わが道

劇場公開日:

解説

青森出身の出稼者が東京で行き倒れ、身元不明人として勝手に医大の解剖実験材料にされた事件の裁判闘争記録「ある告発--出稼ぎ裁判の記録」(佐藤不器、風見透編者)の映画化である。脚本・監督は「心」の新藤兼人、撮影も同作の黒田清巳がそれぞれ担当。(ワイド・フジカラー)

1974年製作/130分/日本
原題:My Way
配給:その他
劇場公開日:1974年9月7日

ストーリー

青森・十和田の寒村。夫の出稼ぎ中に不貞に走った妻、火事を起こした際、わが子より先に大金で買った牛を救出した主婦、母とともに売春する中学生の女の子、等々出稼ぎ者の留守に起こる悲劇はあとをたたない…。河村ミノもその一人である。昭和41年10月9日朝、ミノの夫、河村芳造(当時64歳)は、出稼ぎ先の東京・品川区東大井の通称“産業道路”上にホウキを持った作業服姿にヘルメットをかぶり倒れていた。発見した通行人の連絡ですぐ京浜中央病院に運ばれた。栄養失調と過労による肺炎と診断された芳造は牛乳とパンを食べた。この日は休日で、病院には完全看護の体制がないという理由で、午後11時頃、芳造は都立民生病院に移されたが、間もなく午前3時急死した。死因は「冠状動脈硬化症」ということだった。すっかりとだえた音信に身の上を案じたミノは、十和田警察署に家出人捜索願いを出した。42年7月5日、ミノは十和田署で行き倒れで死んだ人の写真帳の中に、夫の顔を見つけた。夫が死亡して九ヵ月目に、ミノは上京した。遺体はお骨にして届ける、という慈恵医大に対して、ミノは即刻遺体引き渡しを要求した。医大側はあわてて遺体を渡したが、それは原形をとどめないひどいものであった…。夫のふにおちない行方不明、名前を名乗り身元を証明する所持品を持っていたにもかかわらず、おざなりに扱われたミノの怒り。やがてミノは、国民救援会十和田支部の斎藤に事情を訴え、二ヵ月後、再び上京して事件を扱った大井警察署、港区役所を訪ね疑問を一つ一つ聞いていったが、関係官庁の不誠実な仕うちだけが返ってきた・昭和44年7月15日、ミノは東京地裁民事三五部に、国、東京都、港区、青森県を相手どって慰謝料百万円を請求する訴訟を起こした。十和田の国民救援会、青年法律家協会の若手弁護士の並々ならぬ支援があった。国民の権利を保障する憲法が、それを最も尊重し、擁護する義務を有する政府及び公務員によって無視された実態を、一出稼ぎ労働者の妻が告発した、いわゆる出稼ぎ憲法裁判であった。法廷で裁判が進むにつれ、関係諸官庁の不誠意は次々と明るみに出された。やがてミノの闘争は、全国二百万人の出稼ぎ労働者と、その家族の生命と人権を守るための闘争へと拡大していった。「河村ミノさんを守る会」の支援も大きな力になった。昭和46年12月13日、裁判は勝利した。ミノの執念が、国を相手どって勝ったのだ。

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