火垂るの墓(1988)のレビュー・感想・評価
全46件中、1~20件目を表示
野坂昭如の 自己告発
あまりに辛すぎると
まるで他人事のように自分のやった事を語ったりする。
極限状態での精神の安全装置が働くからだ。
昨年、NHKラジオ深夜便で「戦争童話集」の朗読がずっと続いていた。
「火垂るの墓」は野坂昭如の実体験を元にするこの戦争童話集からの一編なのだが。
自分がどんなに駄目な人間で、
妹が死ぬなりしてくれて野坂の目の前からいなくなってくれれば楽なのにと考えていた人間で、
妹はその願い通りに死んで、
面倒な足手まといの存在は消えた。
童話の中では清太も死んだことにしてしまったけれど、
死ぬべき自分はこうして生きて、嘘の童話なぞ書いている
その自分を誰がどう思おうと糾弾するためのメモ。判決文。
それが火垂るの墓の原作だ。
誰かの手によってアニメーションや、戯曲になっても
それは違うと言い続け
自分は嘘をついているのだと死ぬまで自らを呪詛し続けた野坂昭如は、
2015年12月8日に、ようやく辛い体験から済われて死んだ。
自殺をしないことが自分自身への終身刑だったのかもしれないなぁ・・
野坂が亡くなったとき、訃報を聞いてそう思った。
お疲れ様でした
合掌
やっと観た・・・ 晴太よ、他の生き方はなかったのか?
節子の死ぬシーンで号泣、嗚咽、涙腺崩壊。その後はずっと最後まで涙。
それまでは戦争の怖さも余り伝わらず、節子のかわいさとなんか回りを余り顧みない晴太の態度に「かわいそうやけれどちょっとなあ?」とどちらかというと前評判ほどではないなあと感じた。
ただ、親戚のおばさんちを出て2人で生活するようになってから少しずつ変わりはじめ悲劇に繋がっていく。
妹を思う気持ちとおばさんの冷たさや医者のものぐさの温度差がだんだんこちらもつらくなってくる。
戦争が色んなものを奪っていったことだけは伝わる。
節子の人生は何やったんや?!晴太の人生は何やったんや?!
戦争にはいっぱいいっぱい哀しい物語が存在していてこの物語もその一つにしか過ぎない。
それがわかっていても世界中のどこかで今も戦争している。
日本も防衛費を増強しようとしている。
その費用を戦争を起こらせない事につかえないのだろうか?
この映画はそんなことも思わせてくれる。
他の方のレビューを読みながらまた涙している自分がいる・・・
余談ではあるがビルマの竪琴で出てきた「埴生の宿」がなぜかこの映画でも出てきた。
火垂るって火が垂れ下がるたから、焼夷弾。
単純に見れば、関西の人々に対するディスリになる。単純ににそう言った意味ではないと思う。
このアニメはあまりに辛辣な表現を理由に、色々な解釈が生まれているようだが、間違っては駄目なのは、単純な反戦アニメではないと言う事だ。
このアニメで泣いては駄目だ。
『禁じられた遊び』と同じで、女性を助けられない男性の判断ミスだと理解べきだ。どちらの映画の男性も『傍らの女性を慰める位の手立て』しか取る事が出来ず、大事な女性を無くしてしまう。その『悔やみ』だと私は理解している。原作者、自らの妹に対する『贖罪』と言った解説があるようなので、間違いないと思う。
プライドとか差別にも負けずに狡猾に生き抜かねばならない。自己以外は自分が生き抜くためには、足手まといになる事もある。そう言った一時の感情に流されない者が生き抜く事が出来る。
私の父が東京大空襲の後、小岩から尾久の機関区へ行く為に、上野の浅草口のスロープを歩いたそうである。言うまでもなく、両側には死んでいるのか生きているのか分からない者が沢山いたそうである。勿論、何も手助けなどは出来なかったらしい。(因みに親父は14歳から仕事にありついていたそうだ)
さて、その数年前まで、親父家族は江東区(当時は城東区)南砂町で生活していたそうで、東京大空襲の時に、同級生の多くが亡くなったそうである。親父はいつも言っていた。
『小岩へ引っ越したのは正解だなぁ。親父(祖父)凄いよ』親父の口癖が『狡猾に生きろ』だった。自ら不要な問題を沢山抱えて、親父が狡猾かとうかは問題外。
親父のこのアニメに対する感想は『関西の人々は気が強いからなぁ。妹が亡くなった奴らは、この頃は沢山いた。気を落とさず生きなきゃ』だった。勿論、僕はそう見ていないが。
その時、話してくれたのが、浅草口のスロープの話である。
『たぶん、彼らも死んじまっただろうな。でも『本土決戦』なんて無くて良かったなぁ』だった。
悲しすぎて背を向けたくなる映画ではある。 そんなメッセージ性のある...
悲しすぎて背を向けたくなる映画ではある。
そんなメッセージ性のある映画を残した高畑勲はやはりすごいと思う。
嫌な大人も出てくるけど、皆生きるために必死だという時代背景。どうしようもない現実。
ずっと平和であってほしいと願うお話。
ラストの現代との対比がまた切なくなります。
戦争に
どちらかが正しいは無いのである。どちらにも正しい言い分があり、どちらにも振り返るべく誤りがあるのである。ただどちらも譲らない上層部が居るのも確かなのだ。この確かな存在の迷惑千万な意地に巻き込まれ、する必要のない苦しみを味わうのが国民と呼ばれる者たちである。この国民の中でも力の弱い存在に皺寄せがくるのは辞めていただきたいものだ。
ようやく鑑賞する気になれました。
今まで、この映画をみることを避けてきました。何故かというと、「感動ポルノ」というか、あからさまな「お涙頂戴映画」に感じて、見ると辛い気分にしかならないと思っていたからです。しかし、某氏の解説を聞き、それを確かめるために評論家気分で俯瞰視点から見るように努めれば、それほど辛い気持ちにならずに済むのではないか。そう思い立ち、ようやく見ることを決心しました。
で、見終わった後の感想ですが、やはり、見ていて辛い映画でしかなかったです。やはり、二人が気の毒ですね。子供ながらの愚かしさ、意地っ張りは判るし、それを上手く導いてあげられる大人の存在が無いのは非常に悲しむべき事だった。でも、そんな人の存在は希であり、そんな人との出逢いは奇跡であり、自分のことで精一杯だった当時の人々の事情を思えば、「悲しいけど、仕方ない」というのがギリギリ精一杯な理解です。
ただ、どうして清太にもっともっと生きるために卑屈に頭を下げさせなかったのか。もう少し上手く生きることを選択させることが出来なかったのかと思う。軍人の気の強い息子だからと、その設定を加えた時点で、そんな選択肢をつぶされてしまった様にも見えるけど。そして、そんな卑屈な生き方をさせると主人公達は惨めで醜くなってしまう。ならば美しいまま死なせてはどうか。美しいまま永遠に神戸の街を見おろす亡霊にしてしまってはどうか、というこの映画の趣向が良いところでもあり、この映画の悪徳、タチの悪いところでもあったと思う。そんな「悪いところ」があるからこそ、「感動ポルノ」ではない、渋みのある映画として鑑賞できたのだと、私は感じました。
だから、ちょっと満点を付けるのは厳しいけど、非常に良い映画だったと思います。最初にお話しした某氏の解説の中に「禁じられた遊び」という映画のことも触れられていましたが、確かにその映画と共通する点も多く、影響されて「高畑勲版」を作ったのではないかとも感じられ、十分にそれと居並ぶ名作であると思います。
戦争における最も弱い者を描いた唯一の傑作
戦争における、最も弱い存在を、徹底的に描いた作品。
そこで虐げられ、様々な救いの手からこぼれ落ち、犠牲となっていく者たちの戦いは、
実は現在も変わらず、同じ構造で、実在している。
戦争は終わっていないのだ。
男はやっぱり意気地が大切
映画の始めに最悪の結果が現れて、フラッシュバックでその経緯を詳しく語っていく。特に、清太くんは妹の節子ちゃんを守る責任を背負って、精一杯生きている根性に感心する。でも、節子ちゃんが亡くなる前に意識がはっきりしなくなったシーンを見たら、泣けるほど悲しかった。むしろ親戚が若い清太くんを丁寧に導いてあげればよかったのに。。。
決して、忘れてはいけないもの
子どもの頃に見た「火垂るの墓」の印象は、
お母さんが亡くなってしまって、かわいそうな兄妹って、あまり深く考えていなかったけど、
大人になってから見てみると、また違った捉え方になる。例えば、母が死んで、親戚のおばさんのところでお世話になる場面。子どもの頃は、おばさんのことを、意地悪なおばさんだ、ひどいってただ思っていた。だが、そうじゃない。この大変なときに、せいたは、自分のこと、妹のことしか考えていない。お世話になっているのだから、なんか恩返しを、力になれることはないのか…そういう考えが全く描かれていない。おばさんが怒るのも無理はないが、
せいたもまだ子どもだ。そういうお互いに助け合うっていうのを、あのおばさんも
教えてあげられたらよかったんじゃないかな。
せいたもおばさんに嫌なこと言われてしまってもいさせてもらえれば、2人は死なずにすんだのでは、、って思う。あと、お金の使い方を見ているとやっぱり子どもなんだよな。
おばちゃんも大人気ないよな。
空襲はいつ起こるかわからない、お腹いっぱい食べられない。そんな世の中では、イライラもしてしまうし、人格が変わるのだろうと思った。戦争は人を変えてしまう、恐ろしいものだと大人になってから改めて感じた。
今は、コロナの世界。戦争とは違うが、ちょっと似てるなって思う。コロナの「どこにもでかけられない、人と密になってはいけない」なんて
戦争に比べたら、余裕で乗り越えられるじゃんって思っちゃった。お腹いっぱい食べられるしね。
今日この日、観るべき映画を見る。
4歳と14歳で精一杯生きた。はたしてそうだったのか。兄と妹、親を亡くし誰にも頼れず、そして死んでゆく。
もし現代の子供がこの時代にタイムスリップしたら、どう生きるかを再現していると、監督自身が語っている様に、人と人との関わりが、人間の生きる術だと感じさせられる。それが出来なかった清太。
戦争孤児を描くと同時に、人間の生き方も描いている。来年のこの日にまたもう一度見よう。
人間として絶対に目をそらしてはならない。
絶対に見なければいけない映画です。
たとえトラウマになろうが 悪夢を見ようが 絶対に知らなくてはいけない。
小学生の時に 学校の授業中に見て
恐ろしい場面(母の死など)も目に焼き付いてしまいましたが
この作品に出会えて本当に良かったと思います。
戦争を知らない私達。
戦争を知る世代のお年寄りたちは 辛さ悲しさのあまり口を閉ざしたまま
この世から去って行ってしまう
けれど その歴史の記憶は絶対に 伝えていかなければ
何も知らずに さらに恐ろしい核兵器を使おうとする人達が
どんどん増えて行ってしまうのです。
目をそむけず この作品を多くの人に伝えていきましょう。子供達の世代にも。
原作の小説も子どもの時に読みましたが、
あの薄っぺらい短い本、しかも文章はただ事実を書き連ねた記録文で
あの文から 書いた人の感情とかは全く感じとれず 全く感動できませんでした。
あの本を、ここまでリアルに しかも情感豊かに
必死で生きる人々の息遣いが伝わってくる 生々しいアニメーション映画を
創りあげた 高畑勲さんはじめスタジオジブリは 天才としか言いようがない。
あの時代を生きる子供達の 日々のささやかな幸せを描くエピソード(ドロップ等)や
貧しさゆえに優しさを失っていく人間の醜さ(親戚のみそ汁や 母の着物など)
当時の暮らしを具体的にリアルに伝えてくれる 数々のエピソード
あれはすべて 原作には無く 高畑勲さんのオリジナルなんです。
本当に 天才によるすばらしい映画です。
何度見ても毎回 同じ場面で涙があふれてきます。
もうセリフもおぼえているのに。
この映画のすばらしい点は、 ありのままを正直に描いていること。
主人公を、善なる正義として描いていない。
親戚の家を出て 自分の力で暮らそうとして、結果 妹を死なせてしまう。
妹の笑顔を守りたかった気持ちはわかるが、 賢いやり方だったとは言えない。
生き抜くためには、火事場泥棒もする。悪行も盗みもする。
大人達に頼らず 共同体から抜けたことで 悪い結果になった点は
高畑監督自身も指摘している。
周囲の人々も 親戚も医者もみな冷たく 死人はゴミのように捨てられる。
人々の心が荒廃し醜くなる姿を、日本人自らが冷淡に 公平に正確に描いている。
ハリウッド映画なら ヒーロー映画として描かれる。
韓国人は「自分達の悲劇ばかり前面に押し出し、お涙頂戴の被害者ヅラ。韓国人に何をしたか描け!」と強く非難する。
この映画は、無垢な罪のない子どもが戦争に翻弄される悲劇… という見方をされがちだが、
実はもっと深く正直に、
すべての人々が心を失っていく姿をさらけ出し、
清太の姿に 共同体からはずれて自滅していく当時の日本国家の姿を示唆し、
無垢なはずの子どもさえ 大量の蛍をつかまえて 自らの楽しみのために死なせてしまう姿を描き、
戦争による荒廃を暴いている。 これこそがこの映画の深い価値につながっていると思う。
何度でも、繰り返し見るだろう。せめて一生に一度でもいい、見るべきだ。
戦争を知る世代がいなくなり、親も誰も戦争を知らない時代になっていく。
戦争の恐ろしさを伝えられる貴重な作品を、
「残酷で トラウマになるから見ない」「子供に見せたくない」なんて
弱い甘っちょろいことを言っていてはいけないと思う。
戦争は決してしてはいけないと心に刻まなければ、
戦争を推進する政治家の言葉を単純に支持してしまい、またいずれ戦争がどこかで起きてしまうのだ。今だって、すぐそばの国で いつ爆弾が飛んでくるか、いつ戦争が始まるか。
大人はきちんと子ども達の心を思いやりながら、正しい知識を伝えていく使命がある。
子ども達の未来を守るために。
毎回見る
毎年8月になると、テレビ放映があるような気がする。しかし、放映されると必ずチャンネルを合わせてしまうほど魅力があるのだ。毎回、サクマドロップを見ると、それだけで涙がこぼれてしまう。
救いようがないほどの不幸。唯一救われたのは、畑泥棒したことを咎められるが駐在さんによって仲裁されたこと。初めて見たときには、不幸だけのストーリーに違和感も沸いたが、戦争が全ての原因であることをここまで訴えているアニメだと考えると、珠玉の反戦映画であることを改めて感ずる。
反戦や悲劇がテーマじゃない!と監督が言った理由
小さい頃に一度見て、それからずっと見ないでいた作品。
アニメや映画雑誌などインタビューで監督が【これは反戦や悲劇がテーマじゃないんですよ】と言っていた事は知っていた。
だけど、その意味が分からないまま大人になっていました。
セイタ兄弟は戦争の被害者ですが
空襲でやける街を見て炎に焼ける街や人を見て 虫のホタルみたいだと言います。他人事なのです。
そして【戦争被害者であるはずのセイタ達は自分達の為だけにホタルを大量に捕まえ死なせます】
もちろん加害者の意識はありませんしホタルを狭い洞窟で死なせたのは自分達のはずなのに、かわいそうだと泣くのです。
【自分たちの利益の為に大量の命を奪う行為】に対して何も感じていない。
この構図は明らかに戦争とシンクロしています。
ここがこの映画の最大のキモだと思います。
人間は目の前の事にだけ共感し、
共感した相手がひどい目に合えば敵に対して憎しみを持ち、自分にとっての正義と悪を決めてしまう。
戦争がまさにそれです。
物語を見る我々にとっての正義はセイタ兄弟です。
盗みもワガママも妹殺しも ホタルを弄んでも
正義がやることなので、気になる人は少ないです。
セイタ側を正義として見ている人はだいたいこう言います。『子供なんだし仕方ない、戦争なんだし仕方ない』
残念ながらセイタより年下の子供が礼儀も正しく、頑張って働いてるシーンは何度も出てきます。
この作品はセイタに正義を置いてはいないのです。
そして大体の場合文句を言われるのは悪であるオバサンや助けなかった大人達等です。
危険な街に出て必死に働く娘を優遇するオバサンは悪でしょうか?
働かず、お礼も言わず、遊んでばかりの人のご飯を少なくするのは悪ですか?
空襲で人も死んでいるのに『もっとやれー(笑)』と大笑いしながら泥棒するのは正義でしょうか?
妹が死んだ途端にスイカと雑炊を食べ尽くすセイタは正義ですか?
この物語は悪でも正義でもないのです。
自分にとっての善悪を決める人間の性。
皆がその人間の性質に気づくまでは戦争が無くなることは無い。と監督は描いているように感じます。
だからこそ この映画は反戦がテーマでは無いとことあるごとに言っていたのではないだろうか。
また論争が起きるような構図を意図的に作り、議論という擬似戦争を起こさせ
争いの本質に気づかせようとしたのでは。
単純な反戦メッセージではなく、
戦争が起きてしまう元々の根幹を問いただし、本当の意味で戦争を無くす為に【気づく力】を持って欲しかったのではないでしょうか
最後の最後に幽霊のセイタは物語を語り終えて観客に問いかけるようにジッと目を合わせて来ます。そして現代のビルの夜景で映画は終わります。
我々現代の人間は過去の過ちを払拭出来ているだろうか。都合の良いことにだけ共感して、他の事に気付かない という人間の欠点に気づけているのだろうか。
余談ですが
セイタのモデルでもある原作者は自身の本の中で
妹が次第に疎ましく感じていた
妹が死んだときほっとしてしまった
と語っています。それが本心だったと・・
アニメ化が決まった時は監督に
『決して僕を(セイタ)善人のようには描かないで下さい』と念を押したと言います。
その一言がこの映画をただの戦争反対だけの映画にはしないと決めさせたのでしょう。
人間の本質と善悪の正体を描ききった芸術的映画です、素晴らしいの一言。
戦争の悲惨さ
終戦直前の神戸が舞台。
当時の子供がどんな様子だったのかがよくわかる。
実写以上の描写で、戦争の悲惨さを描いた作品。
こんなの見たら、もう二度と戦争なんてごめんだと思うわな…
同時上映だった『となりのトトロ』の後に上映されて、観客はショックで立ちあがるコトが出来ない人もいたとか…
そりゃそーだ…
俺も、もうとうぶんは見たいとは思わないなぁ~
ドロップアウト
呪いの光は美しく、衰弱していく節子の痛ましさをこれでもかと安全圏にいる我々に観せつける描写により、鑑賞後頭痛が酷くなった。
母になれず、父になれず、獣にさえなれぬ清太は、全体主義から抜け出せても、この煉獄からは抜け出せない。
供養する者が居ない人間のありのまま。
本作での光は、明確に死の直前の輝きとして扱われている。
ならば、ラストカットの光は。
よく自業自得だと言う人がいるが
戦時中という過酷な状況の中で、必死に生きる道を探し、苦しみ、踠いていく中学生に対して自業自得だと片付けるのはあまりにも非情ではないか。幼い女の子の未来を戦争によって奪われてしまった、救いのない悲劇映画として観れないのか。
全46件中、1~20件目を表示