チェド

劇場公開日:

解説

17世紀の西アフリカを舞台に、イスラム教支配に抵抗する民衆の姿を描く。製作はポーラン・スマヌー・ヴィエイラ、監督・脚本は「エミタイ」のウスマン・センベーヌ、撮影はジョルジュ・カリスタンとオリアンド・ロペスの共同、音楽はマヌ・ディバンゴが担当。出演はタバラ・ンディアイユほか。

1976年製作/セネガル
原題:Ceddo
配給:岩波ホール
劇場公開日:1989年8月12日

ストーリー

17世紀頃、西アフリカのある王国では、政治的陰謀を持つイスラム教導師(アリウンヌ・ファル)により、人々は次々と改宗させられ王国の伝統は失墜していた。そんなある日王国を憂い、イスラム化に反対し伝統を守ろうとするチェド(非改宗者)の若者(ママドゥ・ンディアイユ・ディアニュ)が、王国のディオル姫(タバラ・ンディアイユ)を誘拐する事件が起きた。王(マホレディア・ゲイ)はチェドたちに、罰として貢ぎ物の薪を運ばせるが、チェドの代表ジョゴマイ(ウスマン・カマラ)は、イスラム化した権力に対して服従を拒否することを表明する。姫の救出と王の後継者をめぐり、王の息子ビラムと王国の勇者サヘワール(ママドゥ・ナール・セン)が対立していたが、そんな中で王の甥でかつての姫の婚約者マディオル(ムスタファ・ヤッド)は、王を非難し、先祖からの服装を再び身につけるのだった。そしてビラムとサヘワールは姫を救出するために出発するが、相次いでチェドの若者に倒され、二人の死は王を孤立させることになり、側近たちは導師を後継者として認めるようになった。さらにチェドの蜂起を知った導師は、チェドたちを捕え家々に火を放つと同時に、騒乱の中で王とキリスト教伝道者(ピエール・オルマ)を暗殺し、権力を手中にする。翌日捕えられたチェドたちは一人一人強制的に改宗させられ、一方王の側近たちは排斥されるのだった。その頃誘拐されたディオル姫はチェドの若者に深い愛情と敬意を抱くようになっていたが、彼もまた導師の部下によって殺される。そして姫はチェドたちとともにイスラム教徒の策謀に立ち上がり、ついに導師を倒し、王国を民衆の手で握ることに成功するのだった。

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映画レビュー

3.0鼓動するアフリカ

2022年2月21日
iPhoneアプリから投稿

強制的なイスラム主義化によって村落を支配しようとする西洋人と、その圧政に立ち向かう反逆者(チェド)たちの物語。

イスラム宣教師たちはコーランを暗誦させたり焼きごてで黒人たちの足にイスラム教徒の印を刻みつけたりと悪逆非道の限りを尽くすんだけど、それによって黒人の村人たちの精神性が根本的に毀損されているかといえばそんな感じはしない。

たぶん村人たちにはイスラム教の厳格な教義さえ凌駕するような別の規範意識が備わっているのだと思う。たとえば冒頭で王の娘がチェドたちに誘拐されるシーン。王たちはすぐさま刺客を派遣すればいいものを、村中の人々を集めて緊急協議を開く。

この協議もしっちゃかめっちゃかの大激論というよりは法廷上のディベートに近い。各々が各々の見地から各々の意見を述べる。もっとすごいのは奴隷たちが薪を頭に載せたままじっと協議に耳を傾けているところ。誰一人として逃げ出さない。私なら絶対逃げちゃうと思う。

たぶんそこにはイスラム教以上に彼らを強く縛り付ける何らかの共通観念が存在している。

本作は基本的にきわめて緩慢なトーンで物語が進行していくため、はっきり言って退屈だ。しかしその退屈さにはちゃんと力強さがある。そこには一般的な映画の法則すら貫通する村人たちの規範意識が顕れている。

安易なオリエンタリズムは避けるべきだということは重々承知の上で、私は本作から強烈に漂うアフリカ文化の鼓動を感じずにはいられなかった。

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