゃないか
メディアに出るから悪人とされるけれど
メディアにさらされない悪はどうなのか
日々見過ごされる悪は何なのか
そう感じた。
それぞれの立場が明確に描かれていて
加害者の母親がスカーフを取り出すところ、
被害者のお父さんがご遺体のカバーを直すところや夫婦のケンカ、
イカの目だったり、
運転手さんの言葉だったり、そのあと頭をさげるおばあさんだったり
なんか細かい所に手が届くな
最後、殺そうとした意味はわからないけど
やはり犯人に感情移入しちゃうよね
置いてかれたと思った灯台で
母と同じで自分は捨てられたと思っただろう犯人が
帰ってくる恋人を見たときのシーンが良かったし
すごく泣かされた
あと静かな音楽もgood!
個人的にはかなり面白かったです。 原作との尺の違いは感じましたが、見応えはありました。 役者陣の演技も素晴らしかったです。
十分に面白かったです。
とはいえ、原作を読んでいる人間からすると、祐一が悪人なのか?という所がどう描かれるか?が一番のポイントだったかと思います。
その選択を一気に迫られるラスト。
残念ながら原作ほどの衝撃は感じなかったです。
エピソードとして、祐一が光代と出会う前に通い詰めた風俗嬢との再会シーンを省略してしまったことが気になりました。
彼女の証言から出る、無口な祐一が悪人を演じることで相手を庇う姿や、朴訥とした性格など、原作ではそこから祐一の人間性や、自分に負い目を持つ相手に対して敢えて自分が悪人の汚名を被って相手を守ろうとする優しさを描いていたように思います。
そういった意味では本と映画での尺の違いをクリアできなかったのかな?と思いつつも、もしかしたらラストまでその迷いを受け手に与えない為に敢えて映画から外したのか??とも思い、この部分は意見の分かれる所ではないかと思います。
原作を読んだ上とは言え、個人的にはラストで祐一が光代の首を絞めるのは、駆けつけた警察に対して、光代は自分を匿った人間ではなく、自分が誘拐した人間であることを見せつける為だと思っています。
それは、警察に対してだけではなく、光代自身にもそう信じさせて、自分が居なくなった後に完全に自分を恨むように仕向ける一つの優しさだと思いました。
だからこそ、ラストでの豹変ぶりで一気にその思いをぶつけて欲しかったのだけれど。
意を決した祐一の流暢な喋り口と狂気の表情はなかなかのいい演技だったとは思いながらも、やっぱり原作程の衝撃は感じなかったです。
モントリオール映画祭で最優秀女優賞を受賞した深津絵里の演技は素晴らしい物でした。
自分にも他人にも真面目過ぎて、人との踏み込んだ接し方が出来ずにどこか自信が無い雰囲気。
そういった女性が自分を受け入れてくれる男性を見付け、また秘密を共有することで、何処までも尽くしてしまう姿をしっかりと演じていました。
光代のように常識に満ちた真っ当な女性というのは身近に思い当たる人がいますが、彼女ののめり込む姿が浮かんでしまい、のめり込むほどに危うさを感じてヒヤヒヤとしながら観ていました。
他にも演技力に一定の評価のある役者を並べたこともあって、見応えのある演技にも圧倒される映画でした。
祐一の祖母の樹木希林、その祖母をだます松尾スズキ等。
個人的にはバスの運転手を演じたモロ師岡は小さな役どころながら、強烈に印象の残る演技だったと思います。
いつも観るのは途中まで
こういうストーリー大好きなので定期的に観たくなる映画です。
でも観るのはいつも3/4くらいまで。
なんとなく、その辺りから展開知ってるしもういいや、ってなります。
ただそこまでは面白いので、定期的に観たくなる映画。
灯台あたりのシーンはカットしてもう少し短くしても良かったと個人的には感じてます。
シリアスな中でも、真実の愛を求めた映画
「フラガール」の監督の李相日が手掛けた、ミステリーヒューマンドラマです!
ロケ地は福岡、佐賀、長崎の九州3県で行われたそうです。
リアリティ過ぎる内容はとても、他人事とは思えませんでした!
【”悪人世機” 人間の善性と悪性の狭間で生きる愚かしくも寂しき男女の姿を描いた作品。観る側に深遠な命題を問いかけてくる作品でもある。】
■感想
・登場人物のほぼ全てが、バランスの差異はあれど、”悪人”であり、”善人”である。
ー但し、湯布院の老舗旅館のバカ息子圭吾(岡田将生)だけは、善性が限りなき薄き、悪人であると思う。ー
・思いを寄せていた佳乃(満島ひかり:軽佻浮薄な女を好演している。)から侮蔑的な言葉を投げつけられた孤独で、閉塞感を抱える日々を過ごす祐一(妻夫木聡)が、咄嗟に起こしてしまった事。
ー佳乃の”悪性”が描かれる。そして、そんな女性に育てた両親(柄本明、宮崎美子)の責任。では、祐一に悪性はないのか・・。彼を育てた祖母(樹木希林)の”人を容易に信じてしまう姿が、印象的である。ー
・祐一と光代(深津絵里)が、お互いに惹かれた理由は明白で、”孤独で、閉塞感を抱える日々を過ごす”者だからである。
ー二人が、お互いを慰めるように、貪るように行う性愛行為・・。ー
・佳乃の父(柄本明)が、執拗に圭吾に詰め寄るのは、彼が誰が本当の悪人であるかを父親としての本能で察したからであろう。
ー 佳乃の父が呟く言葉が心に響く。
”今の世の中、大切なひとのおらん人が多すぎる・・”
この言葉が、この作品の根底を支えている。ー
<”人間の善性と悪性とは、何か・・”という哲学的な命題を観る側に突きつけてくる作品。重いテーマを真正面から取り扱った重厚な作品でもある。>
「悪人」そして「愚行録」と。
まあまあ暗い気もちになる映画だけど、評価は4です。
殺人事件を通じて、男女関係を通じて、加害者、被害者、登場する人々の様々な心情を生々しく描いた映画である。
映画「愚行録」を一ヶ月前にみたが、この映画「悪人」での演技もあっての愚行録だったのかなあ。妻夫木聡は、まあすごい俳優だ。
しかし、満島ひかりは、またまた幸薄い役柄で出演している。彼女はどうか明るい役柄も与えてもらえないか。心配になる。
殺人は絶対的な悪である。
祐一(妻夫木聡)の育った環境や、それまでの人生は決して、恵まれたものではなかったかもしれない。しかし、なぜ殺人を思いとどまる事ができなかったのだろう。
しかし、満島ひかりに侮辱され、レイフされたと嘘ついて訴えると言われ、逆上して、彼女の首を締めてしまった。
確かに祐一は、悪い人間とは言い切れない。父の病院に連添い、祖母と温かな会話を交わしながら細々と暮らしていた優しい青年ではなかったのか。
後半で話されるが、幼少期の体験から自分の言った言葉なんて信じてもらえないと彼は思い込んでいた。人を信じる事ができない。冤罪を恐れ恐怖し混乱に至っての行動だったのかもしれない。衝動性は誰にでもあり、怖いなと感じる。
もっと早く光代(深津絵里)に出会えていたら、劇中にある言葉の通りなんだがなあ。
一方で岡田将生の役柄は醜い。
まだ学生にして、人を使い捨てにしか考えないような人間。娘を殺され柄本明が、なぜ車から下ろし置き去りにした!と詰め寄るシーン。この悲痛な叫びにすら何の感情も動かさない。人の子として、生まれてきたのに、彼の人間性はどうやって形成されたのだろう。
最後のシーン。
なぜか、本当に自分の人生を捨ててまで、祐一を信じて愛した光代の首を、祐一は締める。俺はあんたが思ってるようないい人間じゃない。謎だった。
祐一は、祐一を誘い逃亡してしまった光代に罪が及ぶことを恐れ、自分が連れ回して殺そうとしたという事実を作りたかったのだろうか。本当に殺す気があったのか?
ないよね?意味わかんないし。僕にはこの謎がわかりませんでした。
また昨今の世情を考えてみる。恋愛というか男女の関係において、いや社会の仕組みもそうなってきている、人を自分の道具にしか思わない人間が増えているのではないかと思わされる。悲しい現実だ。
昔々見た映画「静かな生活」の中で、人は人の道具ではない。その言葉を聞いた時にググッと気持ちを揺さぶられた思いを思い返す。
満島ひかりも、被害者ではあるが、祐一を道具としてしか見ておらず、皮肉な事にその満島ひかりも岡田将生に道具のようにしか扱われなかった。山中の路上に放置するなど物いがいの何ものでもないだろう。
人間は物ではない。
考えさせられる映画のひとつだろう。
満島ひかり
支持。
満島ひかりの私的ベストアクト。
駄目で陰気で残酷で卑屈で弱い。
でも殺されていいとは思えない極々普通の女。
このキャラ造型が本作の肝。
その他役者全員が儲け役。
逃避行ゆえ暫く洗髪していない風の深津絵里の色気。
弱さと強さ
終盤に発せられる柄本明のセリフが全てを物語っているようだった。
弱さに見えることが強さをもたらしたり、強さと見えるものが本当は弱さだったり。
裏と表とが切り離せない人の心を描写するストーリー構成はやっぱり上手だと思ったけど、
さすがに10年以上前の作品だと古さを感じるシーンもちらほら。
前に見たときの感想はヨシノへの嫌悪感だけ覚えてて
「怒り」が良かったもんで再鑑賞したけど、ちょっと古臭さが目に付いちゃった。
ちょっと冗長すぎるし感傷的すぎると感じた部分が多くて、僕としてはこの評価。
特にイカの目玉の中で始まる回想シーンはちょっと笑ってしまった。
もちろん笑うとこじゃないんだけども。
音楽が沁み入ります
どこか昭和を感じさせるムードのある、愛についてしっかりと語っていながら、哀愁で包み込んだ映画。
台詞や展開はそう多くないのに、気がつくと妻夫木くん演じる祐一の心の純粋さを私たちも知っていて、そして岡田将生はこんなにも悪人然としている。
自分のことを全部包み込んで受け入れてくれる・幸せを願ってくれる人の存在を、側で感じられることによって、自分にも大切な人ができていく心の移り変わる様
大切な人がいるだけで行動力に繋がっていく登場人物それぞれの決意の瞬間
そういったものが、うまく切り取られた風景や灯台からの朝焼け、さらには私たちに乗り移った感傷や悲哀を撫でるように染み入ってくる挿入音楽によって、非常にまとまりよく描写されていました。
エンドロールを見たら久石譲さんだったので、なるほどやっぱりなと思いました。
佐賀在住なので、親近感。引き込まれました。
佐賀市在住なので、ロケ地が身近に感じました。
役者の演技は本当に素晴らしかった。すごく引き込まれました。
私には小学生の娘がおり、軽い女性にはなって欲しくないし、
3人の女友達が、その場に居ない人に陰口をするという、女性に多いのかなぁ。。。怖くなりました。
どの人を指して悪人と言っているのか?
いや、どんな人にも悪人といえる一面を持っている、ということか。
正直者が馬鹿を見る時代と言われて久しいが、とはいえ虚像ではありたくない。
自分自身、家族に置き換えて、すごく考えさせられました。
愛されたかっただけなのに。
ずっと見たいと思っていたまま、10年が経過していた。スマホ普及による凄まじい情報化社会になる、移行時期、境目時期にある2010年だったと記憶している。
作中でも折りたたみ携帯電話やメールでのやり取りが出会い系に使われていて、今やアプリで出会った人との結婚も主流になりつつある時代。背景がよく見えない相手との出会い方に疑問を抱く意見は今後も消し去られる事はないだろうが、顔がわかる合コンやナンパで出会ってもクズはいる。
出会い方や出会う数や相手のステータスより、出会った縁をどれだけ大切にできるか、人の気持ちを見つめ尊重できるか、が結局自らをも温めてくれることがよくわかる作品。
台詞が少なくても演技で伝わってくる俳優さんばかり。
満島ひかり演じる佳乃が自分で撒いた種なのは否めないが、実家の床屋を抜け出す人生を踏み出すために、久留米で一人暮らしを始め、孤独を感じる中ナンパしてきた大学生の増尾に入れ込んでしまったのは、深津絵里演じる光代が、佐賀の国道沿いに人生が集約されているところから裕一と出会い違う世界を知り人を好きになり、大胆な逃避行を選んだのと気持ち的には変わらない。
妻夫木聡演じる祐一に対してや家族への振る舞いを比べれば、佳乃は利己的で光代は優しく包容力と見えるが、見栄を張ったり利己的な嘘をつくかどうかの違いだけなことに気付く。
肉体労働でもいつも長崎から久留米まで来てくれた妻夫木聡演じる祐一は言葉数が少なくても佳乃をちゃんと愛してくれていたのに、裏切り、母親から置き去りにされた過去を持つ祐一を捨てるような言葉を吐いて傷つけ、まさおに振られひどい仕打ちを受けた腹いせに、祐一をレイプ犯に仕立て上げるとまで罵った佳乃の言動は簡単に許される物ではない。友達といても見栄を張り嘘をつき、保険の仕事に協力もしてくれているお父さんをも社会人にもなって都合よくあしらう佳乃。
それでも、亡くなれば悲しむ両親はいるわけで、人間誰かしらが誰かの幸せを願っている。増尾のように、そういった事すらわからず、軽んじて大きな顔をする者はやはり嫌なやつである。常に周りに友人や女性がいて軽口をたたくには事欠かないが、中身薄。
一方、地域の老人や祖父の病院通いを献身的に助け、無口で決して派手ではないが優しい若者だった祐一。車が好きで同世代という点以外、増尾とは正反対だが、両親が大切に想っている佳乃の命を奪ってしまったのは祐一。
「世の中、大切な人すらいない人間が最近多い。
失う物がないから、強いかのように振る舞うが、人間そういうものではない。」
そう話す、娘を失った悲しみの淵にいながらも、娘の欠点にも気付いていた父親の言葉は重く沁みる。それでも、娘を失えば仇を打ちたい怒りにとらわれ、理性で必死に制御する悔いと取り返しのつかない悔しさと、やり場のない怒り、思い知らせたい怒りと葛藤する、柄本明演じる父親役がとても印象に残った。
佳乃も祐一も光代も、愛を求めて必死に生きて前に進もうとしていただけなのに。嘲笑う増尾でさえ、奥底には孤独があり、取り繕った強さなことが露見される。
被害者の父親と、加害者を育てた樹木希林演じる祖母という2人の間にも、大切に育ててきた子で良いところも沢山ある子とわかっているのに、何を間違えてこうなったのかという自責の念が共通していると思う。
途中まで、悪い事はしていないと思っていた祐一は歌舞伎なら正義を示す赤を着ているが、途中、自分の罪を自覚し後悔にかられてからは悪人の青に変わる。祐一を守っているかのように見える光代が赤を着始めるが、光代との幸せを台無しにした後悔と殺人の悔いに苛まれ、祐一を苦しませているのは光代でもある。でも、所謂殺人犯なんだから、俺は悪いんだ。祐一がそう言いたいかのように、光代の首を絞めるラストシーンは、光代に何も背負わせず祐一を悪者として忘れる事で幸せになってほしいという、去り際の祐一の九州男児としての男気を感じる。祐一の過去を知り、もう一度灯台に置き去りにさせたくないと、一度交番に匿われても抜け出して灯台にどうにか戻ってくる光代に、祐一はやっと見つけた愛の喜びと共に、佳乃から何を奪ってしまったのかもよくわかるようになっただろう。
何にも巻き込まれない保証は全くないけれど、本物の愛に出会える事だって出会い系はあるようだ。辛い思い出の場でもあるが裕一と光代の思い出の場でもある灯台を訪れた2人の瞳はキラキラしているし、会って話し身体を重ねる2人はとても美しかった。
先に光代に出会えていれば。
でも、佳乃への誠意を通したがために、踏み外した祐一。満島ひかりを殺めた翌朝の解体現場でも、祐一の瞳は澄んでキラキラとしていて、佳乃も祐一も増尾も、まだ未来ある若者が、未熟者がゆえ、人の心を踏みにじったり、取り返しのつかない行為をして仇となる、非常に惜しい気持ちになる作品。
「お前は悪くなか」作中何度も出てくる言葉。
仮に結果に対して何らかの関わりがあったり、何らかの非はあったのだとしても、自分を責めていたとしても、責任を背負う立場ではなかったりする。
みんなが悪人要素はあって、そうやって社会的に犯罪者迄にはならない悪人もいるが、殺めてしまえばどんなに良いところがあっても悪人。作中の本当の悪人は、無責任に祐一を取り残して育てず、事件後平然と現れて文句を言う母親のように思えてならないが。
そういう人ほど自覚なし。
その人が本当は悪人でないと知っていても、世間から見たら殺人犯。祐一に初任給で買って貰った大切な巻き物と共に、孫を守りたい気持ちを断ち切り、実際に被害者がいる現実と向き合う覚悟を表すかのように、事件現場に結ばれた祖母の巻き物に心が苦しくなる。
どんなに愛した人でも、鉢合わせた被害者の父親の気持ち、世間の声を考慮すれば、被害者に加害者側が今花を手向けるのは勝手にあたると遠慮し、相反する気持ちと向き合う光代。どちらも、「お前は悪くなか」と声をかけられた事で、現実と向き合う強さが出た部分もあるのかもしれない。
口は災いのもと。言葉は罵るよりも、誰かを軽くするために使いたい物である。
悪人は誰なのか
人間は寂しさ、孤独さとかを紛らわしたいと思った時大切な人を求む。
大切な人を守るのも必死になる。
悪人は誰なのかて見終わった後考えたら、
人を殺してしまった人、殺人犯の親、被害者、殺人犯を愛した人、子供を捨てた親、他人のことを笑って過ごしている人、これは最後まで見れば誰が悪人か分からなくなった。
もちろん殺人犯が悪いってなるだろう。けどそう言う人間にしてしまった捨てた親もどうかとおもう。たどればたどるほど悪人は多く見当たるのかもしれない。
この世界は悪人が多い。悪いことをしたことある人なんてほとんどだと思う。
この作品は今この世界の暗闇の触れていなかったとこを知れて日常見てみぬふりをして過ごしていた部分が胸に刺さる。
樹木希林さんと柄本明さんの演技には圧倒された。記者を目の前にした時のあの心を殺した表情。笑って馬鹿にする男を目の前に足、手が出る時のあの怒りの表情。この二方の演技が特に印象的だった。
この作品で出会い系サイトでの恐怖が伝わった。
とにかく色々考えさせられた。
蛮の気配
むかしスカウスを知ったとき、これはルー入れるまえのカレーだなとおもいながら、よくつくって食べた。その認識が正しいか間違っているか、どっちでもいいが、料理は、なにかをつくろうとしている行程から、いろいろなものに化ける。
近年の日本映画に、韓国映画の影響を感じる。ほとんど潮流であろう。
日本映画とは、半世紀変わらない昭和四畳半の世界なのだが、そこへ韓国映画風の非情、底辺のリアリズム、生々しい表現が加わって、潮流となった。今、ポルノ出身の長老も、鬼才系も、みんな韓国映画の影響下にいる。
それを先導したのは李相日だと思う。きっかけはスクラップヘブンと悪人だった。とりわけ悪人がその後の日本映画に及ばした影響は大きい。──と思う。
ただし、李相日監督自身は、韓国映画に影響をうけた、というより、在日朝鮮人の出自にもとづく独自路線を歩んできたひとだった。
悪人を見たとき感じたのは、まさに血はあらそえないということだ。日本人にはない、大陸へつながっている蛮の気配──なんと言ったらいいかわからないが、荒々しさが、たしかに、そこにあった。チェイサーのナホンジンとまるで兄弟のように近い蛮があった。
すなわち、それは韓国映画の影響下にある李相日ではなくて、生粋の李相日という映画だった。
ゆえに、日本映画が影響をうけたのは、韓国映画というより李相日映画──なのかもしれない。
個人的には、李監督が、こんにちの日本映画の潮流をつくったとみている。なぜなら、この映画の公開2010年は、日本映画に韓国風味が加わった頃合いと一致するからだ。そこでルーを入れた──わけである。
スカウスはルーを入れたらカレーになるし、こんにゃくを入れたら肉じゃがになるし、デミグラスソースを入れたら、ビーフシチューにもなるだろう。むろん、料理に厳格なひとや、神経質なひとにとってみれば、そんなものは邪道だが、遠からぬものはできるし、ぜんぜん食べられる。
ところが映画は、そうはいかない。今、日本映画は、李相日監督の2010年の映画「悪人」に感化された映画だらけである。日本映画のつくり手たちは、おそらく、その説を否定して、内在的なものの発露によって、今のわたしの映画がある──と主張するのかもしれないが、観衆にとって、いや、すくなくともわたしにとって、こんにち、悪人の影響を感じない鬼才系映画はない。
そこで、日本映画に言いたいのは「なんか投入したら、なんかできるだろう」みたいな、ひとり暮らしの食事みたいな調理方法じゃ、結果的になんにもできない──ってことである。
悪人は、もっと深いところ、血脈から生まれ出ているのであって、そんな魂みたいなものを模倣することじたいが、間違いなのである。
悪人には、吉田修一の翻案力もあった。
李監督は吉田修一を李相日風味で、迫力ある人間ドラマに仕上げている。たとえば松本清張を誰が映像化しても、それは松本清張である。見終わって、え、これ原作松本清張だったの、ということは、ほとんどない──わけである。
もちろんこの映画の原作が吉田修一であることは疑いの余地がないが、なんというか吉田修一に加えて、いわば大陸的な蛮の気配──やはりなんと言ったらいいかわからないが、狂おしい情念のようなものが、映画にはあった。
おなじ吉田修一のさよなら渓谷を見ると、描き手の巧拙がはっきりとわかる。
全195件中、21~40件目を表示