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▼ 清原惟監督作品 『わたしたちの家』





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映画『わたしたちの家』オフィシャルTwitter
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清原惟監督作品情報
https://twitter.com/kiyoshikoyui



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第68回ベルリン国際映画祭・フォーラム部門正式出品
第42回香港国際映画祭・インディーパワー部門招待上映
2017年PFFアワードグランプリ受賞作品


2018年1月13日(土)より渋谷ユーロスペースにてレイトショー


清原惟監督作品
『わたしたちの家』



■出演
河西和香 安野由記子 大沢まりを 藤原芽生 菊沢将憲 古屋利雄 吉田明花音
北村海歩 平川玲奈 大石貴也 小田篤 律子 伏見陵 タカラマハヤ

■脚本:清原惟 加藤法子
■プロデューサー:池本凌太郎 佐野大
■撮影:千田瞭太
■照明:諸橋和希
■美術:加藤瑶子
■衣装:青木悠里
■サウンドデザイン:伊藤泰信、三好悠介
■編集:Kambaraliev Janybek
■助監督:廣田耕平 山本英 川上知来
■音楽:杉本佳一
■配給|HEADZ
■宣伝|佐々木瑠郁

2017年/80分/アメリカンビスタ/5.1ch/カラー/DCP
東京藝術大学大学院映像研究科映画専攻修了作品



黒沢清監督絶賛!
突然変異的に現れた天才映画作家による清新で鮮烈なる劇場デビュー作

父親を失った少女と、記憶を失った女性の、まったく別々の物語が、ひとつの「家」の中で交錯する


セリはもうすぐ14歳。父親が失踪して以来、母親の桐子と二人暮らし。最近、お母さんに新しい恋人ができて複雑な気持ちになっている。
さなは目覚めるとフェリーに乗っており、自分にかんする記憶がなくなっていた。彼女は船内で出会った女性、透子の家に住まわせてもらうことになる。
二つのストーリーは独特な構造を持つ一軒の同じ「家」の中で進行する。これはいったいどういうことなのか?
映画史上、誰一人として思いつかなかった、特異で甘美な室内劇。
謎に満ちた形而上的スリラーであり、切実でピュアな青春映画であり、女同士の友愛の映画であり、ユニーク極まる建築映画でもある、類いまれなる魅力を放つ作品。
監督の清原惟は東京藝術大学大学院で黒沢清、諏訪敦彦両監督に師事、本作は同修了作品である。
本作でPFFアワード2017グランプリを受賞。
第68回ベルリン国際映画祭・フォーラム部門に正式出品が決定した。







一方が現実なら、もう一方はマボロシで、そっちが現在なら、あっちは過去だということになるのだが、いやひょっとすると全員が幽霊!?…
一軒の日本家屋を舞台にして、目もくらむような物語の迷宮が展開される。まるでヨーロッパの前衛小説を読んでいるようだ。


―― 黒沢清(映画監督)



1+1が2になるのではなく、互いに依存することも葛藤することもなく、ただ1と1としてあることで世界を開いてゆく。
その「開かれ」に風が吹き込むとき、ふたつの淡い物語の旋律はやがてひとつの響きとなって、世界をみずみずしく息づかせるのだ。


―― 諏訪敦彦(映画監督)



この映画から多くの霊感を受け取りました。
わたしは、その油断のならない簡潔なスタイルと、日常の美しさを楽しみました。
『わたしたちの家』は、わたしたちの存在の問いを投げかけます。
それは、わたしたちの経験が、わたしたちだけではなく、他者たちの想い出によって造られていることを教えてくれるのです。
There are many moments of inspiration from this film.
I enjoy the deceptively simple style, everyday beauty. 
OUR HOUSE posts questions of our existence, and suggests that our experience is not only built by ourselves but by the memories of others. 

―― アピチャッポン・ウィーラセタクン | Apichatpong Weerasethakul 



「わたしたちの家」は、言葉と映像と音の張り詰めた連鎖と交錯で、わたしたちを、どこでもないどこかへ連れ出してくれる。
そのどこかは、この作品を見た人の数だけある気がする。でも、見ないとわからない。


―― 瀬田なつき(映画監督)



この映画には、家には、二つが住んでいて、どちらが表でも裏でもなく、どちらが主でも副でもなく、
映画の原理と、人生の原理が住んでいて、私の映画、が見ることで生きていたので、私は映画、を見ながら暮らした。


―― 飴屋法水(演劇作家)



女たちはこの家では何度でも出会うことができる。
見えるものと見えないもの、そこにいる人といない人のあいだに、この映画は誘い出してくれる。
これから出会うかかもしれないわたしたちに、その場所を開いてくれる。


―― 柴崎友香(小説家)



清原惟監督は「それ」にかたちをあたえず映画にした。
「それ」は「それ」としか言えないからこそ「それ」であり続けることができる。名付けられる前の風景が『わたしたちの家』だ。


―― 山下澄人(小説家)



どのカットも凛々しく、何も起こらない奇跡を見ているよう。
音や衣服の不思議な色気。
舞台となるひとつの/ふたつの家の、無人の間にさす光と陰。
何かは起こっているのだけれど、それは見えない。
そこに誰もいないというのは、いったい、どういうことなのか。
そこに誰もいない、と誰かが思う時、そこに本当に誰もいないなんてことがありえるのか。


―― 滝口悠生(小説家)



障子に穴あけるだけでインターステラー!!

―― 岡田利規(演劇作家、小説家、チェルフィッチュ)



この家には部屋があり、窓があり、障子があり、境界がある。並行する2つの世界は1つの場所で共振していく。
複数の時間が流れながら、物語は2つの喪失からはじまる。創作に対する真摯な姿勢が作品から表れています。


―― 蓮沼執太(音楽家)



その薄氷を踏んでしまうことへの勇気と慎み。
私しかいない青春のおぞましさと他者への畏怖を込めた闇の描写、
その切り結びは一見の価値あり。
本当は怖いことに、初々しさと野心でもって触れている。


―― 野口順哉(空間現代)



美しい映像と構成の妙はもちろん、どうやって思いついたの?と聞きたくなる数々のカット、
どうやって撮ったの!?と聞かずにはいられないカメラワーク。
静かでささやかな革命が『わたしたちの家』では起きている。


―― 額田大志(作曲家・演出家)



地味そうで不思議・・・
どこにでも居そうでどこにもいない・・・
不思議な可能性に満ちた普段着のスリラー


―― 大江治(TVプロデューサー)



清々しい傑作。
一見して平凡な日常に穿たれた穴を少女たちはいとも簡単に発見し、
どこでもない場所へ軽々とすり抜けてゆく。
この少女たちがどこへ行くのか、まったく予想がつかない。
サスペンス映画の最良の伝統を想起させつつ、
(『レベッカ』、『セリーヌとジュリーは舟で行く』、
『マルホランド・ドライブ』等々……)、
よく見ればどれにも似ておらず、捕らわれていない。
この映画を見て、自分までとても身軽になった気がした。


―― 三浦哲哉(映画評論/研究)



あの家の中でこの映画が観たい。そして、あの障子の穴を見つけたい。あの花瓶に腰を抜かしたい。

―― 坂元裕二(脚本家)



ふたつの家族がひとつの家屋に気配だけを感じて生活していく物語。しかし、ここにはもうひと家族が関係している。それは我々観客だ。観客もまたその家屋に住んでいる三番目の家族である。全ての映画で観客は劇中人物にとっての幽霊である。そのことをこの映画は気付かせてくれる。
我々観客とは一個人ではなく、集団であり家族的であることも証明する。映画観賞するということは、同じ出来事に遭遇し、共通の経験を持つということで、同じ空間/時間を共有していること。我々はある意味、家族でもあり無意識な集団でもある。映画体験では常に同じことが起きる。
劇中登場する家屋は決して特別な場ではない。どこの固有の場所でもそれは起こり得るし、長じてどこの土地や地域にでも起こり得る。そしてその土地性とは、人間の皮膚の上でも起こり得るはずだ。土地とは決して所有者が一人ではない。植民地化、領土化され得ないトポスの問題を提起。
〈ひとつの空間を占有する/占有できない〉物語ではなく、仮に別の場所、もしくは別の時間であると仮定してみる。同じ場所ではない場合と同じ時間ではない場合。またはどちらでもない場合。セリとサナとトウコ、もしくは母は同一人物かも知れない。サナは過去の自分に贈り物を。。
我々は空間/時間を完全には占領/領土化出来ないのであれば、例えば肉体的個体も占領/領土化出来ない可能性もあるのでは。登場人物の自己同一性の問題。サナは過去に自分(サナ=セリ)が放った浜辺での光のサインを船上で傍受した。もしくはあの家に住み続け変貌したセリがトウコ。
夕食時中にAMラジオから流れてくるバッハ。AMラジオでは周波数は安定せず輪郭も朧げ。FMラジオのように周波数がピタリと正確に合うのではなく、前後の周波も束状にまとめて拾って傍受する。背後にある大きな電波の流れを感じることができる。この映画の本質ではないか。


―― ヴィヴィアン佐藤(非建築家、ドラァグ・クイーン)











「だれかの幽霊」

清原 惟



 小さいころ、自分の人生はだれかの夢なのではないかという想像に取り憑かれていた。何がきっかけでそのような考えを持つようになったのかはわからない。物心がついて、恐怖の感情を意識的に感じることができるようになった頃だと思う。自分の人生は、手術中で麻酔によって昏睡している知らない大人の女性が見ている夢で、ある日目覚めたら私は消えてしまうのではないか。まるで幽霊になったような感じがして本当に恐ろしくて、どうか目が覚めませんように、と恐怖の中で必死に願っていたのだった。大人になるにつれてその想像は薄れていったが、この感覚は世界の不確かさとして私の中に残り続けた。
『わたしたちの家』という映画をつくった。ありがたいことに、ぴあフィルムフェスティバルでグランプリを受賞し、1月13日から渋谷のユーロスペースで公開されることになった。この映画は少し変わった形をしていて、二つの物語が同じ一軒の家で同時に進んでいく。いわゆる「平行世界」のようなものと言えるかもしれない。一方の話はこうである。中学生のセリは母親の桐子と古い家で二人で暮らしていて、父親はいない。桐子に新しい恋人ができたことと、忘れられない父親の思い出との間で気持ちが揺れ動く彼女の日常を描いている。もうひとつの物語では、船の上で記憶を失くして目覚めた女・サナが、年下の女・透子と出会い、透子の住む古い家で同居を始める。サナは透子の一風変わった暮らしぶりと、どうやら彼女が怪しい活動をしているらしいことに、漠然とした不安を抱いてゆく。この二つの物語は、どちらかが過去でどちらかが現在というように時間軸で仕切られておらず、同時並行で進行している二つの世界なのだ。
 J・S・バッハが作曲した「フーガ」を聴いていたとき、この映画の構造の着想を得た。私は音楽を聴くのが好きだ。もちろん映画も大好きなのだけれど、音楽は他の芸術とは少し異なった形で自分との関わりを持っている気がする。それは自分の身体を通り過ぎて直接心に触れてくるような感覚だ。「フーガ」は複数の独立した声部から成り立つ音楽の形式で、声部同士は主旋律、伴奏といった関係ではなく、それぞれが主旋律のような存在だ。ある旋律を声部同士でやまびこのように繰り返したり、重なり合ってハーモニーが生まれたりして、その声部たちの集合体はまぎれもないひとつの音楽となる。独立しているにもかかわらず、互いに影響しあっている。そのことにとても心動かされる。
 ひとりの人が奏でた旋律に、知らない世界のだれかが奏でた旋律が重なって、ひとつの大きな音楽になる。知らない世界のだれかとは、この映画のように別世界のだれかかもしれないし、地球の裏側に住むだれかかもしれない。はたまた、かつての私の想像のように夢見るだれかかもしれない。それは奏でている者自身が全く想像できない音楽になるはずだ。  マルグリット・デュラスの言葉を思い出す。「音楽の中には、完成が、私たちが現実には遭遇できない時間があると思う」。デュラスはこのことをとても恐ろしいと、だから自分は音楽を聴くことができない、と言っていた。映画は現実の時間と必ず関係を持つことになる。しかし、いくつもの世界が重なり合うことで、観る人の中に生まれてくる時間とは、現実では遭遇できない時間なのかもしれない。
 とても抽象的で難しい試みを、ぐっと具体化に近づけてくれたのが「家」という存在だ。複数の物語を何か具体的なもので結びつけたい、と考えた時に「家」という空間を思いついた。思えば「家」や「住居」というモチーフに、私はいつも惹かれるところがあった。「家」はすべての始まりであり、みんな何かを終えたあとに「家」に帰ってくる。そこにある記憶の集積、人がその家に対して持つ記憶もさることながら、「家」自身が持っている記憶というものもあるのではないかと思うことがある。
 どのような「家」で撮るべきかと思案し、多くの家を見て回った。その途中で一軒の古い家と出会った。その家は約90年前に建てられた家で、かつては商店だった。初めは炭屋さん、次に牛乳屋さん、その後にタバコ屋さん、そして今は「飯島商店」として音楽やダンスの公演をしたり、展示をしたり、普通に人が住んだりしている空間だ。この家に出会った時、まず普通の現代人が住む空間ではないと思った。果たして作品のイメージに合うのだろうか。当初想定していたのは、ごく普通の人が住むような、生活を自分のものとしてイメージできるような家だったからだ。飯島商店に実際に住んでいる家主さんが言っていたことで印象的だったのが、「この家に住んでいると自分も幽霊なんじゃないかと思えてくる」という言葉だった。幾度も形を変えて生き、多くの人生を抱えてきた、とてもたくさんの記憶を持つ家は、幽霊が出そうというようなありきたりな恐怖を飛び越えて、自分自身が幽霊のような、記憶の一部となってしまうような感覚をもたらすのだろうか。この家に魅入られた私は、この空間に向き合うことができれば、自然に立ち上がってくる時間や記憶が映画に焼きついてくれるのではないかと考えた。それから脚本を、この家に合わせて大きく書き変えることにした。
 撮影は二つの物語を撮影期間の真ん中で真っ二つに分けて行われた。二つの話が前半後半と完全に切り離されて撮影されたので、それぞれの物語の出演者はお互いに顔を合わせることがなかった。最初に彼女たちが揃ったのは上映の時だったと思う。いや、正確にはスクリーンの中かもしれない。彼女たちが互いの存在を知らぬまま映画の撮影が進んでいくというのは実に奇妙であり、それはまるで映画の中で起きていることそのものだったと、後になって気づいた。  映画の物語が進んでいくにつれ、二つの世界を隔てる薄い膜のようなものに穴が開き始め、交わる気配をみせる。登場人物たちは互いの存在を少しずつ感じはじめる。それは具体的な存在のようでもあるが、お互いがお互いにとっての幽霊のような存在とも感じられる。この映画はホラー映画のようだと言われることがある。そんな風に見られるとは思っていなかった。ホラー映画には幽霊の存在が不確かなものだからこその恐怖がある。でもこの映画では、幽霊の正体は最初から明かされているのだ。にもかかわらず、そこに怖さがあるのだとしたら、それは自分自身がだれかの幽霊になってしまう怖さなのかもしれない。

(初出:「新潮」2018年2月号)



















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