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映画「MW ムウ」は原作の内容とどれくらい違いますか?
質問日時: 2009/08/05 06:45:41
解決日時: 2009/08/19 19:20:50
【ネタバレ】になってしまいますが、それでよければ下をお読みください。1)主人公ふたりの名前(ただし、賀来の下の名前は違う)2)ふたりが過去にある島で、毒ガス兵器の漏洩事故に巻き込まれ、日本政府がひた隠しにした住民虐殺の事実を知っていること3)賀来は神父4)結城が連続して凶悪犯罪を犯し、賀来はそれを警察に知らせない5)結城は毒ガスの後遺症に苦しんでいる6)島に毒ガスを探しにいって、ヘリコプターから攻撃される7)結城は、東京にある某国軍基地に潜入し将軍を人質にする8)結城は飛行機で逃走を図り、賀来は毒ガスと飛び降りて死ぬ同じ点は、これぐらいでは(こまかなところはまだあったかも知れないが)?実は違うところが多いと思います。ストーリーでも作品が目指したところでも。上に挙げた点でも細部は違っているところが多い。なによりも、「最大の問題作」といわれた本当の要素は、なにひとつ映画に盛り込まれていません。これで「問題作の映画化」といえるのかどうか?原作では、結城は、悪と背徳の象徴です。映画レヴューその他をみると、結城と賀来の同性愛の関係ばかりいわれていますが、原作の結城は他にも背徳的なことをいろいろとやっています。たとえば、女装(これだけなら別に犯罪ではないでしょうが)を得意とする結城の両性具有のイメージは、悪魔が男にも女にも化身して人をたぶらかすイメージといえましょう。「罪と罰」とかいうレベルの話ではなく、存在そのものが「悪」であり、人間が自然に備えているようなレベルの道徳すらもすべて踏みにじる存在。映画は、結城に「復讐」などともっともらしい動機を与えているようにみえますが、そんなものではない。手塚先生には、シェークスピアの「リチャード三世」に言及した文章があったはずですが、この作品の主人公は、シェークスピアのリチャード三世に同じく、「バンパイヤ」にでてくる間久部緑郎や、「アラバスター」にでてくるアラバスターやロックなどと同じく、「悪」そのものについて追求しようとしたキャラクターという印象があります。一方、賀来も、単純な「善」とはいえません。そんな結城との関係を切れないわけですから。しかし、彼は悩み苦しみながら、結城との対決と、自らを犠牲にしてMWを無力化する。善と悪とに引き裂かれる人間そのものを代表しているといえるように思えます。なのに映画は、サイコキラー的な犯人を追うアクション映画的な面を強くだしてしまった。わたしには別モノって感じですね。
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