はなればなれに(1964)

ALLTIME BEST

劇場公開日:

はなればなれに(1964)

解説

ジャン=リュック・ゴダール初期の名作で、アメリカの犯罪小説を原作に、2人の男と1人の女が織り成す恋模様や犯罪計画をコメディタッチに描いたメロドラマ。

冬のパリ。性格は正反対だが親友同士のフランツとアルチュールは、北欧からやってきた美しく奥手なオディールにそろって一目ぼれをする。ある日、オディールの叔母の家に大金が眠っていることを知った3人は、その金を盗み出そうと企むが、計画は二転三転し……。

当時夫婦だった、ゴダール監督とオディール役の女優アンナ・カリーナが設立した製作会社「アヌーシュカ・フィルム」の第1弾作品。音楽は「シェルブールの雨傘」のミシェル・ルグラン。日本では長らく劇場未公開だったが2001年に初公開された。

1964年製作/96分/フランス
原題:Bande a part
配給:マーメイドフィルム、コピアポア・フィルム
劇場公開日:2023年4月29日

その他の公開日:2001年2月3日(日本初公開)、2017年1月21日

原則として東京で一週間以上の上映が行われた場合に掲載しています。
※映画祭での上映や一部の特集、上映・特別上映、配給会社が主体ではない上映企画等で公開されたものなど掲載されない場合もあります。

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(C)Gaumont

映画レビュー

3.5これこそ映画だ!

2023年6月7日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

この映画には、原作も脚本もあったに違いないが、かなりの部分まで即興で撮られたのだろう。圧巻は、アンナ・カリーナの演技。最初は憂鬱そうだった。その時の彼女の心の状態を反映していると思われる。それが、小津の映画との一番、大きな違い。
しかし、深夜のカフェのダンスで一変する。可憐なアンナ!動き出しの瞬発力(加速度)が素晴らしい。残念ながら、わが同胞との違いがここにある。しかも体が動くと気分も活発になる。有名なルーブル美術館のシーン。私が何より好きなのは、買い物に行くと叔母に偽って家を出て、小道を走り、セーヌの支流に設置されているボートを伝って川を渡るところ。かっこいい車と犯罪も、主人公たちの動きの下地となる道具か。ただ、叔母の家に、仲間と押し込むところから、また表情が曇るところは、残念。ゴダールとの仲が影響しているのかも知れない。
ヌーベルヴァーグの雰囲気もあちこちに。男友達の一人の名は、アルチュール。途中で出てくるのは、ルイ・アラゴンの詩。ミッシェル・ルグランの音楽には「シェルブールの雨傘」の一節も聞こえる。ゴダールのナレーションもよい。この映画の続編が「気狂いピエロ」であることを教えてくれる。
それにしても、邦題は何とかならなかったのか。原題はbande à part, 英語のタイトルは、band of outsiders, もし私が訳すのなら「はずれ者たち」か。

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詠み人知らず

3.5スタイリッシュ!

2023年5月2日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

誘われて予備知識なく鑑賞。扉のところから60年代モノクロフランス映画の遊びの映像世界にはまりました。実存的に生きる若者たちの物語は予測不能。
このところ「パリタクシー」、「幻滅」、当作品、と続けざまにセーヌ川に酔った!
映像と音楽と役者の表情の小気味良いマッチング。シンプルな映画製作の時代だったんですね。
私には理解できなかったけど、ゴダールなりに過去の他の人の作品へのオマージュも散りばめられていたらしいです。
そしてアメリカが世界の中心だった時代。パリの若者が英会話教室に通うって、なんだか別世界みたいだった。

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Kumiko21

3.02001年に銀座テアトル西友で観たはず。

2023年4月22日
iPhoneアプリから投稿
鑑賞方法:映画館

正直大丈夫か(ちゃんと面白がれるか)不安だったけど。
私でも観られた。

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なお

4.5パリところどころ

2022年12月12日
iPhoneアプリから投稿

もし物語的カタルシスだけが価値のある映画の条件なら、映画はとうの昔に文学によって駆逐されているに違いない。エクリチュールの饒舌に比してパロールはあまりにもたどたどしく拙い。しかし映画は言葉とは別に運動を有している。人間や動物や乗り物やあるいはカメラによる、言葉を超越した動きのダイナミズムがある。それこそが映画だ、と言い切ってしまってもいいかもしれない。一瞬で生成消滅する「運動」を逃すことなくカメラに収め、それを一流料理人のように流麗かつ大胆な手捌きでカッティングできる自信があるというのなら。

ゴダール映画の中では言葉が嵐のごとく乱れ舞う。それらは時に詩のように受け手の心に突き刺さり、時に無意味で難解なレトリックとして思考の稜線を滑り落ちていく。おそらく多くの受け手にとって、こうした言葉の、つまり物語のどっちつかずで不安定な手応えが「ゴダールはとっつきにくい」という苦手意識を生み出している。私もマジでそうだった。

だってわけわかんねーじゃん、ふとした日常の話の中にランボーだのパウル・クレーだの毛沢東主義だのが唐突に混入して、しかも特に何も説明ないし、そういう物語的脱臼が延々と続いて、これがヌーヴェル・ヴァーグだと開き直られたらハイそうですか私がバカでしたと回れ右せざるを得ない。

しかしよくよく見てみれば、実のところゴダールは運動の人なのだ。彼の映画において言葉は、物語は、言ってしまえば添え物に過ぎない。小説でいえば、それまで一言一句を丹念に追っていた目線がスーッと滑っていくような、そういう他愛のない箇所。それゆえ彼の映画を見る際に、本当に見るべきは運動なのだ。目を見開き、スクリーンの上で何が起きているかに着目する。

犯罪小説に憧れて強盗を企む3人組。彼らは唐突に夜のカフェで踊り出す。BGMに合わせ、軽妙なステップで延々と踊り続ける3人。しかし周囲の客はそれを歯牙にもかけない。すると突然音楽が止まる。カフェの環境音が戻り、3人の靴音がカンカンと鳴り響く。するとまた音楽が始まる。3人は踊り続ける。また音楽が止まる。始まる。延々と続く。

あるいはルーブル美術館での疾走。3人は9分40秒ほどでルーブルを一周したアメリカ人の記録を打ち破るべく、全速力で美術館を駆ける。おそらく撮影の許可などは取っていないのだろう、他の客は何事かと彼らを瞠目し、警備員は全力で彼らを止めにかかる。

あるいは隘路をグルグルと回る小さな車。庭先をあちこち野放図に駆け回る子犬のように。

あるいはオディールを柱越しにやんわりと抱くフランツ。

あるいは「キスの仕方がわかるか?」と問われてベッと舌を出すオディール。

それらの鮮烈な運動のフラグメントは、物語からも演出からも隔絶したところで営まれる断続的なモンタージュによってより一層輝きを増す。『爆裂都市』が「暴動の映画ではなく映画の暴動」であるとするならば、本作はさしずめ「映画のフリージャズ」といったところか。そこでは言葉や物語といった旧弊なコードは後退し、運動の身体的な享楽と解放感がいきいきと現前する。

思えばヌーヴェル・ヴァーグとは、メロドラマ的な物語と壮大な音響によって受け手を催眠術的に陶酔状態へと陥れるような旧来の映画作品に対する反感をその最大の推進力としていた。そして本作は、それまでのクラシックな「映画」の要件を抜きにしても映画が成立することを、男や女や車や街やカメラやカッティングの荒唐無稽で自由闊達な運動によって示した。

要するに、ゴダール映画の物語に馴染めずに途中で寝落ちても、それをシネフィル的怠慢と気負って落ち込む必要などはそもそもなかったということだ。うつらうつらとわけのわからぬまま見終わって、それでもあそこのショットはよかったな、と一つでも心に刻まれる一瞬の運動があれば、それでもう十分なのかもしれない。てか映画ってそういうもんだよね。

ようやくゴダール映画の見方がわかった気がする。ちょっとだけ。マジでちょっとだけ。でも『イメージの本』とかは無理。何アレ。やっぱゴダールなんもわからん。

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