戦場のメリークリスマスのレビュー・感想・評価
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数十年ぶりの鑑賞で込み上げた思い
数十年ぶりの鑑賞ということもあり、以前とだいぶ印象が違って見えた。例えば、坂本龍一が法廷でボウイを見てビビッと感じる時の思い。かつての私は、それは同性愛的な何かだろうと解釈していたが、今見ると、そんな次元すらも遥かに凌ぐ、非常に複雑で混乱した啓示だったように思えた。対するボウイはかつて弟に下した仕打ちが十字架のようにのしかかっている。彼もまた償う場所を求めさまよう旅人。収容所という場所でこれらの異質な思いが大きく渦を巻き、さらに狂気と無邪気さを持つビートたけしの存在が絶妙にハマる。演技が本業でない彼らだからこそ、素の境地をこれほど直感的、肉感的に表現できたのだろう。ちなみにローレンス役のトム・コンティは「ダークナイト・ライジング」にも出演。「戦場の」がノーランのお気に入りであることを考えると、同じ”牢獄でカリスマ性を持つ主人公と語らう者”としての起用には何らかの意図があったのかもしれない。
戦争状態とはどういうことか
大島渚監督作品。名作です。
戦闘が一切描かれない戦争映画。
ただ、「戦争状態とはどういうことか」を考える上では、
戦争の非戦闘時間を取り上げるほうが適切なのかもしれない。
確かに戦争の戦闘時間のほうが映画としては”見映え”がいいのかもしれない。だけど戦闘までの待機や輸送の時間のほうが長かっただろうし、日本軍の兵士の死因で最も多かったのは餓死である。だから非戦闘時間に何が起こっていたのか知ることこそ、「戦争状態」について考えることができるはずである。
では「戦争状態」とは何か。それは「論理の破壊」と「法の逸脱」が横行している状態と言えるのかもしれない。
私たちの社会は法治国家であり、論理的な法構造で制度設計されている。しかし戦争で剥きだしになる暴力や状態は、論理を破壊し、法が逸脱することを無条件に承認する。
それを表象しているのが例えば、①捕虜への体罰②日本軍の自決③ジャック・セリアズ少佐を裁く軍法会議④軍の司令⑤ハラ軍曹の恩赦である。
これらは論理を全く持ち合わせておらず、正しいから正しいというトートロジーによって担保されている。権力者の気分と暴力が絶対という不条理な状態。そんな状態は論理や法も捏造される。剥きだしの暴力。まさに「戦闘状態」なのである。
では、「戦争状態」に対抗するにはどうするべきか。実は、別様の「論理の破壊」と「法の逸脱」なのである。この別様の「論理の破壊」と「法の逸脱」を象徴しているのが、デヴィッド・ボウイ演じるジャック・セリアズ少佐なのである。セリアズは、捕虜であるにも関わらず日本軍や陸軍大尉のヨノイの命令に反抗する。それを端的に表しているのが、ヨノイが命じた飲み食いを禁ずる「行」の不履行、捕虜の死への哀悼、脱走である。
このような行為は、捕虜収容所で日本軍が論理や法を捏造し作り上げた「戦争状態」を徹底的に逸脱するのである。
だからこそヨノイはセリアズに惹かれてしまうのかもしれない。ヨノイは陸軍大尉として日本軍、権力がつくりだす「戦争状態」を実践する。しかしその「戦争状態」に抵抗するシリアズの「戦争状態」。美形もさることながら、この別様さに心惹かれてしまったのではないだろうか。
「恋愛」もまた論理や法では担保されない現象である。したがって、この作品にはヨノイがセリアズに惹かれることが描かれているのだろう。
このようにストーリーはかなり重層的で示唆的である。伝説の名作と言われる理由がよくわかる。
惚れちゃう
ボウイがエロい。
坂本龍一のアルバムは何度も聴いてきたが、映画はずっと未鑑賞だったため今回初めて鑑賞。
終始、緊張感ある描写だった。
世間一般の評価や知識なく観たが、ボウイが終始エロい。
ボウイを追う事にした。
本業ではないからこそ。
ビートたけしと坂本龍一。両者とも俳優ではない。
だからこそそれぞれがハラとヨノイを演じているのではなく、「もしビートたけしがあの時代の軍に入ってあの立場になったら…」「もし坂本龍一があの時代に軍に入ってあの立場だったら…」と思わせる様な強烈な個性があった。他も海外勢も含め素晴らしいキャスティング。
内容は同性の関係性を描いていると私は感じた。
ハラとロレンスは友情。ヨノイとセリアズは同性愛について。
セリアズは同性の私から見てもカッコいいと思う。
それは愛でない憧れで、「ああいった人間になりたい」というヨノイとは違うまた別の感情を抱いた。
八絋一宇、規律と温情のはざまを彷徨い名曲に酔いしれる。
映画館で観るのは初めて。その昔、テレビで観た時はまだ子供で今ほど深く感じることはできなかった。雰囲気の素晴らしさだけを感じていた。
大人になってスクリーンで観て、じーんと込み上げるものがあった。
八絋一宇の書が飾られている場所で裁きが行われる。
天下はひとつの家、そのための規律は守らねばならない。
がんじがらめだ。 今、宮藤官九郎がドラマ「不適切にもほどがある」で昭和50~60年くらいの時代の不適切さを描いているが、この映画の40年代は今の令和に観るとほんとにほんとに不適切にもほどがある×10レベルだ。
暴力に、公開処刑、行という名の48時間絶食、美徳であった切腹、生き埋めまで。
だが規律は守らねばならない心の攻防戦。デヴィッド・ボウイのセリアズにひと目で心を撃ち抜かれた坂本龍一のヨノイの心の葛藤が静かに静かに描かれていた。
軍人全てが心を押し殺し厳しい表情をしている中で、ビートたけしのハラの笑顔が際立っている。このコントラストが素晴らしい。
この映画の見せ場となるハラが酔ってメリークリスマスと言うシーンは最高だ。このヘラヘラした感じは喜劇人たけしにしか出せない味わい。
トム・コンティのローレンスの女とのひと時の回想、まるでタバコを買いに行ったのを待っていたかのようにその場にいたという語りは、女の姿は映像になっていないのに鮮明に目に浮かぶ。
その後のセリアズと弟の物語がまた美しい。ボーイソプラノが美しすぎる。
規律があるのは日本だけではない、男子校の代々の習わしもおぞましいくらいに不適切だ。だが当時は耐えねばならなかったのだ。耐えてこそ美徳だったのだから。
自分に気持ちがあるのわかっていて殺される上官をかばいに出ていきヨノイに2度キスをするセリアズ、カッコよすぎる!そりゃヨノイ、卒倒するわ!
そのあとの細かなシーンは描かれなかった。
ヨノイがかばっても、その後のセリアズが許されることはなかった。生き埋めはハラキリよりしんどいぞ。悲しい悲しい結末。
数年後のローレンスとハラの再会のシーンが泣けた。
間もなく死に向かうたけしの笑顔がすべての闇を救ってくれる。救い主だ。潤んだ瞳を見たら泣けてきた。
背後には美しい音色。こんな曲どうやって作ったんだろう。いつまでもいつまでも脳内ジュークボックスで無限リピートしながら帰路に着く。
大島渚の世界観、堪能いたしました!
彼我の立場を超えた関係性の美しさ
<映画のことば>
私の過去は、私のものだ。
兄も弟も多感な少年時代に、弟との関係性を上手く築けなかったことが、セリアズのその後を、ずっと規定して来たように、見受けられました。評論子には。
バタビアの軍事法廷でも、審判官の質問は当然に軍歴や軍人としての行動歴についてということだったのでしょうけれども、セリアズが頑なに自分の過去を伏せたのは、そのことがあってのことと思います。評論子は。
その法廷で、ヨノイが彼を特別の存在を感じたのも、おそらく…たぶん…飽くまでも評論子の憶測なのですけれども、ヨノイにも、同じように、何か過去に規定されて、それまで長じてきていたからではなかったから、ではないでしょうか。
そして、そのとき、セリアズもヨノイに同じような存在性を、実は(暗黙のうちに)感じ取っていた-。
そう考えると、後に、ヒックスリー俘虜長がヨノイの名簿提出の命令に、のらりくらりと従わなかったことの腹いせに、病人を含む捕虜の全員を炎天下に整列させるという無茶を彼が命じたときに、熱くなっている彼に静かにセリアズが歩み寄り、まるでだだっ子でもあやすかのように、静かにヨノイをハグして、彼の両頬にキスをした意味も、理解できるように思われます。評論子には。
(それは、もちろん、ホモセクシュアル的な意味ではなかったことは、明らかだと思います。)
お互いに異文化の中にあり、戦時と平時との違いがあり、また支配者と被告支配者との違いがあったとしても、お互いの存在性を暗黙のうちに認め合う関係の美しさというものは、普遍的だったということでしょうか。
佳作であったと思います。
(追記1)
<映画のことば>
ヘンな顔だ。
だが、目は美しい。
概して彫りの深い顔が多い欧米人にしてみれば、日本人(東洋人)の平たい顔は、ヘンに見えるのかも知れないと思いました。
その背景には、夜な夜な道場で気合いを入れている掛け声が、収容されている捕虜たちの耳には、異様な叫び声として聞こえていたことも、背景としてはあったのかも知れません。
もともと、「生きて虜囚の辱(はすか)しめを受けず」と兵卒・下士官を教養してきた日本軍にしてみれば、捕虜を待遇よく扱うことは、建前として、できなかったのかも知れません。
英米兵の捕虜の目には、さぞかし「虐待」として映ったことでしょう。
日本とて、日清・日露の両戦役を戦い抜いており、その際は捕虜の取扱いが人道的だったとして、国際的には高い評価を受けていたとも聞き及びます。
ですから、決して「捕虜の扱い方」を知らないわけではありますまい。
しかし、いつから、そしてなぜ、日本軍は「生きて虜囚の辱めを受けず」と考えるようになり、当時の軍歌の歌詞のように「敵の屍(かばね)と共に寝て、泥水啜(すす)り、草を喰(は)み」などという、無茶な戦い方をするようになってしまったのでしょうか。
(追記2)
<映画のことば>
「あの若い東條は気づいていないよ。」
「彼らは馬鹿ではありません。戦局が不利なことは、奴らも知ってる。」
「2ヶ月で終戦だよ。」
日本にとっては、最初から無理して始めた戦争であることが、開戦間もないこの時期(1942年)から、もう既に、暗く重たい影を落としていたように思われます。評論子には。
当時の政府は「勝っていられても、せいぜい最初の半年くらい。その間に、なるべく有利な条件で講和をする」という戦線不拡大の方針をとっていたといいます。
しかし、この方針に反して、「八紘一宇」などと勝手な御託を並べ、いわゆる「五族協和」「大東亜共栄圏の建設」という熱に浮かされた軍部が、無理を承知で戦線を拡大したこと以外に、この戦争の敗因は求められないと、評論子は思います。
(当時の軍部は、政府とともに天皇の大権を輔弼(ほひつ=補佐)するということでは、政府と対等な立場であり、政府の方針に必ずしも従う必要はなかった。
(今の自衛隊が政府=内閣総理大臣の指揮下にあり、いわば「政府の軍隊」であるのとは、大きく違った。)
ある種の軍事クーデターであったとも、言えるかも知れません。
そのせいか、折に触れてヨノイの執務室に掲げられていた、このお題目の額も、評論子には、目に付きました。
これは「天下を一つの家のようにすること」または「全世界を一つの家にすること」を意味する語句で、太平洋戦争中は、日本の東南アジア諸国への進出(侵略)を正当化するためのスローガンだったもの。
その理想の下では、一兵卒のとりまとめという立場上は「鬼軍曹」に徹しなければならなかったハラ軍曹の、戦後は仏門に入り、最後シーンの何とも晴れやかな、吹っ切れたような(酔っ払っていたクリスマスを除いては、それまでの作品中では見せたことのない)柔和な笑顔が、評論子の脳裏に焼きついて、消えません。
(追記3)
本作は、坂本龍一が音楽を担当していただけあって、ある種の哀調を感じさせる映画音楽の素晴らしさが思われました。
もちろん、いわゆる「戦争映画」なのですけれども、本作は。
決して「敵・味方の垣根を超えた男同士の友情」みたいな甘ったるいものがテーマではないと思われる本作において、どことなく哀調を帯びたというのか、妖艶で耽美的な風采すら感じられるのは、この楽曲あってこそのことでしょう。
その意味では「音楽が素晴しい映画」としての評でもら決して他作に劣らない一本であったと思います。
(追記4)
しかし、カッコいいですねぇ。
本作のデビッド・ボウイは。
そう思います。
同じ男性の評論子から見ても。
別に…評論子は、特別な姓的指向だと思う訳でもありませんけれども。
「男が惚れる男」って、こんな感じなのでしょう。
いわんや女性についてをや。
文明、国家、文化の衝突
産業革命発祥の国イギリスとそれに追随し、アフリカ、アジアを共に食い物に植民地にした、欧米列強、連合国軍、その欧米列強の無惨な植民地政策と暴力的恫喝に屈指、開国し、その、誤った帝国主義に習って東南アジアに軍事侵攻した日本、そもそも進み具合が違うので多少の差異があれども、出所は同じ、産業革命、資本、自由、帝国主義、軍国の度合いの違いの程度の問題だが、植民地からすれば、本質的にはどちらも同じ穴の貉で、犯罪加害国同士が互いの利権を巡って目の前で殺し合っている、優勢な日本が捕虜を、勝者の連合国が戦犯を。
一般庶民の象徴として描かれた原軍曹は、帝国日本の軍事的優越感から、朝鮮民族に対する差別意識と暴力、近代国民皆兵による家父長制、男尊女卑の影響で排他的でありながら、敗戦後、戦犯として裁かれる立場に逆転すると、キリスト教に改宗し、自らの犯した罪を悔いている。
自ら考える、思考することを止めて大衆心理に迎合する大多数の人々として興味深い。
まるで現在の平均以下の特に優れた意見を持ち合わせない誹謗中傷のよう。
救いは、個人としては、どういう形であれ、解り和えることが僅かばかり描かれていること。
「好きだったけど嫌いになりました!!」
SNSで芸能人に向けてよく言われる言葉。実は最初から好きじゃない。
映画のレビューでも「思てたんと違う」はよく見る。
勝手に理想化し失望する。
ヨノイだけ強めのアイラインをひいてる。それが気になって仕方がない。BOØWYかよ。
みんなヨレヨレなのに一人だけパリッとして、袴みたいにズボン着こなす。
要は人間離れした感じをメイクと衣装で演出してる。
ジャックもなぜか美しいと評される。カッコいいけど美しいかな?
他の捕虜から讃美歌「主はわが牧主 我はヒツジ」を歌われてる。罪をかぶって死ぬ。
キリストかよ。
二人とも神っぽい。
この二人だけじゃなく、この映画には似たものが多く出てくる。
敗戦間近の日本軍といつ殺されるかわからない外国人捕虜。
中間管理職のハラとロレンス。
恥とか名誉って言葉がよく出てくる。
お互いそれは持ってるけど、相手のそれとは意味が違ってる。
ハラもロレンスに死んでほしいと思ってる。
「俺はお前が好きだ。死ねばもっと好きになる」と言う。これは嫌味じゃない。
続きはnoteで書いてます。無論無料。
「オッペンハイマー」にトムコンティがロレンスと似た立場で出演するらしい。
誰もが戦争の犠牲者だ。
ロレンスが戦犯による処刑を翌日に控えたハラ軍曹に言った「あなたは犠牲者なのだ。」とこのセリフがこの映画のすべてのように感じる。
そう敵も味方も関係ない、この映画に登場する誰もが戦争の犠牲者なのだ。
映画作品として個性的なキャスティングもとても成功していると思いますし、坂本龍一さんの音楽がなんとも心に響きます。
タケちゃん、バウ!
ボウイー、坂本龍一、ビートたけしが同じ画面に入っていることが奇跡で、貴重。
みんな演技はド下手のシロートレベルだが、そもそも演技を見せる映画ではないので、OK。
坂本龍一なんてメイクでアイシャドーまでしてるし、三島由紀夫のような趣きで設定的にありえないのだが、まあ映画なんで、OK。
唯一まともなローレンス役のトム・コンティが実質的な主役かな。
どうでもいいが、阿部元首相に似ている。
当時、カンヌ映画祭のパルムドール最有力と言われていたが、今村昌平の楢山節考にかっさわれてしまったのは有名な話。
まあ、楢山節考の方がデキが一枚上手なので、そりゃそーだが。
20231123 新文芸坐
よう分からんけどなあ
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たけしが鬼軍曹で、捕虜で通訳のロレンスと親しくする。
とは言え、すぐ激高してシバいたりするけどね。
まあ戦争の時代なんてそんなもんなんやろな。
やがてロレンスらは他数名の捕虜と共に独房に入れられる。
ラジオだかを持ち込んだ罪だが、完全に濡れ衣だった。
濡れ衣でも、誰かに責任をとらせて処刑すると上官は言う。
でもクリスマスの夜、たけしは独断で彼らを釈放した。
酔って上機嫌だったためだが、多分ワザとだろう。
やがて戦争は終わり、たけしは戦犯として処刑される前日。
そんな時にロレンスが面会に来てくれて懐かしく交流。
ロレンスの去り際にまたたけしが上記解放時と同様の発言。
メリークリスマス、ミスターロレンス!
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結局何が言いたいかよく分からんかったけど、
戦争の中での敵味方の間での友情ってことなのかな。
たけしがロレンスらを解放して命を救ったのは、
ロレンスが好きで死なせたくなかったからだと思う。
で最後は立場が逆転して、また同じセリフを言う。
まあただそれだけのこと。でも色々感じることはあったな。
やっぱり戦場という過酷な環境は人はおかしくする。
たけしも狂気じみてたが優しさもあり、必ずしも悪人ではない。
ロレンスを殺そうとした上官だって決して悪人ではない。
むしろ両人とも、男気を持った人物だったと思う。
なのに戦争はそんなものも歪めてしまう、最大の悪。
避け続けていたけど…
今年のクリスマスにやっと観た
教授も死んで伝説の人になったし
これまでの活動に敬意を表して…
最初からあのメイクで演技していることに
強い抵抗があったことも避けたかった理由
タケシの暴力的な顔も避けたかった理由etc.
恐る恐る見たら全体的にアカデミックな仕上がりになっていたメイク腹巻き切腹であった
それにしても大島渚監督の凄さ
なんたることか…再認識した
これは世界で認められるはずだわん
それにしたら星少なw
色々考えさせられた作品
BSで録画視聴。
作品を観て、色々考えさせられた。
戦争のリアル、悲しさを体感できた。
今の戦争をテーマにした映画(特に邦画)は
内容が薄い印象。しかし、この作品に関してはリアルな現実が物凄く伝わった。
俳優坂本龍一は新鮮。
日本軍の愚行
観たのはこれで3回目くらいかな。1942年のジャワ島での出来事。デヴィッドボウイ扮するジャックセリアズ 英国陸軍少佐が坂本龍一扮するヨノイ大尉同席のもと軍律会議にかけられた。
デヴィッドボウイが英国陸軍少佐らしく非常に凛々しい顔だね。反面日本軍の愚行や浅ましさが良く出ていたよ。話の展開はともかく今から思うと大島渚監督の実力だろうが、デヴィッドボウイはじめ坂本龍一、北野武、内田裕也などよくキャスティング出来たね。
公開当時はデヴィッド・ボウイと坂本龍一のキスシーンで大騒ぎした
この作品は、公開当時映画館で観て、パンフレットも関連の雑誌も全て購入、、サントラ盤もヴィデオも購入して、ボロボロになるまで観た作品です。
この映画が公開された当時、ビートたけしさんはテレビ界の覇者といえるくらい人気絶頂のお笑い芸人さんで、坂本隆一さんはYMOで「世界のSAKAMOTO」と呼ばれていました。だからこの映画は映画雑誌だけでなく、テレビのバラエティ番組でも、テレビの音楽番組・ラジオ音楽番組・音楽雑誌でも大きく取り上げられいました。ビートたけしさんが当時やっていたニッポン放送の「オールナイトニッポン」でも生放送で撮影秘話をどんどん話してくれるので、製作中から異常な高揚感とともに映画が公開されるのを待って、映画館に駆け込んだ記憶があります。
舞台は太平洋戦争当時の日本軍の捕虜収容所で、日本軍の捕虜の虐待は戦後問題になっていたそうです。敗戦色が濃厚で、日本兵の食糧さえ底をついた状況下で捕虜に食べさせる食糧がない状況下でも日本は降伏しない。
当時はゲイの映画だと騒がれましたが、大島渚監督作品だからゲイ映画だと短絡的にみなされている印象を持ちました。戦争は国と国の衝突で、個人という視点から見ると、見ず知らずの人間にいちいち殺意をいただくことはどは、単純に考えれば無いわけで、戦争は不条理な殺戮を個人に強いる行為だと私は考えます。
「殺戮を行わない」ルールがある場所で人と人が出会って、その相手が尊敬すべき人格だったら好意を抱いたり、性差を超えて恋愛感情をもつことは、なんら異常なことではないし、それをナチュラルに描いているだけで、ジャワ島の楽園のような美しい自然の中で、とても自然なこととして描かれていました。
異常なのは、食べ物がなくて大の男たちが日本兵も捕虜の外国兵も餓死直前まで耐えているという収容所の現実の方で、戦闘シーンがないのに、とても戦争の狂気を感じる大変な戦争映画でした。
坂本隆一さんがつけたこの映画映画「戦場のメリークリスマス」は傑作で、この作品で坂本さんはラストエンペラーの映画音楽を手掛け、世界的な作曲家として渡米されました。昨年癌でお亡くなりになられた坂本さんを追悼するとともに、リアルタイムで「戦場のメリークリスマス」の制作から公開、アカデミー賞受賞の瞬間まで、テレビやラジオで観ることができて、とても幸せな時代を過ごしたなあと思います。
ボブ・ディランよりも先にノーベル賞もらっていてもいいとさえ思った人の音楽♪←あなたの感想ですよね?
この作品随分と前に観たっきりでした。
どのくらい前かと言うと、借りてきた色んなビデオテープをダビングして楽しんでいた頃なのね。←パトライトグルグルのタイホー案件。
DVDなんて、まだまだなかった時代。音楽メディアでCDがやっとこさ市場に出てきたくらいの時代。
なので、お話の中身をすっかり忘れているです。というか、音楽&ビートたけしの存在感と坂本龍一の目力の印象があまりにも強すぎて、他のことがあまり記憶に残ってないの。
特に坂本龍一による音楽の妙味は、印象という名の背脂を三日三晩コトコト煮込んでから脳髄に染み込ませてたが如く、絶対に忘れられないの。←日本語でおk
ビートたけしのラストのカットのあれ「ローレンス!メリークリスマス!Mr.ローレンス」の時の表情なんて、歴代映画史の中に刻むべき名カットだと思ってるの。あの、うるうる澄んだ瞳はずるいわ!ラストのラストでたけしが美味しいところを全部持ってったって感じ。
そんな思い出を辿りたくて&時期がら楽しんでみようと思ってアマプラでの再鑑賞です。
てか「メリークリスマス」なんて表題している割に、我が国での公開は初夏だったんですね。
合衆国に至っては真夏の8月じゃないですか!(笑)
「最高のクリスマス映画の一つにも選ばれている(Wikipediaから抜粋)」のに、本国では7月公開だった『ダイ・ハード』みたいな感じ?
改めて観てみるとね、出し惜しみなしで、しょっぱなからドーンとやられちゃいました。とても印象的なタイトルロゴのバック流れるメインテーマに。
この映画の坂本龍一による音楽ね、ボブ・ディランよりも先に音楽ジャンルでノーベル賞もらっていてもよかったとさえ思ってるの。私は。
詩が乗っていないんで文芸性云々では同一に語れないんだけれど。
それほど優れている音楽だと思うの。私は。
英国アカデミー賞の音楽賞の器程度に収まるようなものじゃないと思うの。私は。
本作が長らく人々の記憶に残っている功績の半分は、間違いなくこのメインテーマのおかげだと思ってるの。私はだよ!
優れた映画が音楽に恵まれているのか、逆に音楽が優れているから名作に名を連ねているのかは、わからないんですが。
『大脱走』しかり『荒野の七人』しかり『ロッキー』だとか、巨匠ジョン・ウィリアムズの手による作品群もそう。←抜けてる作品が多すぎる!タイトルだけ挙げて書いても、それだけで少なくとも文字数制限の倍くらいになっちゃうと思うんですよね。
映画史に名を残す超名作って、もれなく音楽が大きく貢献してるって思うの。
本作は興行収入だけ見れば、そんなに大した数字じゃないんだけれど。
当然音楽だけじゃないんですよね。
デビット・ボウイ、坂本龍一、ビートたけしの化学反応ときたら、まさに奇跡のコンボでした。よね?
特にたけしがいいのね!
相当、頑張ってはいらっしゃったんだろうけれどさ、素人演技丸出しだったですよね。拙い。だが、それがいい。
目力とメイクが妙にクセ強い坂本龍一も。演技は正直誉めらたもんじゃないけれど。活舌が悪いの差っ引いても目力が強烈なインパクト残してしていましたよね。
そんなヨノイがセリアズを見る目の妖しいこと妖しいこと。親戚の綺麗なおねいさんのパイオツをチラ見した時の純なDT君みたいな。
たけしと坂本龍一の撮影に関しての逸話も、Wikipediaで色々と記されていたんだけれど、どれもが爆笑物なんですよね。
大島監督が、なんでこの二人を起用しようと思ったのかに、かなり興味があります。
デビッド・ボウイの演技に関してはわからないの。だって英語さっぱりだもん。巧いんだかどうなんだか、わかんないんよ。
Wikipediaの記述によると、ヨノイとハラはキャスト決定までに色々な経緯があったそうですね。打診した俳優が、ことごとく「スケジュールの都合を理由に断った」だけじゃ説明つかないの。やっぱり同性愛色が強すぎるってことが理由だったんだんでしょうか?
候補に挙がっていた、沢田研二のヨノイ、勝新太郎のハラなんて見てみたかったかも。
内田裕也とか、ジョニー大倉とか、本業じゃない人をあえて脇に持ってきた理由も知りたいの。
デマの粋は出ないんですが。ゲイ疑惑のある三上博史もご出演だったのですね。どこのシーンかはさっぱりわからなかったんですが。てか!デマにしては悪質すぎるよ!
この映画ね、戦禍の時代の男たちの友情(愛情?)物語を表現するのなら、他にいくらでも表現あったと思うんですが。
なんであの描き方を選んだのかが本当にわからないんですよ。
女装はするけれど、恋愛対象は、依然女性の私には。そこがわからないの。←こら!またしれっと女装ネタぶっこみやがって。
その意味こそ本作のテーマだったと思うんですが。
私にはもうひとつよくわからなかったの。
私にとっての友情ってのは、裏切りの連続だったから?情が薄いから?
「ヒャッハー!これでええんやで!」みたいな大味のエンタメ大作や、「これ…一体何なん…」って言うようなカルトB級~Z級作品が好みの私にはよくわからなかったの。こういう文芸的映画って、アホの私にはよくわからないの。
本作では露骨に“ホモ”とか“オカマ”って言葉が、度々使われてるんですよね。
それが、数々の名優にオファーを断られた原因に間違いないと思うです。
今では、もっともっと理解があるですよね。三上博史も大手を振って歩ける時代が来たよね。←だから!
私如きでも女装しても許してもらえる時代ナイス。←よくないよ!
止めておいた方がいいついでに思いついたんですが。今日の俳優でリメイクした物を観てみたいなぁ…と思って。
ヨノイは松坂桃李で、ハラは阿部サダヲなんていかがでしょうか?←しょうか?って問われてもなぁ…ですよね。済みません忘れてください。
セリアズについては…わかんない。海外の俳優に関しては全く疎いから。
で、済ませるのも言い出しっぺとしてはヒキョーなのでPC検索フルに回して調べてみました。
すると適役いらっしゃったよね!ハリー・スタイルズなんていかがでしょうか?←しょうか?って…
ローレンスは、ほんま難儀しました。“ダスティン・ホフマンに似た俳優”で検索かけたです。←だから!なんでダスティン・ホフマンなの!
そうするとね、自分で思いついておいて言うのもアレなんですが、割とイケそうなの俳優がいらっしゃったです。
マシュー・グードなんてええじゃないか?済みません忘れてください。てか、誰それ状態?
肝心なのは監督だよ!誰だよ!こんな作品リメイクできるのは誰だよ!庵野秀明でないことだけは確実だよ!『Shin・Merry Christmas, Mr. Lawrence』とか(笑)
ところで“ヨノイ”って姓を漢字ではどう書くの?と思い。また定期の脱線話で調べてみました。
正式な文献ではないのですが、知恵袋で私と同様の???を持った方が質問していらっしゃいました。
その回答として「四ノ井”と“与野井”、確認されているのはこの二つのみです。」との回答がありました。
ついでに脱線話です。こういう作品に出会った時、いつも思うことがあるの。
きっと「日本軍人の描き方がステレオタイプ過ぎる」とか言われてたと思うの。
百歩譲って、切腹とかは、武士道ってので説明できると思うんですが。
この国にに生まれた私でも、切腹とかマジありえねーしって思うの。海外の方々にしてみれば「こいつらマジで狂ってやがる!ウジ湧いてやがる!」ってなりますよね。
でもねその他、囚人に対する仕打ちだとかって何?一体どこの何基準でステレオタイプなんだろうって。
場所を問わずにそんな酷かったん?至る所にわけわからん石碑立てられるくらい酷いことしてたん?←素人レビューに政治ぶっこむなし!
久しぶりの戦メリ
公開当時、自分は子供すぎて、たいした理解もせずに観ていたのではないか。
久しぶりに思い出して、ずっと観直したかったこの映画を観た。
戦争の中で、デビッドボウイと坂本龍一の男同士の愛を打ち出した映画と思っていた。
でも、そんな単純なものではなく、ボウイの生い立ちや色々なものが混ざり合った複雑な感情が見えた。
坂本龍一の作る音がこの映画を引き立てている。
ボウイと坂本龍一の存在も美しく退廃的。この映画を特別な物にしているのは間違いない。
異文化の表面的理解。かみ合わなさ、すれ違い。
原作未読。二つの短編を一つにまとめたらしい。
DVDについていた解説には、大島監督が「極限状態の中でも友情が生まれることを描きたかった」とおっしゃったと書かれていたが、私にはそうはとらえられなかった。
原作ではそういう物語が展開しているのだろうか?
日本軍俘虜収容所を支配していた雰囲気。
道理の通らぬ狂気。
切腹と言い、セリアズ少佐への処刑の仕方と言い、日本人である私が見ても、反吐が出る。
個々の日本人もいろいろな思いを持っていたはずだが、見事にヨノイ大尉とハラ軍曹に集約されている。(事件を起こすカネモト以外には、ヨノイ大尉に心酔している兵士が自らの意思で行動を起こすくらいで、あとは命じられたままに動く人形として描く)
対して俘虜の方が個々の様子も描かれる。その中で、個性をもって描かれるのは、ロレンス陸軍中佐、セリアズ陸軍少佐、ヒックスリー俘虜長(大佐)。
ヨノイ大尉。
DVDの解説にもあったが、三島由紀夫氏を彷彿とさせる。
実際の三島氏については語るほど存じ上げていないが、この映画のヨノイ大尉は、精神年齢がかなり幼く描かれる。自分の信じている精神性を最高のものとして、俘虜のみならず、自分の部下にも強要する。ロレンス中佐が「我々に”行”を命じれば、自分もやっている」というシーンがあるが、自分のみならず、部下にも強要しているのであろう。
その容貌・身体的なしなやかさのみならず、わずか5人で危険な任務に挑み、1人生還して捉えられ、しかも死刑を前にしてもその闘志を失わないセリアズに惹かれていく。自分では秘めていると思っているその思いは駄々洩れ。心酔している部下がそれを案じ、行動を起こすも、その思いに腹を立て、信じられない処遇を命じる。
ヒックスリー俘虜長が、自分の思い通りに動かないと、キレて暴言を吐き、暴力に訴えて従わさせるしか能がない。まるで、反抗的な児童・生徒を前にした、力のない教員の如く、権力に縋って従わさせるしか能がない。
ロレンス中佐を獄へ入れるのは、無線機に対する落とし前をつけなければ示しがつかないという、不良グループによくあるような論理・スケープゴート。かつ、セリアズ中佐とともに戦ったことがあり、自分よりも親しいロレンス中佐への嫉妬から、排斥したがっているようにも見える。
それを、求道者の純粋性として見るか。私には小学5年生レベルにしか見えない。
裁判ではハムレットを持ち出して西洋文化にも通じているように見せるが、実際は自分の理解したいようにしか理解していない。ヒックスリー俘虜長たちが求める国際法すら理解しようとしていない。自分の精神性を押し付けるだけ。
対して、ヒックスリー俘虜長。
頑固。ではあるが、銃器に詳しいものの名簿を出せば、どんなことになるかを考えて応じない。”長”として、部下を守ろうとする気概がある。
相手の文化(日本文化)を理解しようとしない点では同じだが、上に立つ者としての責務は知っている。
ロシアにて拘留された俘虜たちがどんな生活をしていたかと比較すれば、ここと似たようなものではあるものの、少なくとも、ヒックスリー俘虜長はこの収容所での待遇改善に尽力している。
セリアズ少佐。
過去の思い出から、希死念慮を抱き、それが英雄行為に結びついている。その元になった過去の思い出も映画で描かれているが、正直、あの思い出で希死念慮は理解しがたい。それでも、帰りたい場所への憧憬は美しく、胸に迫る。
そんな心情をベースに、納得のいかないことヘは確固たる信念をもって反逆する。希死念慮をもつとはいえ、”死”への恐れはあり、震えながらも、踏ん張り、視線をそらさないところが、格好よく見える。髭剃りのパフォーマンスも見事。死を覚悟して整える姿。
「映画史上最高に美しいキスシーン」ドス ベソス(dos besos)。スペイン文化圏(ラテンアメリカ含む)で行われる挨拶。初対面やビジネスシーンではあまりやらないけれど、紹介されたときとかちょっと知り合っただけでも行われる。性的な意味合いはない。ラテンアメリカに居たときにラテンアメリカーノから聞いた話では、元々敵意がないことを示すパフォーマンスだったという。まだスペインが各国に分かれていた戦国時代。ギャング抗争の激しい頃。会談等で、武器を隠し持っていないよと示すパーフォーマンス。
セリアズ少佐がどのように思っていたかは表現されていないが、殴りかかって阻止すれば暴動になり、あの場にいた全員が殺される。それをあの突飛な行動で、阻止した勇断に感銘を受ける。
だが、ここに友情はあるのか。ヒックスリー俘虜長は、自分の代わりに俘虜長に成り代わりそうだったセリアズ少佐に命を救ってもらった恩義は感じたであろうが。
ヨノイ大尉は、自分の思いを”性愛”とは考えず、死をも覚悟した任務を遂行する気高き同志として思っていただけ。かつ、日本人同士でも身体接触には慣れていなかったであろう。しかも、スペイン圏の風習など知っているわけもなく、このパフォーマンスをどう受け止めてよいのか、ただたじろぐ。
セリアズ少佐はもとより、ヨノイ大尉が自分に示す情には気づいていただろうが、彼の思想を理解するつもりも、その情に応じる気持ちもなく。”行”をくだらないものと破った如く。
それに対する処刑。どうして銃殺でなく、あんな過酷な仕打ちなのか。他の俘虜たちへの見せしめなのか。白い砂、四方に張られた紐が、結界を示すしめ縄のようにも見えて…。
ロレンス中佐。
日本にいたことがあり、日本語が理解できるので、双方の橋渡し的な役割を担う。その経験と、キリスト教の教え(汝を苦しめるものを許せ:デ・ヨンへの葬式の言葉)にのっとり、「日本人個人を恨みたくない」という信念を持っている。また、皆で生きて帰るために、うまく立ち回ろうとしている。
長いものに巻かれろ的な立ち回りで、俘虜たちのためになるときと、誤解を受けるとき、厄介なことに巻き込まれるときと…。
ハラ軍曹。
私にとって一番理解に苦しむ。彼は度々ローレンス中佐に俘虜になることは恥だという。「俺だったら自決する」と言い切っている。にもかかわらず、ラストのシーンでは、捉えられたときに自決せず、裁判を経て、”死刑”となる。それも「他の奴がやったことと同じ」とも言う。しかも、片言の英語もマスターしている。何があったのだろうか?もともと、「自分は天皇家の英兵」というアイデンティティに酔っていただけで、有言実行にはならなかったのか。
”友情”を語るのなら、唯一、ハラ軍曹のロレンス中佐への思いであろう。思いがけなく、無線機により、処刑の危機にさらされてしまったロレンス中佐。それを酔ったふりして、セリアズ少佐ともども救う。ヨノイ大尉の意に背けば、場合によっては、自分が切腹を命じられるのにも関わらず。それでも殺したくはなかったのであろう。幸い、ヨノイ大尉は振り上げた刃の落としどころに困っていたから、別のスケープゴートを差し出したハラ軍曹へは、皇室のしるしがある煙草を渡し礼を示したうえで、別の仕事(降格?)を命じるだけにする。
ラスト。ハラ軍曹はロレンス中佐に「メリークリスマス」を贈る。キリスト教や欧米文化を理解してというより、俘虜収容所での唯一の人間らしい行いの思い出。それを胸に死に向かうことを示しているように見えた。その言葉を受けるロレンス中佐の笑みは、俘虜収容所で浮かべていたものと同じもの。恨んではいないものの、ハラ軍曹の思いを受け止めているとは思えず、表面的な理解をしているハラ軍曹を憐れんでいるように見えた。
Wikiを読むと、「(監督は)『セリアズ、ヨノイ、ハラそれぞれが自分の思いを伝えられずにいる』という女子中学生からの感想の手紙が、東洋と西洋の対立といった海外の反応や評論家よりも、よっぽどこの映画の本質を捉えているように感じられたという。」とある。
それだったら、腑に落ちる。セリアズ少佐は弟に、ヨノイ大尉はセリアズ少佐に、ハラ軍曹はロレンス中佐に。そして、カネモトとデ・ヨンのエピソードも意味を持つ。
だから、この凄惨な映画の中で、セリアズ少佐の思いが家に招き入れられるところが、弟に思いが伝わったようで、少し気持ちが落ち着くのであろう。
キャスティングによって、永遠に語り継がれる映画。
Wikiによると、どの役柄も変転している。候補に挙がった方々で作ったら、別の印象になりそうだ。だが、この反吐が出そうなシークエンスが続く映画で、このキャスティングだからこそ、また見返す気にもなる。偶然は必然なのだと思った。
極限の果ての愛
恥ずかしながら大島渚監督の映画は見たことがほぼなく、唯一見ていたのが「御法度」だった。
御法度と戦メリに共通することを探しながら見ていて、これらの映画は同棲愛を描いているのではなく、常に生と死が隣り合わせの極限の状況の中で生まれる愛を描いているのだろうと思った。
愛に戸惑い不器用になってしまいながらも他人に魅せられていく、そんなキャラクターたちを、演技未経験の坂本龍一や北野武が演じているのが、良いのか悪いのか分からない。
棒読みで動きも固い坂本龍一の演技は、その固さが、愛に戸惑うヨノイそのもののようにも見えたし、でもそれは少し酔いすぎた見方かとも思ってしまう。見ている私自身がその佇まいに動揺し、考えざるを得ないのだ。
しかし棒読み演技をそのように捉える事が出来ることこそ、この作品の魅力かもしれない。演出、シナリオ、そして音楽、これらの強度が高いからこそ、役者のあらゆる姿があらゆる角度で見ている者に迫ってくる。それもまた大島渚監督の手腕であるのだと思った。
御法度でも思ったが、どうしようもなくなっていくキャラクターの心情を、丁寧かつ大胆に描いていくのが上手い。
大きなアクションがあるわけではなく(作品の時代背景や舞台として、誰かが死んだり拷問があるというアクションはあるが)、キャラクターたちは流れる時間の中を懸命に過ごしていく。その積み重ねがやがて大きな感情になっていくのを、この映画はしっかり描いている。これは本当に凄いことだと思う。
誰もそれぞれの思いを言葉にしてはっきりと伝えられてはいないが、その言葉にできない思いが画面から溢れて伝わってくる。そして人はそう簡単に思いを吐き出せないのだと、思い出させてくれる。
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