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映画「椿三十郎」の黒澤明監督による作品と、一昨年、リメイクされた作品の両方をご覧になった方、ご感想をお聞かせ下さいませ。私は、かなり昔、国際航空機内で初めて、黒澤明監督の手による作品を観ました。その時、背筋にゾクッとする衝撃、感動そして面白さを堪能しました。その後、何年か経ってから、DVDで同じ作品を観ましたが、背筋にゾワッと来る衝撃、面白さ、感動に変わりは有りませんでした。そして、一昨年度、オリジナルとほとんど同じ脚本、演出で、「椿三十郎」がリメイクされた、と聞き、こちらもDVDで観ましたが・・・確かにオリジナルそっくりにリメイクされてはいましたが、「何か、軽い」ように感じました。確かに、オリジナル作品には、今は大御所になっておられる俳優さん達の、自分が知らない、「若かりし頃」が映し出されていて楽しめた、と言う「付加価値」が有るのかも知れません。しかしながら、三船敏郎さんと仲代達也さんの迫力が、織田裕二さんと豊川悦司には足り無いような感想を覚えました。織田裕二さんも豊川悦司さんも、大好きな俳優さんですが、何かが軽いような・・・。特にラスト、あれは、モノクロで無いといけないし、カラーで再現すると、少々問題が有るとは思いますが、それを差し引いても・・・やはり「重厚さが足り無い」ように感じました。皆さんは、どう、感じられましたか、感想をお聞かせ下さいませ。
質問日時: 2009/09/19 00:10:24
解決日時: 2009/10/03 19:57:44
わたしは、あの脚本は、家老の奥方のセリフにあるように、椿三十郎が一見むさくるしくてぐうたらで愛嬌もあるようにみえても、実はその本質は「抜き身の刀」であることによって、いろいろな部分がおさまるべきところにおさまるように組み立てられていたと思うのです。そして、原作になった山本周五郎の「日日平安」では、ラストで主人公はあの藩に仕官する、抜け目のない男という印象ですが、映画ではご存知のとおり、家老は三十郎は”藩で宮仕えする”という枠におさまらない人間であると見抜いて、彼が去るだろうと思っているし、またそうなることを望んでもいます。三十郎自身もそれを自覚しているから去っていく。つまり、原作から離れて脚本段階であえてそういうことを強調しているんですね。策士・室戸半兵衛があっさり三十郎にだまされてしまうのも、彼を自分と同類だと考えたからでしょう。そう考えると、三船敏郎の三十郎は、「抜き身の刀」という形容に違わず、”殺すしかない場合には、逃げようとして背をみせた門番すら後ろから斬り殺す”、必要なら殺戮者にもなる非情さと迫力をもっていました(ただし、それによってその事態をもたらした若侍たちの軽率さが浮き彫りになる)。半兵衛との決闘におけるあのすさまじい血しぶきも、三十郎のもつもうひとつの面を象徴しているといえます。これに対して、織田クンの場合は愛嬌はあるものの(むさくるしさやぐうたらさは今ひとつだったかな)、迫力では三船敏郎に及ぶべくもないと思われたのか、殺陣のシーンでも転がりまわりながらひとりずつ斬っていくものの、”殺される側”の描写(恐怖・おびえ)があまりなく、殺戮という印象が弱まってしまっていました。半兵衛との決闘は、半兵衛と似たもの同士ということを駆け引きのアクションでみせたわけですが(そういう意味では森田監督もそのことを軽視していたわけではない)、やはり迫力で及ばないことを補うための苦肉の策でしかなかったという印象です。つまり、三船敏郎はその存在感によって、三十郎の本質は「抜き身の刀」であるということに説得力をもたせられましたが、織田クン主演の映画では、そのことがセリフとしては受け継がれたけど、映像的にそれを裏打ちする部分が足りなかったということになるのかな? などと思っております。
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